『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を鑑賞して考えた"作為の多様性"

もちろんおもしろかった。
でも、観たあとに小さなしこりが残って消えない。
自分の感情と素直に向き合ってみたいと思ってしまったので、書いてみる。

「正しさ」を押し付けられているな、という感覚になった、というのが私の正直な感想である。

というのも、マリオのゲームは大抵、①ピーチ姫がクッパに攫われる
②キノピオの要請を受け、またはピーチ姫誘拐の現場にマリオ自身が居合わせ、助けにいくことになる
③数々のステージを踏破し、クッパ城に辿り着く
④クッパを倒し、ピーチ姫に再会する

という流れになっている。
(もちろん例外もある。マリオが攫われ、ピーチが助けにいく作品だってあるが、今回は上記流れを前提とする。)

私が過去、プレイしたことがある作品から構成したイメージでいくと、別にストーリーは重要ではなく、マリオがステージを進むことに主眼が置かれたゲームである。
一応、何のためにステージを進むのか?という理由付けにピーチ姫が攫われているだけである。

映画ではピーチが自立したひとりの人間であり、マリオに助けられ、勝利の暁に与えられるトロフィーとしての役割はない。
率先して道を切り開き、恩義のあるキノコ王国を救おうとする。

そこに「女性を男性に救わせ、トロフィーのように扱うことへの批判」をひしひしと感じる。そしてそのこと違和感を感じてしまった。
さらに、違和感を感じてしまったこと自体に「製作者たちは進んでおり、現代の思想についてこられないお前は遅れている、間違っている」と突きつけられた気がした。

そして、「誰かを助けるため」という目的の"誰か"の部分が不在になったため、マリオの弟であるルイージをそこにはめ込んでいる。

これは至極当然のことで、自然なことだ。だが、兄弟愛、家族愛を礼賛するのが正しいのだ、と思わざるを得ないのだ、と思った。

"作為の多様性"と私が呼んでいる現象に、スーパーマリオというゲームが当てはめられた気がしたので、悲しかったのかもしれない。
お気持ち表明ってやつだ。

作為の多様性とは何かを説明する。世界には多様な人々がいる。それは人種、民族、国籍、宗教、政治思想、障害の有無、病気の有無、年齢、性別、性自認、性的嗜好、自己表現の方法、等々で説明される。

「その人が、またはその集団がどんな特質を持っていようと、その特質によって差別されることがあってはならない」というのが多様性であると思う。

ここでいう差別とは、生命を脅かされること、財産を不当に奪われること、住む場所の選択ができないこと、就業機会や結婚機会の損失、等が起こることである。

本来、すべての特質が差別されることなく共存することが望ましい。にもかかわらず、作為の多様性では、選ばれた特質の持ち主を前面に押し出すことによって、あたかも「私は(私の会社は)多様性を理解している、多様性の考え方を支持する」と表明しているかのように見せる。

作為の多様性で選ばれがちなのは、女性と黒人(アジア人)、LGBTQ+である。

今回、スーパーマリオブラザーズを観て、ピーチは作為の多様性・女性に選ばれたのだと思ったため、そのことが脳裏にちらついて楽しめなかったのだと思う。

かといって、映画においてピーチがマリオに助けられるだけのトロフィー的存在だったら、きっと私も「この御時世、ピーチ(女性)がこんな役割しか与えられなくて大丈夫なのか?」と思ったに違いない。

私は、女性はトロフィーであれ、男性に救われる存在であれ等と思ったことは一度もない。

だからやはり、ピーチは強い自立した人間である必要があったし、ルイージを助けるのは兄弟愛に起因した行動であり、けしてトロフィーではないと示す必要があったのだ。

全体としてはマリオ愛に溢れた素晴らしいクオリティであり、マリオも、ルイージも、ピーチも、クッパも、キノピオも、ドンキーコングも、皆素敵なキャラクターだった。
映像も素晴らしかった。髪の毛や甲羅の質感が手に取るようにわかり、カラフルな世界は見ていて飽きない。
音楽もゲームをプレイしたことがあれば幾度となく聴いたフレーズのアレンジが多々あり、耳も楽しい。

もしも、私が一切マリオのゲームをプレイしたことがなく、全くの初見で映画を観られたら、きっとこの映画が好きになったと思う。

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