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「つなぐ」ということ

あの日も蝉が忙しく働いていた。
私は祖父の枕元に遠慮気味に近づいた。
手には宇宙戦艦ヤマトの模型を握りしめて。

夏休みの宿題だ。
戦争のことを調べる……

幸い、父も母も戦争を経験していた。
二人ともまだ子どもだったが、広島に落ちた原爆の光を記憶していた。
父は山口県の大島郡から、母は広島県の呉市から、その光で染まる空を見ていた。
空を突き刺すような光線と地を突き上げるように響いた音は、それまでにもそれからも、人生において二度と味わうことのない体験だったと口をそろえた。
それが人類で初めて使用された核兵器のなせる業だったことなど、その時にはもちろん知る由もないわけだが、幼心にもとてつもないことが起こったことを悟ったそうだ。
「戦争は悲惨だ。二度と起こしてはならない」
戦争の惨さを二人は語り、そのような間違った考えをする大人にならないよう子どもの私を諭した。

祖父は海軍の軍人だった。
出身は山口県の大島郡。瀬戸内海に浮かぶ島に生まれた。
海に囲まれ育っただけに、泳ぐことは朝飯前だ。
海軍を選んだのも自然なことだったのかもしれない。
祖父は広島県にあった呉基地を拠点として、大東亜戦争の舞台を駆け抜けた。

小学校3年生だった私が、戦争のことをどこまで理解していたのか疑問だが、宿題は絶対である。実際に戦争を経験した祖父に話を聞こうとお盆の帰省前にオモチャの宇宙戦艦ヤマトの模型をリュックに忍ばせた。小学生の私でも戦艦大和の存在は知っていたし、祖父との話のきっかけになるアイテムが必要だった。

祖父は患っていた脳溢血が原因で、その頃は一日のほとんどを床の中で過ごしていた。
大人の男性の身体が自由に動かない様子は、子どもの私にとっては怖かった。
なにか重たいものが崩れてきそうで、そして、どこか触れてはいけないような、何とも言い難い複雑な感情で、それまでうまく祖父と接することができないでいた。

戦艦の模型を前に、祖父の言葉はとても力強く、ハッキリと聴きとれた。
記憶も鮮明で、辿ることなく言葉が溢れた。
模型を指さしながら、「本当はここに大砲がついとって、菊の御紋がここにあってやな……」と、戦艦大和の在りし日の姿を教えてくれた。
「おじいちゃんは、海に三回投げだされたんよ。大和の周りを護衛する船にのっちょって、最初の船が敵にやられて必死で泳いじょったら味方の船が助けてくれたんじゃけど、またその船も敵にやられてな。海の中は油で真っ黒で、目に油が入って、まったく前が見えんかった。それでも生きてお国のために戦わんといけんと思うて、必死に泳いで何とかまた味方の船に助けてもろうたんよ」

まるで昨日のことのように祖父はその凄惨な戦いの様子を語った。

私はうなずくことしかできなかった。

ただただ、祖父の語る戦争に、ずっと耳だけを働かせた。

とても暑かった。
アイスクリームを伯母さんが出してくれた。
でも、その味はうまくなかった。
まずくもなかった。
ただ、リアルな戦争を目の前に、私は怖かった。
脳みそのすべてを使って恐怖の疑似体験をどう整理しようかと、必死だったのだと思う。

あれから32年が過ぎた。

人生で41回目の建国記念の日を迎え、ふとあの夏の日のことを思い出した。

私がいまこうして生きていられるのは、あの日あの海で必死に生きようとした一人の軍人のおかげなのだ。
軍人の心の中は「祖国を火の海にはできない」という真っすぐな思い、ただそれだけだったのではないかと思う。固有の誰かのためとか、限定されたもののためではなく、国という全体のために戦ったのではないかと思う。
「祖国を殺してなるものか。最後の一人になっても国を守る」
きっとそういう気持ちが、真っ黒に染まった海の中でも彼に力を与えたのだと思ってならない。

祖父は命をつないだ。
祖父は希望をつないだ。
祖父は国をつないだ。

たったひとりの力ではないが、その力のひとつであったことに間違はない。

戦争は間違った大人の行ったことだったのか?
祖父は間違った大人の一人だったのか?

いや、違うはずだ。
正しいも間違いもないのではないのか。

どちらの国も、尊い祖国を守りつなぐために必死だっただけではないのか。
どちらか一方が正しい国で、もう片方が間違った国だと断言できるほど、戦争は簡単なものではないとも思う。

「祖国をつなぐ」とはなんなのだろうか……
私たちは生きる中でそれを真剣に考えていくべきなんだろうと思う。
正しい、正しくないというジャッジメントだけで進んでいくのではなく、私たちの国や世界のあるべき姿をみんなで考え、道を創っていく。
そんなつなぎ方があってもいいんじゃないかと思ったりする。

そして何より、私はきちんとつないでいけるだろうか。
自己中心的な考えで行動し、後悔することの多い人生だと自認している。
ついついものごとを善と悪、正と誤、白と黒で考え、視野を狭めてしまうことも多い。
意識しなければ、どうしても目の前のことだけに目がいってしまい、視点が低いまま悩んでしまう。

そんな私でも、これからきちんとつないでいけるのだろうか。

自信もないし、わからない。

いや、わかっていないだけなのかもしれない。

何をつなぐべきなのか。
何をつないでいきたいのか。

その答えにたどり着けるかわからないが、たったひとつだけ、私にも決めていることがある。

『魂の声を聴こうとすること』

なぜだか理由をきちんと説明はできないが、『魂』だけが知っていることがあるような気がするのだ。
脈々と受け継がれてきたもの。
言葉にできないたくさんの何か。
素粒子の塊である肉体に宿り、唯一その存在が医学的に解明されていない『魂』だけが、私たちのつなぐべき使命を司っているように感じてならない。

声なき声を聴き、内なる衝動に動かされ、心身にたくさんの傷をつくりながらその使命を見つけていけたらいいなと思う。

それが「正直にまっすぐ生きる」ということではないかと。

そしていつか、私も蝉の声に負けないハッキリとした声で、つなぐ言葉を口にできたら幸せだ。

祖国やそこで生きる人々ために働く力の、ほんの小さなひとつとして、私も精一杯、この人生の海原を生きぬいていきたい。

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