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メイクのトレンド、解像度とアート
メイクのトレンド
最近は「透明感」というワードをよく見るようになった。
なるべく白く、ぼやかし、白く、もやもやさせる。それがいい。それがエモいとも言う。たしかに、最近あえて古いカメラで撮るとか、ぼかすとか、なんとか流行ってるかも。
流行ってるとかじゃなくて、ふわふわモヤモヤしているもの=エモい=良いみたいな図式が自然すぎるくらいに出来上がっていると思う。
こんな傾向がメイクに見られるのではないか、と考えた。全メイクをしている人達、間違ってたらごめん。
インスタで見かけるアイドル
インスタでたまに人気アイドルの写真が流れてくる。
それと同時に昔の写真も流れてくる。「垢抜けたな〜」なんていう感想を持つことが多いが、何が変化したのだろう。
一つはやはり、メイクや髪の色なのではと思った。数年前とは言え、トレンドは変わっているであろう。
数年前の写真の印象は「ハッキリ」の一言で表せる。全てがくっきりハッキリしているのだ。黒く。しっかりしている。良し悪しを語っているのでは無い。あくまで印象の話だ。
対して最近の写真はどうだろう。境界線が曖昧な印象を受ける。全部一緒に繋がって、白くて、掴みどころが無い。そんな印象だ。
なぜこんな変化が起きたのか、僕の中で一つの仮説が浮かんだ。
テクノロジー
この進化が一つ鍵を握っている。数年前と現在ではカメラの画質が驚くほど上がってしまった。
数年前のiPodのカメラを思い出して欲しい。ザラザラでぼやぼやしていただろう。でも今はどうだ。くっきりハッキリしている。いや、しすぎているのかもしれない。とにかく細部まで伝わるようになってしまった。
昔はカメラのデフォルトがボヤボヤだったのだ。だからメイクで主張する必要があった。ただ、SNSの勢いは今よりなかった。そこは違うかもしれんけど。
現在はデフォルトでめちゃくちゃ綺麗なのだ。良くも悪くも現実が映し出される。だから、フィルターなるものが出てくる。昔はデフォルトでフィルターがかかってたのに。そしてメイクにも影響する。そんなに細部まで見られるのに人間は慣れていない。多分だけども。
カメラの画質上げよう!としたら映る方が次はボカしはじめたってことだ。おもろい。
カメラに限らず…
最近はSNSが発達している。しすぎている。そのおかげで良いこともある。発達する前の人生じゃ交わらなかった人と何人も会えた。これは物凄いことだ。人間が飛んだくらい、凄いことだと思う。SNS上では、飛べる。
ただ、それに伴って問題も起こる。そもそも問題の起こらないものなんてないのだ。とにかく繋がりすぎているのだ。最近はゼンリーっていうアプリで現在地もわかるやつもある。
Twitterも現在地とかがつくし、インスタのストーリー見て「あいつここにいるぜ」ってのが分かるというのもある。
とにかく繋がりすぎてる。そんな細かいところまで知らなくて良かったのだ。人間は。
昔はそういった機器がなかったから、会社の顔、家での顔、友達といるときの顔、親戚の前での顔と全然違う、使い分けることができたはずだ。
ペルソナというのは古典の劇で使われた仮面の名前だ。それが発展してpersonal=個人ということになったんだろう。これは山口周さんの「武器になる哲学」で書いてあった。良かったらみんな見てくれ。みんな昔は、仮面を入れ替えたり、仮面を外したり、何枚にも重ねたりしていたんだろう。
ところが今はどうか。あらゆるところで繋がり、細かい部分まで見られる。仮面の使い分けなんてできるんだろうか。
経済とかビジネスとか、世の中の仕組みとかもそうだ。情報の非対称性なんか関係なくなってきている。その代わりに追えないほど情報が増えたが。
そうなった時に流行るもの、アート
最近はアート×ビジネスの書籍をよく見かけるようになった。なんでこんなに増えてるんだろうと思った。
恐らくだけど捉え所がないからだ。アートは。色々な解釈をくれる。色々な意見を持たせる。作者の背景、作品の雰囲気、時代など…。本人以外知る由もないところに意味を持たせる。それがいい。その曖昧さが現代人には良い処方箋なのではないか。
具体的すぎるんだ。今は。他人がすることが、どうしたとか、具体的すぎる。目の前に囚われすぎてる。そんなの数が多すぎて疲れる。
目の前にあるもの全てを認識したら人は脳がパンクするらしい。これも苫米地英人さんの著書に書いてあったはずだ。だから適度に抽象化して人は生きている。てかそもそも認識しない。
コンプレックス商売
人はコンプレックスに漬け込まれるとすぐに金を出してしまう。
性や見た目(筋肉、髪、肌)の違法だと思える広告が多いのも頷ける。違法じゃなくても、そういった心を刺激する、一つの概念を植え付けるような広告は多い。
例えば家族=あったかいとか、友達がいない=ダメだとか。
冷静に考えたら、家族であるとか、友達がいないとかいう事実それ自体に良し悪しなんてないだろう。いる人はいる、いない人はいない。ただそれだけだ。
それにどう意味付けするかがその人の感性というわけだ。
話はそれたが、それが執着。それが目の前の情報に疲れる要因。話は逸れてなかった。とにかく一筆書きでやる。目直すのめんどうだから。この記事は一生出なくなる。
世界の解像度が上がる、被写体がボカす
この現象はあらゆるところで起こるだろう。
カメラの性能が上がっても、フィルターでぼやかしたりするのも、世の中の情報が行き渡るからこそ、曖昧なアートが流行るのも。
僕のnote、これも一つの処方箋だ。誰に読んでもらいたくて、伝えたいテーマはこれで、と具体的なものを考えてるわけではない。
具体的なものがあると言えば、解像度が上がったらボヤけるのが流行るのか、みたいな気持ち、思いだけ。
きっちりかっちり書かないからこそ良い。だからこそ考え、思いが浮かび、また繋がり、次に行く。
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