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『忘れもの』 【第1話】 「別れ」

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「ノエル、ごめんね。許して、ノエル……」
グレーのヒールが静かに音を立てながらゆっくり離れていく。
ノエルはじっと涙が溢れ出そうになるのを我慢した。
「きっともう帰っては来ないのだ」
彼女の遠のく背中を見つめながらノエルは自分の心の中から大切な何かが剥がれ落ちていくのを感じた。
あの日からずっと森だけが自分を守ってくれているように思える。
アシナガの森と呼ばれるその森は、ノエルの家から歩いて15分ほどにある小さな森だ。針葉樹が所狭しと伸び、その重なり合った葉の間から注ぐ陽の光は、小学校にあるステンドグラスなんかよりもキラキラと輝き、優しい光で身体を包んでくれる。風が吹くと樹樹が触れ合い、心地の良い音が森全体に響く。たった一人で切り株の椅子に腰掛け、何時間も樹の間から見える空を眺める。誰にも邪魔されない、自分だけの基地。どこにもない安心できる場所。アシナガの森だけが自分の心を理解し、寄り添ってくれるのだとノエルは信じている。
アシナガの森はその昔、神武天皇が旅の途中にその疲れた身体を癒やした場所として、地元では古くから崇められていた。祭事の際には、アシナガの森に生える杉の木を切り出し、神殿の御神木として祀っている。それだけに、古くからの住民にとっても、そうでない者にとっても、アシナガの森は地域のシンボルなのである。
このアシナガの森を挟んで市街化区域と市街化調整区域が南北に別れているのもこの町の特徴だ。開発を制限された北側エリアはセピア色の写真が似合う風景で、人の気配も感じることができない。自然そのものがそこの主であることを示すように雑草がのびのびと育ち、南側のエリアでは出会うことのない虫たちが誰にも邪魔されず遊びまわっている。しかしそれは同時に、自然の摂理そのものに従うことでもあり、容赦ない食物連鎖によって、それぞれの「生」が保たれている。
自然の法則により循環する北側エリアとは正反対に、市街化区域である南側エリアには住宅が立ち並ぶ。そこはまるで人間にとっての楽園であり、安心の場所として発展してきた。20年前は田んぼだらけだったのだと古くからそこで暮らしている住民たちは口をそろえる。今では庭付き2階建の家々がまるで方眼用紙のマス目のように規則正しく分筆された土地に鎮座する。大手ハウスメーカーが一手に開発したそのエリアは、建物の外観を見ただけでそのハウスメーカーの手掛けたものだとわかるほど風景には個性が感じられない。大人たちは、朝には一斉にいなくなり、夜にまたどっと戻ってくる。家の中に明かりが必要な時間にしか、この街には家族という空気は流れない。
ノエルの両親も同じだった。大手電機メーカーに務める父と繊維メーカーに務める母。二人とも時間に追われるように働いていた。ノエルが生まれた後すぐに、アシナガの森の麓にできたこの新興住宅地に家を買った。35年ローンを組んだその家は、共働きの夫婦にとっても決して楽な返済ではなかったが、子供のためにも一生懸命働いていくことを決めた。母親と手をつないで歩く保育園の受付までの数分間がノエルにとって母の体温を感じる唯一の時間だった。細い指だがそれでいてしっかりとした骨格、控えめなネイルに見えてきちんと手入れされた爪、その手がいつもノエルの視線の前にあった。「カッ、カッ、カッ」とアスファルトを打つヒールの音も、身体を包み込むように香る香水の匂いも、ノエルには心地よく安心できた。夕方にはまたこの音と匂いと会える。ノエルは保育園の受付につくと母親とバイバイすることなく、すぐに靴を脱いでオモチャ箱まで走った。立ち止まればこれまで規則正しく刻んできた音が止まってしまい、母親のお迎えの時間が狂ってしまうのではないかと怖かった。両親が忙しく動き続けることが、ノエルにとっては家族の姿であり、家族としての規則正しいリズムだった。それは家族であることの証でもあった。
 いつ頃だろうか。明かりが灯るころには揃っていたはずのダイニングテーブルの椅子に父親の姿だけがなくなっていた。せわしなく動き回っていた両親の時間はちょっとずつズレていき、いつの間にか重なりあうこともなくなっていた。口数の減った母親の顔には暗い影ができるようになり、一人暗い部屋ですすり泣く姿が増えていった。
「大丈夫? ママ。大丈夫?」
声にはならない。言葉も口を出てこない。
ノエルには母親の感情だけがまっすぐに感じられた。
保育園の受付で母親とバイバイしないことは、やがて願かけになっていた。
「ママ。いかないで」
ノエルはいつも心でつぶやきながらオモチャ箱まで走った。
そんなある日、保育園の受付から、ノエルは初めて母親の方を振り返った。
母親がノエルの名を呼んだように思った。
振り返って見えた後ろ姿の母親の肩は小刻みに揺れていた。
「ごめんね。許して」
ノエルの心にすっと入ってきて、そして、そっと何か大切なものを引き離していった。

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