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それでも音楽は囘っている / 経歴

音楽活動中心の経歴です。

【要約】
大学のクラブで友人と出会い、作曲に没頭。その後、音楽活動と会社員としての生活を両立し、様々な困難に直面しつつ、ついに念願叶いヨーロッパでのライブを実現。
しかし、脳貧血や妻との別居などの試練により、自らの行動を振り返り、新たな気づきを得る。家族の支えを受け、音楽と向きあいながら"ささやかな幸せ"を追求することを決意する。

人生半ばを超えているので長くなりますが、よろしければお読みください。

タイトルは作家の吉田篤弘さんの大好きな著書『それでも世界は回っている』から拝借しもじりました。

ちなみに"囘る"(まわる)には迂回するという意味もあるそうです。

自分の人生はより道ばかりで決して綺麗な線ではないですが、いつの頃からかその背景にはいつも音がまわっている

ように感じ、このタイトルにしました。


幼少期:

演歌歌手になることをあきらめ、即興でピアノ伴奏をしていた父親の勧めでピアノ教室に通う(いやいやだったので1年でやめる)。この時の経験が後に演奏に役立つことになるとはつゆ知らず。

高校2年:

TM Networkが好きになりYAMAHA SY85購入。マニュアルを見ても操作方法が分からず、キーボード・マガジンのスコアを見ながらなんとなく打ち込みを始める。三木楽器のシンセ教室に通うも自分にあわないと感じて半年くらいで辞める。

大学:

音楽や芸術関係に行きたかったが、親や周囲に相談することもできず、経済学部に進学。その影響があってかなかってか十二指腸潰瘍になる。

いくつも病院で診察してもらうも

年齢的にその病気にかかるとは考えられないとされ、痛さで睡眠がとれない状態が続き原因がわからずに過ごす。

死にかける寸前、救急で病院に行き夕食後の状態で胃カメラをされたことで、ようやく病名が発覚し入院(この時の辛さで一度死んだと思いました)。

1学年の時に入部したインスト専門の音楽系クラブで同期の友達ができ、作曲や坂本龍一、YMO界隈、マニアックな海外の音楽をたくさん教えてもらう(この時の出会いが音楽人生の大きな転換点となる)。

SY85のシーケンサーで30秒くらいの人生初オリジナル曲を制作。それ以降、書籍を読みあさりキーボードの練習をする日々(インターネットが出始めた時代なので今と比べて情報が限られていた)。

クラブは縛りが多く、改善を相談するも聞き入れてもらえず、また前例主義が強すぎたため可能性を感じることができず退部。

バイトでお金を貯めながら少しずつ機材をそろえる。YAMAHA 4trのMD MTRとサンプラーSU10、MC-303、nord lead2、zoomのマルチエフェクターを買い、宅録でオリジナル曲を制作。

曲を作ってはMTRからテープにミックスダウンする日々。卒業するころ、初めてCD-Rで作品を制作し感動。

当時購入したSU10 VHSサイズのレトロなデザインが好きで今でも手元に

卒業後 第一期(暗黒時代):

音楽で世に出る夢を叶えるため、何度も転職を繰り返しながら音楽活動と会社員との両立がはじまる。ピアノソロで一度ライブ演奏をしたあと、ボーカル兼ティンウィッスルを担当するメンバーとDUOでライブハウスでの活動を開始。

スタイルはアコースティック(それまで打ち込みの曲ばかり作っていたのですが当時ライブハウスに出ている打ち込みを使ったアーティストの音作りがあまりにも酷く、自分の打ち込みの音もそう聞こえるんじゃないかなと思い込み、生楽器のみで行くことにした→これが大きな間違い)。

人力での表現に固執したことがあり、左手でグランドピアノを弾きながら右手でボンゴを演奏したこともあった。

当時、厳しい意見ばかりを言われ、またチケットノルマを払い続けることに無理が生じ、3年程で活動を辞める(この時期はまさに暗黒時代)。

音楽が嫌になり精神的に病む。音楽活動から離れ、かつ仕事が落ち着いた(転職せずにいつもより長く続いた)のでこの頃に結婚。

第二期(希望のきざし):

他人にどう思われてもいいと開き直る。ユニットのコンセプトを変え、打ち込み(オケ)を併用したスタイルで活動再開。チケットノルマのない場所でライブをするというスタンスを根底に置く。

心無い意見もあるにはあったが思ったよりも反応が良かった。(負担なく活動が継続することを基本スタンスにした)

以前に知りあったボーカル兼ギターのメンバーと3人で別ユニットを結成。初期のmumなどに見られるグリッチや音色を多用し、かつ生楽器と電子楽器を融合し、ポップに消化したエレクトロニカのスタイルで活動。(ボーカル兼ギターのメンバーが作曲、自分は作詞と編曲、まれに作曲を担当)

反応がすこぶる良く、確かな手応えを感じた。2010年に応募した「FRED PERRY×高橋ユキヒロ氏×Myspaceコンテスト」にて音源が一次審査を通過したり、MySpaceと雑誌『サウンド&レコーディング・マガジン』にてKEN ISHIIさんの音源素材を使用したコラボレーションコンテストに入賞したことからも(#6)、自分の音楽性が通用するのではないかと思い始める。

しかし、2枚のEPをリリースし、活動が上手くいきかけた矢先、方向性についてメンバー間の意見の食い違いが発生したことでユニットは解散。

悔しさや失意におおわれる中、そのユニットで培ったスキルや経験から、自分の表現に確かな自信を感じた。

第三期(充実):

