少女の世界

これはかつて大学の卒論としてしたためたものの一部を抜粋したものです。卒論の内容としては、メディアの中での少女像といったものになるのですが、少女の成立から見ているので、その部分を皆様にお届けしたいと思いました。尚、参考文献に関しては、ここには抜粋していない部分の参考文献も含んでいます。

1-1 少女の誕生

 少女文化に関して触れるならば、まずは「少女」がいかにして誕生したかについて触れる必要があるだろう。そもそも、「少女」というカテゴリーは存在していなかった。日本では近代に入るまで、「未だ「人ならざる」赤ん坊的子どもの時代から、一足とびに大人へと直結する時間の中で、女たちは、種の再生産者、あるいはその候補者以外の何ものでもなかった。いま、ここに、その直結する時間が一時的に遮断され、彼女らの上に「少女」というモラトリアム期が出現したのだ」(本田和子 1982:189)。
しかし、すぐさま彼女らが自身を「少女」だと自覚するに至ったわけではない。その背景には、「女学生」と「少女雑誌」の連動が存在する。1899年に、「高等女学校令」が施行され、全国各地に「女学校」が設立された。それにより、若い娘たちは「女学校」へと囲い込まれることとなった。「女学校」にいる間、彼女たちは、子どもでも大人でもない、「女学生」なるものへと変化したのである。彼女たちの将来は「良妻賢母」という目標を掲げられつつも、25歳になるまで結婚の自由もなく、曖昧に閉ざされていた。その「女学生」に対し、標準を合わせたのが「少女雑誌」である。
女学生人口の増加に伴い、1902年『少女界』、1906年『少女世界』、1908年『少女の友』、1912年『少女画報』と、代表的な「少女雑誌」が次々と創刊されるに至った。
「少女雑誌」は、「良妻賢母」を標榜としつつも、読者たちの投稿という手段によって、一種のコミュニケーションの場へと変貌していった。「ペンネームで己れを加工し、現実を抜け出して虚構の存在へと変身した娘たちは、雑誌への投稿という手段を恣意的に改変し、未知の相手に呼びかけるという私的コミュニケーションを展開」し、「この動きが、「少女」というまとまりへと凝集化」していったのである(本田和子 1990:189)。本田和子のいう「少女幻想共同体」の成立である。
明治の少女たちは「少女雑誌」というメディアを通じて、「少女幻想共同体」という想像の共同体(1)を作り上げた。「少女雑誌」に表示される「少女的」なものを読むことにより、彼女たちは自身が「少女」であると自覚していったのだ。

1-2 少女小説

 自身を「少女」であると認識した少女たちの文化が花開いていくのは、大正時代に入ってからである。また、主だった「少女雑誌」としては、1913年に『少女』、1923年に『少女倶楽部』が創刊された。
当時の少女文化の象徴ともいえるのが、『少女画報』に掲載された吉屋信子の少女小説『花物語』である。吉屋信子が綴る「少女の世界」は、「理想的でありながら、どこかで自分の住む現実に足がついている世界」であり、故に少女たちを虜としたのだ(唐澤俊一 1995:162)。また、ここではない、別の国を思わせる「顕著なエキゾティズム」と、「すべての作品に底流として濃厚に香る、レズビアンの魔魅」が、少女たちを吉屋信子の作品に惹きつけてやまなかったのである(唐澤俊一 1995:162:165)。
 また、吉屋信子が作品内で描いたモチーフの多くが、以後の少女小説(少女文化)に対して、影響を与えている。その影響は好むと好まざるとも、自然と現れてしまうものであり、「少女」というイメージに組み込まれてしまっているものだということがわかる。そのモチーフとして代表的なものを挙げるとすれば、「寄宿舎」「キリスト教」といったものである。これらのモチーフは、後の少女文化の多くに見出すことが出来る。とにもかくにも、吉屋信子の作品によって「少女小説」というジャンルは確立したのである。
 少女小説で忘れてはならないのが挿絵の存在である。視覚な影響は非常に強く、美しい線の細い少女たちの絵が少女小説を彩ったのである。代表的な挿絵画家を挙げると、竹久夢二や中原淳一がいる。

