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「お金のために働く」 と見えなくなること


「なぜ働くのか?」と問われた時、あなたなら何と答えるだろうか?

咄嗟に「お金を稼いで暮らしていくため」と答えてしまうかもしれない。それも正解だろう。だがこれはかなり “生物的欲求” に近い回答だと言える。例えるなら、「なぜマンモスを狩るのか?」と聞かれた原始人が、「肉が食べたいから」と答えるのに似ている。

現代における働くという行為は、原始時代とは構造が異なる。
原始人の場合は、マンモスを狩る(= 原始時代の労働)ことで、肉(= 原始時代の対価)がそのまま自分にもたらされた。要は、労働の対価がダイレクトにもたらされるのである。
一方の現代人は、労働と対価で “誰か” を挟み込んでいる。もし、あなたがスタバでバイトをしていれば、ドリップしたコーヒーはあなたではない誰かに振る舞われる。そして、その誰かがあなたの労働の対価としてお金を支払うのだ。つまり、労働が直接的に対価になるわけではなく、あなたの労働を享受した誰かが、その御礼として対価を与えるのだ。

「原始人の場合、労働がダイレクトに対価になる」
労働:マンモスを狩る
↓ 
対価:肉
「現代人の場合、労働を享受した誰かが対価を支払う」
労働:スタバでコーヒを作る

誰か:コーヒを飲む

対価:金


以上の構造の違いを踏まえて最初の問いに戻ると、「なぜ働くのか」に対して「お金を稼ぐため」と答えるということは、飛躍的かつ短絡的な回答となってしまう。だって、必ず存在するはずの、この “誰か” を無視することになるのだから。

今更このような話をしているのは、自身への戒めのためでもある。

世の中の多くの人(私を含め)が対価ばかりを追求して仕事をしていると感じている。同年代の平均年収、他社のボーナス、今月の残業代、などなど。そして、コロナ禍がこうした関心に拍車をかけているのも事実である。

だからこそ、この状況でこそ、”誰か” に目を向けることが大切だと思う。
”誰か”の役に立っている、”誰か”にこんなに喜んでもらえた。そういう精神的効用は、心の保養となり、その積み重ねは人生の財産となる。

「お金を稼がずボランティアをしろ」とか「自由に好きなことやろうぜ」とか言いたいわけではない。今いる環境の中で見方・角度を変えることで、見えていなかったものが見えたり、見えていると勘違いしていたことに気が付ける。

今、僕たちの労働に対価を与えている人は誰でしょう。
そして「なぜ働くのですか?」と聞かれたとき何と答えますか?


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