解散したバンドの音楽性を引き継ぐ形でDUOの音楽性をエレクトロニカに変える。そして新しい要素として民族楽器を取り入れ、結果的にフォークトロニカとなる。

活動再開後、新しくギターのメンバーを加えてから活動が飛躍していく。カフェやお寺、住宅展示場、文化遺産、野外フェス、デパートなどで活発にライブを行いつつ定期的にEP、アルバムをリリース。

何度かメンバー交代、増員を経ながらこれまでとは比較できないくらい充実した活動となる。(演奏場所は毎回変わるほどバラエティにとんでいた)。

無名なバンドであったが、他にはない独自の音楽性やイベントとの相乗効果の価値を感じて頂いたことで、演奏料を頂きながら活動。

楽器メーカーのzoomさんの楽曲コンテストで優秀賞を頂いたり。極めつけは海外はドイツ、フランス(世界遺産の広場)、ルクセンブルク、国内は東京ビックサイトでの演奏をする。ずっと思い描いていたヨーロッパでライブをするという夢がついに叶う。

パリでの演奏

ひとつひとつのライブにかけるエネルギーの量がとんでもなく大きくなるが、なぜか活動結果が目に見えるような形で次のステージへと繋がらない。

事務所やレーベルに所属できず、アーティストとマネジメントの両方を自身で行うことで心身は疲弊。結果が出ないジレンマ、焦り、ストレス、理想と現実の乖離を無視してただ突き進んでいくだけの日々(ピンッと張った糸が今にも切れそうな感じ)。

そんな中、サラリーマンをしながらそれ以上の熱量で音楽活動をし続けた無理が心身に現れはじめる。

瞬間的にストレスを感じた際、脳への血流が弱くなり引き起こされる脳貧血が発症。冷や汗、極度の頭痛、めまい、呼吸不全、意識消失により急に死にかける状態になる。そして発症回数が少しずつ増えていく。

ひどい時は脳貧血を発症している時に終電間近まで会社で業務をせざるをえない状態にまで精神と身体を酷使していた。(今思えば馬鹿すぎるほど精神が麻痺していた)

そして拍車をかけるように最悪の事が起こる。自分の理想通りにいかないいら立ちから、夫婦仲が悪くなり、ある日突然妻が別居に。

自分がどれだけ配慮のないことをしたのか、なぜそういうことを起こしてしまったのかを毎日自問自答する日々。納得する答えはでないまま、それでも自分の過ちを認めることから始める。人生で一番泣き続けた。

時々連絡が取れた際は、できるだけ妻の話を聞いたり自分の改善すべきことを話したり教えてもらったり、自分のどうでもいいプライドなんて完全に捨てようと決心した。心に穴が空くとはまさにこういう状態。

音楽で世に出る夢に向かって頑張り続けた結果、たどり着いた先にあったのは脳貧血と妻の別居

自分は一体何を手に入れるために苦しい時もがんばってきたのか。答えはなく、どんどんネガティブになっていく。音楽活動を始めたこと、がむしゃらにやって来たことすべてを自身で否定し続けた。


1年半が経過。

奇跡が起こる。妻が別居から戻って来てくれた。妻にすべてを救われる。

第四期(コロナ禍以降):

心身の状態に向きあい、いたわり、過去の価値観が少しずつ変わっていく。以前とは違う感覚で、音楽を表現したい気持ちが湧き上がる。

ダブプレート(レコード)やパッケージまでこだわった作品のリリースや、演奏動画撮影などの活動をおこなう。その反面、音楽をやり切った感があり、今後の方向性をどうすればいいのかを悩んでいた時、コロナ禍になる。田舎への移住を決意。

音楽活動から離れ協力隊の活動でがんばっていた中、理不尽すぎる出来事が起こり、解決策を考えるもどうしても未来を考えることができず、一年少しが経過した後に帰阪。その出来事がフラッシュバックし精神的に追い詰められる。

現在、家族のサポートのおかげで少しずつ前を向くことができ、もう一度好きな音楽に向きあっていこうと思うようになる。

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人生半ばを過ぎ、改めて心と身体を大切にすることがどれほど重要か身にしみて分かります。そしてどんな時もサポートしてくれる妻がいてくれて本当によかったと感謝しています。

自分の性格は何かにつけて"足らない"ばかりでした。

どんなにいいライブをしようと心では"もっと多くの人に共感してほしい"や"自分の作品はもっとたくさん売れるべき"と傲慢に思ったり、"全然練習が足りていない、だから今のままではだめなんだ"と考えるばかりでした。

その時の自分をそのまま受け入れたことなんて一度もありませんでした。

流行りの音楽や万人受けする音楽をやっている訳でもないのに"上に行くにはどうしたらいいんだ"ばかりが口癖でした。上手くいかなくて家族にあたったことも一度や二度ではありません。

ですが、脳貧血で身体を壊し、否応なしに自分と向きあわざるを得ない状態になり、今まで自分が自分をどれだけ痛めつけていたのかが分かりました。

そしてどんな時も妻が寄りそって支えてくれたことが、いかに大きいことか分かりました。自分はどれだけ身勝手だったのかと。

足らないばかりを追い求める音楽の先には、自分が望んでいるものはひとつもなく、そればかりか、本来は最優先でいたわるべき心身をひたすら犠牲にし、大切な妻を失いかけました。

もうこれ以上足らないと考える生き方はやめたい。やめます。そして妻や支えてくれた人への感謝の気持ちをいつの時も忘れずにいたいです。

過去にとらわれず、未来へ過度に執着することなく、今日一日を悔いのないように過ごし、

"ささやかな幸せ"を実感できるような生き方

をしていきたいです

noteでは、音楽に関連することや好きなことを中心に、マニアックな視点で記事を書いていけたらと思います。世界のどこかの誰かに届けばうれしいなあ。

お読みいただいてありがとうございます。m(_ _)m

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