1-3 戦後の少女小説

少女小説は、戦争を境にして変化を強いられることとなる。戦争のため、軍事色が強くなっていき、多くの少女雑誌が消えていくこととなった。戦後まで残った少女雑誌は、『少女倶楽部』と『少女の友』くらいである。「戦前の少女、それは世の中の苦労というものをチリほども知らず、ただ、自分の夢の世界に生きていた存在だった」(唐澤俊一 1995:32)。
戦争による荒廃のため、上流階級のものだった少女小説は、戦後、貸本屋を通じ一般大衆のものとなっていった。結果、「世間の辛酸をなめていく、というストーリーが戦後の少女小説の主なテーマとなって」いったのである(唐澤俊一 1995:35)。戦後の少女小説の主人公たちは、貧しさ、飢え、家族の離散といった不幸な身の上でこそあるが、最終的にはハッピーエンドが用意されている。何故なら、そうした「不幸」は、戦後という状況では現実的なものであったからだ。だからこそ、明日を生きていく希望を持たせるためにも結末はハッピーエンドではなくてはならなかった。
 1946年ごろからは、雑誌の復刊や創刊が相次いで行われるようになる。少女雑誌で言えば、1946年に『それいゆ』、『ひまわり』、1949年に『少女』、『少女世界』、1950年に『女学生の友』、1951年に『月刊少女ブック』が創刊された。これらの少女雑誌は小説だけでなく、バレエや宝塚、少女スター等のグラビアといった風俗的興味が取り入れられていた。また、まんがも僅かだが掲載されていた。
1955年頃にもなると、日本も比較的復興を遂げ、少女小説のストーリーに変化が訪れる。ミステリー、怪奇、SFといった要素が取り入れられていった。その後、少女文化の中心は「少女小説」から「少女マンガ」へと移り変わっていく。昭和の半ばも過ぎた頃には、主な少女小説が掲載されていた雑誌も、次第に「少女マンガ」雑誌へと移行していく。「少女小説はマンガにとって代わられるものの、『女学生の友』といった女高生雑誌の中でジュニア小説として一つの流れを作っていく」(米沢嘉博 2007:43)。

