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「THE BEE」@シアターイースト 2021.11.20ソワレ 観劇感想

「THE BEE」@シアターイースト 初見。
上演時間、70分か75分くらい?
怒涛。これほど演劇の面白さが存分に詰め込まれた作品も稀有かと思うし、演劇の面白さを心ゆくまで味わって、鳥肌が立った。
だから演劇は面白い
そう実感できて、少し救われた。

以下、作品の内容触れていますので未見の方は御注意下さい。この作品は何も知らずに初めて見た時が多分一番衝撃的です。その一回きりを存分に楽しむ為に、御忠告。また、個人の感想です。

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くどいけれど、これほど(演劇として)面白い作品も珍しい、と思う。
「面白い」という日本語自体が「=笑っちゃった」と捉えられがちなので伝え方が難しいんですが、作品の中にテンコ盛りに詰まっているのは「演劇的な面白さ」。例えば。
舞台一面に広がりそのまま壁へと立ち上がっていく巨大な紙。最初は折り目一つなく綺麗なL型(壁と床)。これ自体も変化し壊れていくものの象徴。

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加えて、鉛筆を始め、色々なものが「見立て」じゃないですか。それを何だと思うのか?は観てる人の想像力に委ねられていて。その想像の中で徐々に豹変していく人の姿を見つめ続ける75分。それが面白いんですよね。まさに演劇でしか、劇場でしか、味わえない面白さ。
(ただ、表現として、内容として、受け入れ難い人達がいてもおかしくなくて、それは自然なことだとも思います)

「普通」って何でしょうね?
普通の人生、普通の仕事、普通の家族・・・
日常の中で多くの人が「普通」に生きているけれど、これほど漠然とした実態のない言葉のようにも思うし、「普通」であろうとしても、ある瞬間を境に自分が普通じゃ無くなることもあるし、井戸のように巻き込まれることも実際に全く無いわけじゃない(犯罪被害者の方々は皆そうですよね)。
そういう意味では私達が当たり前のように享受している「普通」の人生は薄氷の上にあるようなものなのかも?しれませんね。

先に書いた壁と床をつなぐ綺麗な巨大な紙は、「普通」だと自分自身も思っていたであろう井戸の人生のよう。最初は何の歪みもなく整った世界だったのに、徐々に破れて、最後はぐしゃぐしゃに壊れる。
そのきっかけになってしまったのは?
具体的には、勿論、小古呂が自分の家に立てこもって家族を人質に取られたことだけれども、井戸の人生が壊れていく本当のきっかけになってしまったのは、「言葉で説得しても無駄、反って反感を買うだけ」と警察に止められたことじゃないかと思うんです。
(じゃあ、このまま、なす術もなく居なきゃいけないのか?)
最初は多分、純粋に妻と子供を助けたい、その一念だったのかと。でも、「言葉」で相手と話し合うという術を封じられた井戸が選んだ道が「暴力」であり「脅迫」で、言葉で話し合うことを放棄した故の破綻かと。

宗教戦争だったり、人種差別による報復だったり、多くの争いが今も世界中で絶えないけれど、それこそ発端は何だったのか?何百年も昔からのことで既に発端など誰にも判っていないかもしれない争いの火種もあるのかもしれないけれど、もはや後戻りも出来ず、力と力の応酬と化し、それらの暴力の下で、弱い者達ほど恐怖や痛みに怯え、その心的な疲労が心を無思考状態と化していくのでしょうか。そして最後はその苦しみを終わらせる為に自らを差し出してしまう。それらがミニマムサイズで起こってるのが、井戸が報復に訪れた小古呂の家の中ですよね。

でも、観ている内に感じたのは。
果たして、「井戸」は特殊な存在なのでしょうか?
どうなんでしょうね?
例えそういう状況に陥ったとしても、自分は井戸にはならないと断言出来るか?
どうですか?
私は自信無いですね。
何かの一線を越えてしまったら・・・。
その一線を越えないように「踏み止まる」
それが「普通で居ようとする」ことなのか?
自制心なのか?
良心と呼ばれるものなのか?
「普通」である以前に、「人」として「人である」為に。
劇場の中で「人である」ことを見失った井戸の姿を観て、その姿を鏡に今の自分の姿を観てきたのかなと思うんです。
(とりあえず、まだ、大丈夫だと、思う)

作品の後半(ほぼラスト近く)、感情を無くし狂気に落ちた井戸が淡々と日常の中で暴行を続けていく場面。その場面で流れていた音楽に聴いたことがあるメロディーラインがありました。「レ・ミゼラブル」という作品の中で流れる一曲です(注:そのものではなく、ごく一部が似ているけれど別の曲としてアレンジされています)。
その曲は、ジャン・バルジャンの養女の恋人マリウスがクーデターで死なないように「彼を家に帰してあげて」とバルジャンが天の神に願う歌があるのですが、その「彼を返して」なんですよね。期せずして「家に帰れなくなった男達」の話の中で流れる「彼を帰して」、偶然でしょうかね?w

SNSが広がったせいで(笑)多くの人が観劇後に舞台の感想を呟くようになったこと自体は良いことだけれど、例えば影響力が大きめ(フォロワーさんが多い人だったり、演劇レポーターだったり)の方が「〇〇さんの狂気が凄い!」と「狂気」と表現した時点で(そうか、あれが狂気なのか)と素直に信じた方々が一斉に「狂ってる!」「狂ってる!」と書き出し「狂気」の大安売りだったりすること、気になりませんか?(^^;
そのわりには実際に拝見すると狂気では無かったりする場合も多くて、本当の狂気なんて芝居の世界でも中々出会わないし、本当に狂っていると感じたことも今までほとんど無かったですけど、2021年版「THE BEE」の井戸の最後は「狂ってる」と感じました。他人に苦しみや痛みを与えることに躊躇しない、罪悪感さえ抱かない、人らしい感情が壊れた状態。

井戸が淡々と過ごす日常の中で繰り返していく暴行。
もはや何の為に行っているのか、どうしたら止められるのか、それさえも考えていないような「狂気」を孕んだ表情。特に「朝、顔を洗う」時の鏡に映る阿部さんの顔が本当に怖くて鳥肌が。

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最後に、余韻として、野田さんが何を言いたかったのか?と考えた時。

相手と向き合い、相手を理解したり和解の道を探る為の「話し合い」を放棄した時点で、世界の諸々は自滅していく。逆を言えば、言葉で人は理解し合える可能性があるし、もっと言えば例え言葉が通じなくても「演劇」を通せば世界中の人々と、今、目の前にある問題を「共有」して共に考えることが出来るんじゃないか?という提案だったのかなぁ・・・と、感じました。

最後に、またくどくも重ねちゃいますがw
演劇として、本当に「面白い」作品だと思います。
キャスト陣も熱演ですし、表現としてのクオリティーも担保されているし、音楽や美術もセンス抜群だと思うので、是非、多くの方に観て頂きたいなと思う。劇場が狭いので、本当にチケットが当たらないけれど(泣)、例え1回でも拝見出来た幸運を噛みしめます。
内容が内容なので(暴行とか虐待ですし)目や耳を覆いたくなったり、生理的に相容れない人達がいてもしょうがないと思う。綺麗だなぁ・・・と目が釘付けになっちゃうのも解る。同性から拝見しても綺麗。でも、その一方で、ちゃんと「作品自体」も観てみて欲しいな、と切に願う。