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帰属と多様性と欲望と秩序と…
前回書いたトランスジェンダリズムの話。
あーあ、と思いつつXを見ていたら、
内田樹先生のこの投稿を見つけた。
「理解と共感」ベースでものごとをとらえるのはいい加減やめませんか。「理解でき、共感できる相手」だけが「ふつう」で、それができない対象は「異常」だというような雑な認識だと複雑な現実には対処できませんよ。理解も共感もできない人たちと共生するためには何が必要かを考えた方が合理的です。
— 内田樹 (@levinassien) July 12, 2024
必要なのは別にそれほど魔術的なものではありません。「社会契約」です。法律とか約束とか契約とか、そういうものです。それを「額面通り」に履行するなら、さしあたり理解も共感もできない他者とも共生し協働し「よきもの」を創り出すことだってできる。
— 内田樹 (@levinassien) July 12, 2024
今の日本を見ればわかりますけれど、「社会契約」を恣意的に解釈して、それを「理解でき共感できる仲間内」で「だよな~」と納得してけらけら笑ってしまうと、「理解でき共感できる仲間」(僕はそれを「部族」(tribe)と呼びますけれど)以外の人たちとは共生も協働も不可能になる・・・
— 内田樹 (@levinassien) July 12, 2024
この30年くらい人々は「理解でき共感できる身内」がどこからどこまでか精密な境界線を引くことを「アイデンティティーの確立」と称して、その不毛な仕事にひたすらうちこんできました。そして、ある日気が付いたら「社会契約」が無効になり、知らない人たちはみな「敵」に見えるようになっていた。
— 内田樹 (@levinassien) July 12, 2024
しばらくの間「アイデンティティー」と「共感」という言葉の濫用を自制してみませんか。その方が複雑な現実を見るときに、すこし現実の解像度が上がると思います。
— 内田樹 (@levinassien) July 12, 2024
僕はご存じのとおり共感性の低い人間です。精神科医からは「サイコパス」という診断名も頂きました。だから「共感ベース」では社会生活が営めません。他人「ほんとうのところは何を考えているのか」がわからないのです。しかたがないので「社会契約ベース」で暮らしています。
— 内田樹 (@levinassien) July 12, 2024
僕は約束を守りますし、法律も守ります。どうでもいいことについては世間の常識に従います。「こんな擬制に何の意味がある」とかすごんだりしません。意味があろうとなかろうと、それしか僕には生きてゆく手がかりがないんですから。レヴィナスに出会ったときに衝撃を受けた理由がいまではわかります。
— 内田樹 (@levinassien) July 12, 2024
「他者は理解も共感も絶した絶対的他者である」という言明はべつに哲学的に構築して出て来たのじゃなくて、レヴィナス先生の実感だったのです。ハイデガー哲学の本質は「共感」だと感じた。だから契約と律法の上にのみ人間関係は構築されるべきだと考えた。それなら他者と共生できる。殺さずに済むと。
— 内田樹 (@levinassien) July 12, 2024
本当に、その通りだ、と思います。
アイデンティティって、自分一人だけでは見いだせないモノで、
結局は「私はどこに帰属しているか?」で判断するんだと思うんですよ。
例えば、私だと「神経発達症の傾向のある、外れ値の特性を持った、日本の関東弁話者」とかね。
(フツーはもっと具体的な、○○家の人間、とか、△△学校出身者、とかになるんだと思う。)
自分が、そのグループの属性に近いナ、と感じる特徴が、自分の特徴であり、自分の帰属先だ、と思うのよネ。
帰属意識って、安心の元でもあるけれど、排他的な感情の元だったりもする。
同じ「部族」で生まれ育った人ならば、同じ文化を身に付けているから、不文律が使えるからコミュニケーションが楽、なんですよね。
だから大きい企業とかは、とりあえず大学名で人を選んだりする。
同じ学校に通ってた人ならば、実家の経済力とか体験したこととか、だいたい揃えることができますもんねぇ。
意思疎通が楽なら仕事の効率も上がります。
でも、人口が減っていく日本国内でコレを続けるのは無理があるし、
外圧だのなんだのもあるだろうし(w)、
全体的な意見として、とりあえず
「多様性、良いんじゃない?」
みたいなノリになったけれども、その多様性を受け入れる文化は、まだきちんと出来てないのよね。
実際、障害者雇用の制度なんてムチャクチャですしねぇ…。
で、日本だけじゃなくて、人間のいるところではどこでも、やっぱ「変わったヤツ」は弾かれるから、帰属する場所が無いんですよね。
そうするとアイデンティティが迷子になって、自分が何者であるかわからなくなり、もともと変わっているヤツの言動が更に不安定になっていく…。
だから、帰属できそうな集団を見つけたとき、一気に心酔しちゃうんだよねぇ。
帰属先の文化に心酔しちゃえば、当然視野狭窄になるから
「これこそが正義だ!」「これを理解できないヤツは悪だ!」
なんてことになってしまう。
もともと弾かれていたヤツが、こんどは他人を激しく糾弾しはじめる…。
この構図、トランスだけではなくて、規模は全然ちがうけれどオタク界隈とか障害者界隈とかでも、「あるある」な光景なんですよねぇ。
んで、ちょっとコレ、ポピュリズムとプロレタリア革命とか民主主義革命とかまで思い起こしてしまった^ ^;
イヤ、ちょうどポピュリズム感満載の都知事選が終わったばかりだったし、ねぇ…大袈裟な連想でスミマセン^ ^;
んで、サ。
怒られるかも知れないけれど、
一部の自称トランスジェンダーの人たちって、「障害者」という下層身分に落ちるのが怖いから、
「そうではない!トランスジェンダーだ!」
と言い張っているのかなぁ…と見えたのよ。
障害者って、単純に、最頻値に合わせられない人、と私は思っているのですが、一般的には最下層民を意味したりするんですよネ。
だから余計に身分の闘争!みたいに感じるのよね。
特にMtoFの人は、男性文化の中で「敗者」扱いされてきたから、
ここで「女性という身分」を手にいれれば、当然「女」より腕力があるワケだから、一気に「勝者」になれる!なんて考えてるのだろうなぁ、と思うわけですよ。
(実際、女性枠のスポーツで無双してみたり、職場の女性採用枠を取ってみたり…等々あるワケだしネ)
本来のダイバーシティとかインクルージョンとかって、
「能力による競争で人間の価値を決めるのはやめようよ」
という意味があったハズなのですが、
そういう理想よりも、
「オトコとしては勝ち上がりたいノダ!」
という欲望の方が強かった、ということなんでしょうねぇ。
大して意味の無い「勝ち負け」にこだわる人って、一種の承認欲求モンスターになってしまうから、周囲の人が困ってしまうのよねぇ。
本来のジェンダーフリー、「ジェンダーをトランス(越える)する」という意味だって、
「社会的役割を性別で固定するのはやめようね」
という意味だったはずなんだけど、いつの間にか
「女性の装いをしていたら、完璧な女性として扱わないのは差別だ!性別は自由にトランスできるんだ!」
なんて話にすり替わっているし…。
何か新しい社会的な動きがあると、「それに乗じてのし上がってやる!」という欲望に、全部乗っ取られちゃうんだねぇ…。
「欲望を抑えられない人」に対しては、「ルールを守ってネ」としか言いようが無いのだけれど、欲望を前にしたらルールなど無意味!というなんとも勇ましい(=男性に限らずオトコらしい)人が多すぎるのよね…。
ルールの必要性がわからない、という「認識の限界」を持つ人も、結構たくさんいますし。
果たして、この現状から公正な契約・秩序は得られるんでしょうかねぇ…。
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