1-4 少女マンガ

当時から雑誌には「「ストーリー性」「絵画性」「笑い」が必要不可欠の要素であり、それぞれを「小説」「挿絵」「漫画」が受け持っていた」(米沢嘉博 2007:33)。マンガは「笑い」だけを求められていたのである。その代表的なのが、1951年から『少女』に連載した倉金章介の『あんみつ姫』だろう。『あんみつ姫』はおてんばなお姫様を主人公としたコママンガである。こうしたコママンガはページにして、2から4ページほどであり、雑誌のメインになることはなかった。また、少女雑誌の判も小説が読みやすいB5判であった。
ストーリー性のある少女マンガが登場するのは、手塚治虫の『リボンの騎士』からである。「その世界は、宝塚とディズニーのムードを持つロマネスク世界と言うことができるだろう。悪魔に天使、王子に王女などが登場して繰り広げるファンタジー世界は、さまざまな人物がからみ合い、小説だけでも、絵だけでも味わうことができない、まさしくマンガ独自の力を持つ想像力世界を創りあげていた」(米沢嘉博 2007:51)。
だが、これまでの少女マンガは男性が描いたものであり、女性によるものではなかった。かつて少女であった女性による、少女のためのストーリーマンガが誕生するのは、1952年のこととなる。わたなべまさこの『小公子』である。わたなべまさこは、「ドラマ作りに関しては基本線に添っ」ていたが、「その時々の少女マンガ界の動向に対しては非常に敏感であった。読者がいま、いったい何を求めているかを嗅ぎ分け、それに対応していくさまは、今も変わらない。わたなべまさこはそういう意味で、マンガ家であると同時に少女達(大衆)そのものであったのである」(米沢嘉博 2007:104)。
1954年に『少女』が小説に固執したA5判からB5判へと移行したのを機に、少女雑誌は次々とB5判へと移行した。大きな紙面を埋めるため、絵やまんが、写真の需要が増加し、1955年には、まんがを主とする『なかよし』と『りぼん』が創刊された。こうして、少女雑誌の主流は「少女小説」から「少女マンガ」へと移り変わって行ったのである。
1956年には、水野英子が現われる。彼女の作品は手塚治虫のファンタジーロマンを受け継ぎ、「読者の生活や感性と呼応しながら完成されていくドラマではなく、見るための読むための、夢を見、あこがれるための虚構空間としての閉じた物語世界」だったのである(米沢嘉博 2007:99)。また、彼女は読者よりも後世の書き手を目指す少女たちに多くの影響を与えたようだ。
1957年には、牧美也子が登場する。彼女の作品は「登場人物の内面の描写力で見せる作家であった。彼女が少女マンガの中で描き続けたのは、少女間の友情、親子、兄弟姉妹の愛の葛藤であった」(米沢嘉博 2007:106)。それらを支えていたのは、「日本的な抒情画の流れにある彼女の絵であった。端正なリアルさと気品に満ち、洗練された技法と絵柄は、無意味な装飾を必要としない力を持っていた」のだ(米沢嘉博 2007:107)。
わたなべまさこ、水野英子、牧美也子の3人によって、ようやく少女マンガといったもの基本路線が確立されることになる。しかし、この頃はまだ、少女マンガの多くを手がけていたのは男性マンガ家であり、女性マンガ家は少なかった。少女マンガを描く男性マンガ家には、手塚治虫や松本零司、石ノ森章太郎、ちばてつやがいた。しかし、1965年頃から、男性マンガ家と女性マンガ家は一部の例外を除き、それぞれ少年マンガと少女マンガへと住み分けをしていった。

