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性的マイノリティ自称って自分探しの系譜なのか?

私には発達凸凹(神経発達症=いわゆる発達障害)があります。
その特性から見て、以前から虹色旗運動(LGBTQ+とかアンブレラタームとか…)に引っ掛かりを感じ続けているんですよ。
そのことを、また少し言語化してみます。


以前、自称ノンバイナリーの身体女性の方の話を見たのですが、
「妊娠・出産への並々ならぬ嫌悪感から、自身がノンバイナリーである、と気付いた」
という内容でした。

これ、「女」であったって、妊娠・出産など御免被る、と感じる人がいるのは当然のことのように感じるんですよ。

「女」としての生理現象に嫌悪を感じる、って、単純に恐ろしいし、その現象が生きていく上での「障害」になることが多々あるから、なんじゃないかと思うんですよ。
生殖に関してはどうしたって、「女」の身体的負担が大きいですのでねぇ…。
なので、二次性徴で身体が大きく変化する10代のころなどは特に、女でいるのは嫌だなぁ、と感じることが、割と普通にあると思うんですよね。

で、自称ノンバイナリーの身体女性って、とても繊細な人が多いように見えるんですよ。
繊細だからこそ余計に「女の身体」や「性的な荒っぽさ」に嫌悪感を持つんじゃないか、と感じるんですよね。
もし、そういう理由であるならば、コレって、【性別違和】ではなくて【HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)】の問題なんじゃないか、と思うのですが…。

このHSPって、医学的な用語ではないのですが、そういう特徴って、私の問題である発達凸凹(神経発達症)と結構関連することが多いんですよね。
発達凸凹って、大概感覚過敏と感覚鈍麻を併せ持っていますので。

だからそういう人達のことが気になってしまうんですよ…。


私はフィメイル(生物的に女)だし、恋愛対象は男、なので、パターンとしては極一般的です。

だけれども、現実にカレシとかめんどくさいモノはいらん!と思っているし、20代の頃は職人系のおいちゃんたちに「小坊主的立ち位置」でかわいがってもらい年中飲みに連れまわしてもらっていたし、見た目もどこか「ぼーずぼーず」してるんですよ。
一般的に言う「女性的な人生」とはだいぶ違う生き方をしてるんですよね。

これをLGBTQ+的な考え方に当てはめると
「あなたはノンバイナリーなのね」
と言われるかもしれないですよね…。

それでも私は自称他称関係なく、フィメイルなんですよ。

これ、ノンバイナリーという新たな性別を作らなくたって、フィメイルの中での考え方や文化の多様性、で良くない…?

社会的な女性らしさ・男性らしさ(=ジェンダー)と、性別は、一緒にしなくたって良くない…?


以前、「自分探しの旅」って流行ってましたよね。
単なるルーティーンになってしまった日常から離れて、本当の自分自身を見つけに行く、というやつです。
それ以前には「アダルトチルドレン」という概念が流行っていました。
機能不全家庭で育った人が、生きづらい今の人生の軌道修正を模索していく、というモノです。

これ、どちらも【生き辛さを感じる人】が、生きやすさを獲得するために【本来の自分自身】を探求する、という考え方と行為なんですよね。

ノンバイナリー(自称としての性的マイノリティ)という概念も、これと似た物なんじゃないかと感じるんですよ。

なぜだかよくわからないけれど生き辛さを感じる人が、自分の育った家が機能不全家庭だった、と気付くことで「アダルトチルドレン」という新しい【アイデンティティ】が見つかって、気持ちが安定する。
「アダルトチルドレン」の問題を解決すれば生きやすくなるはずだ、という希望が持てる。

それと同じ効果が、【性的マイノリティという自称】にもある、と感じるんですよねぇ…。

生き辛さを感じていた人が「自分はメイルでもフィメイルでもない、第三の性別だった」という、【新たなアイデンティティ】を発見して、
性的マイノリティの問題=世間的な差別を解消すれば生きやすくなるはずだ、という希望を持つ。

自分自身を変えていくアダルトチルドレンと、世間の対応を変えようとする性的マイノリティ。
問題解決の手法は違うけれど、双方共に自己イメージとして、客観的事実以上に、自分自身が納得できるかどうかの【概念】なんだと思うんですよ。

アダルトチルドレンもノンバイナリーも、細かく要素をあげていけば、かなり大勢の人に当てはまりますしねぇ。


客観的事実はさほど加味しない信念、って、ヒトが生きていくために必要なモノだと思うんですよね。
ぶっちゃけ、【希望】って、大体そういうモノですのでねぇ。
更に、ストレス過多な逆境の中にある人ならば、そういう【希望】がなかったら、それこそ生きていけないです。

ちょっとオーバーな話になりますが、精神疾患の妄想(自傷行為なんかも)って、そういう希望の役目があったりもするんですよ。
これ以上の闇に落ちないように、その妄想を頼る・固持するんですよね。
これって、病気が寛解して来ると、妄想も解けて行くんですよ。
「確固たる確信」という訳ではないんですよね。
それでも、当事者にとっては「本当の事」なんですよ。
だからといって、周囲の人がその妄想を事実として扱ってしまうと本人は更に固執してしまうし、否定してしまうと心を閉じてしまうしで、どちらも病状が悪化してしまう…。
なので、周囲の者としては、本人の言う事を肯定も否定もせず、ただ話を聞き「うんうん」と寄り添うことしかできないんですよねぇ…。

上記は病人への対応ですが、病人に限らず、客観的に事実であろう事とは違う主張をする人には、やはり同様の対応をするしかないんですよね。

以前、自称ノンバイナリーの人が
「女性として扱われて、とてもショックで立ち直れない」
と嘆いていたことがあったのですが、これ、周囲としては対応のしようが無いんですよねぇ…。
客観的にフィメイルに見える人が自称とは違う女性として扱われて立ち直れない程にショックを受ける、というのは、やはりHSPの問題があるんじゃないか、と感じてしまうんですよね。

本人の持つ【概念】の通りの現実対応を望まれても、それは実現できない、んですよ。


以前、養老孟司先生が
「自分探しの旅に出る? 探すも何も、アンタ、そこにいるじゃないか」
と、身も蓋もないことを言っていましたが、正にソレなんだと思うんですよ。^ ^;

【今・ここ】にある現実・自分自身を無視してしまったら、未来を構築して行けないし、希望は単なる空想でしかなくなってしまいます。

現実や実生活を、それぞれ違うみんなの空想に合わせることなんて出来ない、んですよねぇ。


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