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『忘れもの』 【第2話】 「すれ違い」

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「葉山、今月の数字、大丈夫なんだろうな」
 支店長の片岡から呼び止められ、葉山ヒカルは慌てて片岡の方に向き直した。
「あと三億弱というところです。これから月末の運転資金名目で富岡商事さんに提案に行くことにしています。富岡さんのところはこのところ業績も上向いていますので、おそらく計算書ベースで審査部も問題なく融資のOKをだしてくれると思います」
 葉山ヒカルは、大手都市銀行のかがやき銀行横浜支店で渉外係の係長をしている。かがやき銀行横浜支店は、銀行内でも一、二を争う稼ぎ頭で、その渉外係の係長といえば飛ぶ鳥落とす勢いの敏腕営業担当でなければ務まらない。それほどのプレッシャーと引き換えに、成功すれば今後の出世が確実に約束される将来有望なポジションだ。葉山ヒカルは、着任してからの半年間、自分に許されたほぼ全ての時間を仕事に費やしてきた。慶應義塾大学法学部から入行して10年目になった。同期の中では最も早い係長昇進組の一人だ。東大卒の同期にまじって、私大出身で唯一の一番出世組である。生来の負けず嫌いに加え、計算高い性格が功を奏していると感じている。全ては自分の描く道筋を歩きたい派だ。「30歳までには結婚する」というマイルールに従い、30歳になった年の12月に、3ヶ月ほど交際した支店の後輩と結婚した。正直、結婚なんてしてもしなくてもどちらでも良かった。どちらでも良かったからこそ、タイミングの方が葉山ヒカルにとっては大切だった。披露宴では、当時在籍していた本店営業部統括部長であり常務取締役の油山が主賓を努めた。油山は次期頭取候補の筆頭格として行内で絶大な権力を持っている人物だ。その彼が主賓の挨拶を務めることは、葉山ヒカルにとって自ら描く未来予想図を鮮明に現実化する大きな起爆剤になる。油山が主賓をつめるとなれば、貧相な披露宴はできない。招待する行内関係者は自然と油山一派の有力支店長や有望な行員を中心に構成することになる。式の進行や演出は全て油山を忖度したもので埋め尽くされた。披露宴の真中にあったのは新婦ではなく常務だった。しかし、そうまでしても披露宴を成功させる必要が葉山ヒカルにはあった。披露宴を通じて人脈は広がり、葉山ヒカルの行内での知名度と地位を押し上げることになるからだ。と同時に、油山派閥の一員である宣言になるわけだ。
 そして披露宴から一年後、葉山ヒカルは行内屈指の旗艦店舗である横浜支店へ栄転した。出世というレールの上に自らの意志とは関係なく進む滑車を置いたのである。滑車を置くまでは間違いなく彼の意志だったが、一旦そのレールの上に置いた滑車は彼の意志とはまったく関係なく滑り出す。これが銀行の掟であり、銀行員の性でもあることを葉山ヒカルは十分理解していた。学歴や実力だけではのし上がれないのが社会の暗黙のルールだ。ましてや、弱肉強食の出世競争の中で、正義もへったくれもない。葉山ヒカルは、銀行という閉ざされた巨大世界の中での生き抜き方を、自然と身体に叩き込んできたのである。
「喰うか、喰われるか。行けるところまで行ってやる」
滑車のハンドルを出世という魔物に委ねた。勢いよく滑り続けるその滑車を追い抜くことは決してできない。自分の分身を必死に追いかけ、いつしか止まることのできなくなった彼のことを、周りは「ハマの不夜城」と揶揄するようになっていた。