1-5 貸本マンガ

 若本書房を中心とする貸本少女マンガの読者の大半は、少し高年齢のあまり裕福ではない少女たちであった。少女雑誌を読むのはそれよりさらに下の少し裕福な少女たちであった。そのため1960年ごろには、貸本少女マンガは、少女雑誌とはまた別の流れを作っていた。それが「生活マンガ」と「学園マンガ」である。貸本という媒体のため、あまり大掛かりな舞台を作れないという事態が、「日常の少女達の出現をうながすことにな」り、そうした等身大の舞台が出現するに至ったのである(米沢嘉博 2007:122)。その代表的な作家が木内千鶴子と田中美智子である。
木内千鶴子は、少女たちの身近な「友情」や「幸せ」といったテーマを主とし、また実話を元としたシリーズを誕生させた。「夢を見ることよりも、現実を見つめるという姿勢に基づいたテーマは、日常の少女を描くことで、現実の少女達に近づいていく」こととなった(米沢嘉博 2007:123)。田中美智子は、「学園」という舞台を重要視しており、雑誌に先駆けた。「セーラー服の少女達は、そのまま読者たる少女たちでもあった」(米倉嘉博 2007:124)。これらの少女マンガは日常の少女たちを描こうとした。しかし、どこか少女そのものに迫れないでいた。
貸本少女マンガの流れを集約し、少女マンガそのものの枠を広げたマンガ家として矢代まさこが存在する。その魅力は可愛らしい絵柄にあり、「とびはね、走り回る少女達の躍動感を表すために、少年マンガ的タッチさえとりいれていた」(米沢嘉博 2007:128)。彼女の代表作である「ようこシリーズ」は、少女そのものを追及しようとしたものである。「このシリーズの共通点は、主人公の名の音読みが「ようこ」である一点なのだ。いうならば、ようこという名の持つ無名性があらわす「少女」そのものに他」ならない(米沢嘉博 2007:129)。「生活ものを基盤にして繰り広げられるさまざまなようこの物語は、コメディ、ファンタジー、友情もの、母もの、ロマンス、ミステリー、ドタバタと多岐にわたる。そこでは、ようこを軸に、色々な女の子が登場し分類されてはいくものの、それによって分類されていくのは、実は読者である少女達であった」(米沢嘉博 2007:129)。
1963年ごろに、少女向けの怪奇マンガブームがはじまった。その中心にあったのは、さがみゆき、池川伸治、小島剛夕、楳図かずおなどの作家である。そうしたブームもしばらくすると雑誌へと移っていった。また、読者層の年齢が高かったため、ロマンスを中心とした作品が扱われることが多くなった。
1965年ごろになると、若本書房の新人作家たちの大半は女流となっていた。しかし、同時に週刊マンガ誌の台頭と資本屋の減少により、貸本マンガは少しずつ衰退していくこととなった。その結果として貸本少女マンガ家の多くが、雑誌へと進出することとなり、それがまた新たな流れを、少女マンガ界に作り出すこととなる。その名を挙げると、杉本啓子、高階良子、池田理代子、角田まき子、石井やよひ、南條美和、北条なみえ、大岡まち子、吉森みきを、牧村和美、池田さちよ、すなこ育子、岡部多美、こさかべ陽子、丘けい子、佐川節子、渚かよ子、関口みずき、むら田よしか、松本めぐむ、藤本典子(現・一条ゆかり)、金田君子(現・上原きみこ)といった面々である。

