『忘れもの』 【第3話】 「出逢い」
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アシナガの森にある切り株の椅子の周りにはスギゴケの絨毯が広がっている。森に差し込む陽の光がスギゴケの鋭い葉っぱにあたり、キラキラと点滅しながら鮮やかな光を跳ね返してくる。切り株の椅子の木肌もまた、その点滅する光で薄っすらと白くなる。
ノエルはその様子を眺めるのがお気に入りで、眺めていると時間が経つのを忘れてしまう。
今日もまた、いつものように光の絨毯をぼうっと眺めていた。
どのくらい時間がたっただろうか。ふと顔を上げると、視線の遠く先にある茂みがユサユサっと揺れるのが見えた。
黒っぽい影が動くのがわかった。
「誰かいるの?」
ノエルが問いかけると影が少し大きくなり、ノエルの方に近づいてくるのがわかった。
空の雲が動いたのだろうか。陽の光が一瞬、強くなった。
眩しさに目がくらんだが、目の前に誰かが立っているのが、ノエルにははっきりと感じ取れた。
「こんにちは。隣に座ってもいいかな」
初老の男性がにっこりとノエルに語りかけた。優しそうな雰囲気が伝わってくる。
ようやく光に目が馴染んで、ノエルは老人の全体をとらえることができた。
老人の姿は、ノエルに、ムーミンに出てくるスナフキンを連想させた。トンガリ帽子がよく似合う痩せ型だ。老人の顔には笑いジワがはっきりとあらわれ、その様子からも温厚な人柄が全身から伝わってきた。
「隣、いいかな?」
ノエルがじっと老人を眺めていると、老人がもう一度、優しい声でノエルに尋ねた。
「どうぞ」
ノエルは小さな声で答えた。
老人はゆっくりと切り株の椅子の右半分に腰掛けた。
そして、目をつぶり、深呼吸をした。
「森の空気はおいしいねぇ。キミもそう思わない?」
ノエルは黙っていた。
初めて合う人と、どのように接したらいいのかわからなかった。
「お名前は?」
老人は目をつぶったまま、ゆったりとした口調で尋ねた。
「……」
ノエルは答えようとするが、身体の中を声がなかなか通っていかない。
二人はしばらく無言のまま、視線を合わせることなくじっと座り続けた。
不思議と居心地が悪くないことをノエルは感じ始めた。
以前にどこかで会ったことがあるのだろうかとノエルは黙って考えた。言葉を交わさないことに焦りを感じないのが不思議だったからだ。
もっと前から知っていたかのような、妙な安心感すら、ノエルは感じ始めていた。
「ノエル……」
ノエルは消え入りそうな声で自分の名前をつぶやいた。
「そうか。ノエルくんっていうんだね。私の名前は、オオサワ ミツル。よろしく」
オオサワ老人は、一言一言を丁寧に声にする。
またしばらく、二人は無言のまま、時間に身を任せた。
「今日はこの辺で失礼しよう」
オオサワ老人が立ち上がり、トンガリ帽子をとって胸の前に置きながら軽くお辞儀をした。立ち上がったオオサワ老人の顔は、彼の頭の後ろから差し込む陽の光のせいで、暗くはっきりとは見えなかった。しかし、ノエルには老人の顔のシワが山のように盛り上がるのがかすかにわかった。きっと笑顔を自分に向けてくれたのだろうとノエルは思った。
次の日も、オオサワ老人は切り株の椅子に現れた。
その日は、二人とも言葉を交わすことなく別れた。
その次の日も、また、その次の日も、オオサワ老人は切り株の椅子に来て、ノエルと一緒に黙って光の絨毯を眺めたり、目をつぶって考え事をしたりした。
言葉を交わすことはないが、オオサワ老人が隣りにいると、いつもより時間が過ぎるのが早く感じることをノエルは不思議に思った。
十日くらい経った頃、オオサワ老人がサンドイッチの入った籠を手に現れた。
籠の中には、サンドイッチが二切れと魔法瓶が一つ、そして、紙コップが二つはいっていた。オオサワ老人はサンドイッチを一つ手に取り、ノエルに差し出した。
「どうぞ召し上がれ。新鮮なタマゴが挟んであるんだ。きっと気に入ってもらえると思うんだけどな」
ノエルは差し出されたサンドイッチを口に運んだ。
一口、口に含んだとたん、口の中にこれまで味わったことのないタマゴの甘さがふわぁっと広がっていき、ほっぺたが落ちるんじゃないかと思うくらいの旨味を感じた。
「おいしいっ!」
思わず大きな声が身体から自然と出ていった。
「そう。それはよかった!さぁ、カフェオレも召し上がれ」
紙コップには温かいカフェオレが八分目くらいまで注がれていた。
甘すぎない味が喉をすぅっと流れていくのをノエルは感じた。
「おいしいぃ〜」
心と身体がゆるんでいくような感覚をノエルは感じながら、自然と頬の緊張がとけていくことを実感した。
「これ、おじいさんがつくったの?」
「そうだよ。気に入ったかい?」
「うん。今まで食べたサンドイッチの中で一番おいしかった」
「そうか。それはよかった。またつくってきてもいいかな?」
「うん」
初めて会話らしい会話を二人は交わした。
オオサワ老人はサンドイッチとカフェオレを籠に入れて切り株の椅子に来るのが日課となり、ノエルはオオサワ老人に会えるのが楽しみになった。
二人はサンドイッチとカフェオレを手に、アシナガの森に生える草や花のこと、鳥や虫の話をした。
でも、お互いがどこから来たのか、どこに住んでいるのかを訊くことはしなかった。
ただただ、美味しいものを食べ、好きな景色を眺めた。
いつしか、切り株の椅子は、ノエルとオオサワ老人、二人がけの椅子になった。
どちらが欠けてもバランスが悪くなる、ノエルはそう思うようになっていた。
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