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日記 1月7日

1月7日(金)
昨日寝た時間 :24時
今日起きた時間: 5時半

時差出勤(早出)のため、5時半に起床。良く起きることができたと自分でも感心してしまう。朝ご飯はカロリーメイトとサプリメントとホットミルク。流石にこの朝食は侘しく、朝から切なくなってしまった。せめてバナナは準備しなければ。6時過ぎに家を出るとき、まだ外は真っ暗で真夜中と惑うほどだった。朝が長いのと、昼が長いのと、夜が長いの、どれが一番幸せなのだろう。それはもちろん人による。

今日から與那覇潤「知性は死なない」を読み始める。東畑開人との対談か何かでこの人の記事を読んだことがあった記憶があり、興味があったので読み始めた。今のところはあまり面白くない。パラパラとページを捲りながら取り敢えず何となしに100P超を読んでいるが、今のところ、この本がどういう本なのか、実態が掴めていない。うーん、これはもしかしたら読み終えずに終わるかもしれない。今しばらくは頑張ってみる。

年始から3日も働いて疲れた。帰りの電車は、座れたら何回も気絶するように意識が途絶え、瞬間的に数分寝るような感じだった。明日はやっと休み。嬉しい限り。朝寝坊しよう。

今日は8時~16時半過ぎまで働き、18時半前に家に着いて、そのまま息子の空手の付き添いで車を30分超運転し、現在に至る。毎週金曜日は息子はやや遠方で空手を習っており、在宅勤務ではないときは、今日みたいに時差出勤して、定時で上がって、帰宅後に直ぐ車で出発、という流れになる。

僕の父親の世代は団塊の世代で、半ドンという土曜日も働くような感じだった。父親と平日にご飯を食べた記憶はあまりないし、平日に習い事に付き添ってくれたことは当然ない。僕は今、どんな気持ちでいるのだろう、というと2つあって、1つは「意識せずにやっている」ということ、もう1つは「子供が自分の子供を持ったときに」ということだ。

ここ何年か、利他について考えている。その始まりはサルトルが「贈与ではない贈与」を構想していたことを知ったことから始まり、アメリカの効果的利他主義とか、ロールズの片鱗に触れたり、格差とか社会関係資本とか、パットナムの本を読んだりとか、そんなものに触れながら、「やらない善よりやる偽善だなあ」とかを通過して、今は「思わずやってしまうこと」「思わず体が動いてしまうこと」というのが重要であり、必要なのだろうという感じになっている。アフォーダンスというのか。とにかく、この「思わずやってしまうこと」「思わず体が動いてしまうこと」が資質の本質で、少なくとも子供について自分は今のところ、当たり前なのかもしれないがそんな感じでいる。

もう1つの「子供が自分の子供を持ったときに」というのは、とても意識している。家事とか家のことは夫婦それぞれが協力して行うもの、ということが自然だと思える環境。僕の父親は家では料理はしなかったし、洗い物もごみ捨ても風呂掃除も、自分の靴磨きだって母親がやっていた。それが当たり前の情景だったから、そういうものだと思っていたけどそんなことはないし、これからの時代は共働きがベースだから、ジェンダーロールなんていう概念は極力持たない方がいい。加えて、自分がされたことが当然になって且つそれが呪縛になるから、親が子供を大切に思って行動していれば、それが継承されていくと信じている。というか、信じたい。だから、自分が自分の子供を大切にすれば、自分の子供はそのまた子供を大切にし、そんな連環がずっと繋がり続ければいいと思っている。

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