1-6 少女週刊誌

1963年に『少女クラブ(旧『少女倶楽部』)』が『週刊少女フレンド』に変わり、それを追う形で同年5月に『マーガレット』が登場した。そのことにより、少女マンガはこれまでとは違った形態へと変貌していく。『週刊少女フレンド』と『マーガレット』は、「少女誌の主流となり、そこで少女マンガは独自な表現と役割を担うことになる」(石子順造 1994:121)。
『週刊少女フレンド』と『マーガレット』が、「アメリカの少女の肖像写真で表紙を飾ってスタートしたことに暗示されているような無国籍性と、にもかかわらずみごとに温存されているあまりにも日本的な母ものとの結合、これが三〇年代後半にほぼ原型を完成した日本の少女マンガといえる」(石子順造 1994:121)。また、今まで月刊誌で培われてきた少女マンガのファンタジーとロマン、貸本マンガで培われてきた等身大の少女たちがそのまま週刊誌には存在していたのだ。
 週刊誌時代に入り水野英子は、原案や原作のあるマンガを連載する。それらは、外国を舞台とするロマンチックコメディであった。「イキでシャレたファッションのテンポある楽しさは、日本人を主人公にしていてはけっして作ることができなかった。外国とは少女達にとって異世界だったのである」(米沢嘉博 2007:149)。こうした水野英子を起点とするロマコメは、少女マンガの土台となっていった。そして、何よりも物語の魅力は新人作家を育てていく。
1961年にいち早く新人賞でデビューするのが里中満知子である。これを機に、新人作家たちがデビューしていく。「新人達はみな若過ぎるといえるほどだった。読み手と描き手の接近は、作品と読者の接近でもあり、夢は共有される可能性が強かった。読者が何をマンガに望むかということを、自分のマンガ体験を通じて作品に表わす。それまでは少女小説や少年マンガ、映画を土台にして、悲しくかこわくかおもしろいかのどれかを選びとって作られていた少女マンガが、少女達の手で自らのおもしろさを描いてく方向に向かったのだ。センス、感覚こそ求められていた」(米沢嘉博 2007:161)。
 女流作家が主流となり、男性作家が減っていく中で、楳図かずおが怪奇ブームを少女週刊誌に起こした。「それまでの少女マンガの逆説的パターンをとり、しかも少女ドラマであった。(中略)恐怖の形とは美醜の問題であり、恐怖と変わるのは、母、親友、姉、先生といった少女マンガにおける「幸せの形」とでも言うべきものだった。友情や母の愛や兄弟愛といったものが、少女マンガの主要モチーフであったことを思えば、楳図かずおの恐がらせのテクニックとともに、他の少女マンガと併読するといった楽しみがあったようだ」(米沢嘉博 2007:162:163)。また、楳図かずおはちょっと下品な青春コメディも描いた。この頃から、少女マンガのテーマが男女間の愛へと変化していく。
 そして、西谷祥子によって、少女達に身近な恋を感じさせるラブコメが誕生する。「それまでの少女マンガには少なかった高校生男女間の恋愛(恋)をちりばめ、肉親との問題――大人の世界、病気、死、友情といった少女マンガがそれまで扱ってきたモチーフを、読者達が現実に生きている世界(高校)で展開したのだ。勉強、未来、といった問題もそこには入り込んでくる。それまでの少女ドラマが夢やあこがれを楽しませ、笑わせ、感動させていたとしても、それはあくまで物語を楽しむことに他ならなかった」(米沢嘉博 2007:171)。
 1968年には少女マンガの世界にも、スポ根ブームが起こる。勿論、『アタックNo.1』と『サインはV!』によって引き起こされたものだ。「スポ根もののブームは、少女マンガという静的ドラマの中に、少年マンガ的闘いやダイナミックな動きを持ち込んだ」(米沢嘉博 2007:187)。「また、それまでの少女が依存を前提としていたのに対し、自らの力で勝利を掴むというテーマが少女に自立を要求していた。男に依存する存在としての女、親に依存する存在としての少女――といった少女マンガにおける少女の幸せの認識から、力による位置の上昇の幸せとするところへの一足とびの変化ではないが、その二つの対立に悩むといったエピソードで、女性の意味を問うことを少女マンガの中にもたらす」(米沢嘉博 2007:188)。スポーツものはそれだけではなく、肉体性をも少女マンガにもたらした。