「あなた、いい加減、休みの日くらいパソコンやめてよ。少しは和哉の面倒もみてよ。私はあなたの家政婦じゃないんだよ。いい加減にしてよ」
 妻の沙也加の機嫌は悪くなるばかりだ。喧嘩も絶えない。顔やスタイルは葉山ヒカルの好みだったが、もともと価値観が合う相手ではなかった。唯一、沙也加の手と指はヒカルにとって手放したくないと思った要素だった。沙也加の手を握っている時だけ、ヒカルの心は安らぎと安心を感じたのだった。しかし、今ではその手に触れることすらなくなった。
「どうしてこうも女は理解してくれないのか……」
ヒカルは無言のまま、妻の視線を交わすように書斎に逃げる。こういう時は距離をとるのが一番だ。口を開けば喧嘩になるし、疲れた身体がさらに重くなるのはごめんだ。ヒカルは「自分の身は自分で守る」という言い訳を自らに許可した。これまでは「誰のおかげでこの暮らしがあると思っているんだ」と沙也加を問い詰めることもあった。そのたびに、沙也加の刺すような鋭く冷たい視線がヒカルをまっすぐ見つめてくる。ヒグマの母親が敵から子供を守るときに見せる威嚇の目。沙也加の目はまさに子供を守る母グマの目そのもののように感じられた。腕の中の和哉を必死で守ろうと威嚇するかのようだ。不安そうな眼差しで母親を見つめる愛息子もまた、すでに父親と母親とを天秤にかけ、どちらにつけば利になるかを考えているようにも感じられる。計算高さだけは確実に遺伝したようだとヒカルは感じた。「くそっ」明かりを消した書斎の机で、ヒカルは小さく吐き捨てた。

結婚してすぐ子供を欲したのは沙也加だった。夫の栄転は彼女の誇りでもあったが、彼の心がどこか自分よりも遠くにあるような不安が彼女の中にはいつもあった。
「子供がいれば変わるかもしれない」
 沙也加の愛は、結び目をいくつも作り続けながら必死にその縁を伸ばしていくかのようだった。まもなく授かった和哉は溢れんばかりの笑顔を沙也加にむける。育児で眠れない日々も和哉の笑い顔を見るだけで吹き飛ぶようにも思えた。しかし、想像以上に子供を育てていくことは気力と体力を削り取られていく。体重は減らないが皮下脂肪が明らかに減ったことが自分でもわかる。手の甲にははっきりと骨と血管が顔を出し、指先は乾燥してひび割れが無数にできた。数えるだけむなしくなる。細く長い指だが、骨格がしっかりして爪の先まですっと伸びていることが沙也加の密かな自慢だった。ヒカルも沙也加の指をいつも愛おしそうに眺め、美しいと褒めてくれた。ヒカルは手を沙也加の手を握ったまま眠ることが好きだった。安心するのだといった。付き合った期間は決して長くはないが、沙也加は自分の長所をストレートに愛してくれるヒカルに全てを委ねる決心した。そして、ヒカルが舵を切る船で、人生の海原をともに旅していきたいと思ったのである。
 いつしかヒカルが船頭であった船は、魔物が引いたレールの上を船頭不在のまま走っている。そのことを沙也加は気づくことも知ることもできない。ただ、仕事、仕事で家庭には目が向かない夫との関係に悩むことしかできないのである。いつの間にか「幸せなんだ」と自分に言い聞かせていることに罪悪感を覚えるようになった。人は嘘をつく。とはいえ、自分自身につく嘘は少ないほうがいいし、ましてや、幸せであると自分に信じ込ませるようになっていることそのものに沙也加の心は塞いでしまう。このままの関係ではいけないことはわかるが、だからといってどうすれば前に進むのかもわからない。わからないというより、今は和哉に向き合う時間で精一杯であるというのが本音なのだ。沙也加は自分の心が分離すればうまくいくのにと、ふと考えることがある。そうすれば、和哉とヒカルにそれぞれ向き合える。そうすれば、きっとまた付き合っていた頃のように手を取り合うことができるかもしれないと。心にふく隙間風が痛く辛いものであることを沙也加は感じながら、まだシワのついていないベッドに疲れ切った身体を横たえるのである。

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