1-7 少女マンガの変換期

 新人養成のため、短編読み切りを原則とした月刊誌が誕生する。1964年創刊の『別冊マーガレット』と1965年創刊の『別冊少女フレンド』である。『別冊マーガレット』での新人達は主に貸本系の作家達であった。それに対し、『別冊少女フレンド』は、ちばてつやをメインに据え、残りを新人賞で入賞した作品で埋めていた。「短編少女マンガに要求されていたのはスタイルとセンスであり、起伏のあるストーリーやドラマ作りではなかった。パターンの中で「少女」をいかに描けるかという」ことがテーマであった(米沢嘉博 2007:168)。結果として、短編の需要は多くの新人をデビューさせることとなった。
 1968年5月に講談社と集英社が独占していた少女マンガ界に、小学館が入ってくる。『月刊少女コミック』と月2回刊の『少女コミック』である。しかし、月刊は『別冊少女コミック』に吸収され、『少女コミック』は週刊誌となってしまう。また、1968年1月に『りぼんコミックス』が創刊される。
また、少し高めの年齢層をターゲットとした雑誌として、1968年に『週刊セブンティーン』と『ティーンルック』が、1969年に『別冊セブンティーン』が創刊される。その『別冊セブンティーン』で、西谷祥子は「少女」というキャラクターを描いた。「少女の目によって異化されていく現実。より現実的な世界を設定する西谷は、その現実と少女の対峙によって明らかにされていく「少女」へ視点をさだめ」ていたのだ(米沢嘉博 2007:197)。
この頃に少女マンガは、単なる娯楽から表現としてのマンガへと変化していく。少女マンガの対象年齢が上がるということは、「少女マンガの枠を広げ、可能性を高め、作家達の表現を意欲や意識を高めた」(米沢嘉博 2007:199:200)。
 一方、前述の『りぼんコミックス』と紛らわしいが、1969年に『りぼんコミック』が創刊された。『りぼんコミック』は『別冊少女フレンド』と同様に、新人作家の短編読み切りを主としていた。結果として、ラブコメマンガが増加していくこととなる。だが、『りぼんコミック』は問題雑誌となっていく。それは、一条ゆかり、もりたじゅん、山岸涼子、樹村みのり等の作品による。
その中でも、代表的なのは一条ゆかりである。「それまでのラブコメが「愛」をお手軽でカッコイイ幸せといった程度の取り扱いしかししていなかったのに比べ、一条ゆかりは、それにまつわる苦しみや葛藤を得意な設定を使ったりしながら、生攻法で、把えようとしていく。時には気恥かしささえ感じるほどの熱っぽさで語られる「愛」は、孤独やコンプレックス、状況と個といった問題をそこからひきずり出してくる。心理描写にはイラストっぽい手法を加えたりしながら、一条ゆかりは「少女マンガの絵の魅力」をも前進させていく」。
 もりたじゅんは、少女マンガらしからぬ肉体性の絵で、近親相姦をテーマとした作品を描き、「愛=しあわせ」という図式に疑問を投げかけた。「山岸涼子は、少女マンガが無反省に取り扱ってきたさまざまなものを新たな視点で描」いた(米沢嘉博 2007:204)。それは、救いのない物語や、少女たちの友情がレズにまで発展する、ということである。今までの少女マンガには、さながらパンドラの箱のように、最後には「救い」が用意されていた。それを拒否したのである。「このように『りぼんコミック』は、意欲ある新人達の問題作(2)を終結させることで、一つの時代をマンガファンの間に作った」のである(米沢嘉博 2007:205)。
 1970年代に入ると、『りぼんコミック』から『りぼん』へと活動の場を移した「りぼんコミックグループ」によって、続々と問題作が登場してくる。「短編においてなされていたテーマの追求や手法実験を、長編で行おうとするその動きは着実な結実を見せていく。言ってしまうならば、それはリアリズム指向による青年マンガ的愛の展開だった」(米沢嘉博 2007:209)。結果として、これらのマンガは「少女マンガ」という枠から逸脱していくこととなった。「少女達の感情移入によって成り立つ少女ドラマも、少女の感性を魅きつけ幻想へ誘う華麗なる物語世界も、共に少女達との夢の共有によって少女マンガたり得ていたのだ」(米沢嘉博 2007:213)。

1-8 花の24年組

少女マンガが変革を迎えていた1970年代に、登場したのが「花の24年組」である。「花の24年組」とは昭和24年頃に生まれた少女マンガ家たちのことである。その主な名前を挙げると、青池保子、池田理代子、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子、樹村みのり、木原敏江、山田ミネコ、といった堂々たる面々である。彼女たちだけではなく、この時代の少女マンガ家たちは、従来の古典的恋愛に囚われていた少女マンガの世界に、SFやファンタジーという要素を取り入れていくようになった。代表的なのは竹宮惠子のSFを本格的に取り込んだ『地球へ……』や、萩尾望都の文学を取り込んだ『ポーの一族』などが挙げられるだろう。また歴史的な出来事であるフランス革命期を舞台とした、壮大な大河ロマンである池田理代子の『ベルサイユのばら』も、代表的なマンガである。
また、「女性キャラクターを性的な身体を持った存在として扱い」、「その向こう側にある「少年」というモチーフを深化させ」ていったのも、この頃である(ササキバラ・ゴウ 2004:38)。結果、少女マンガにあった、タブー視されていたテーマも破られていき、少年愛、同性愛、近親相姦といったテーマも扱われるようになっていった。「少年」を主人公とした作品も現われだした。女性は、そのまなざしの先に「少年」というキャラクターを発見したのだ。何故ならば、「少女」はあこがれの対象にはなり得ないが、「少年」はあこがれの対象となり得たからである。
また、1974年に宝塚で『ベルサイユのばら』が上演されブームとなり、少女マンガにマスコミの目が向くようになった。また、『ポーの一族』の単行本の発売もそれに拍車をかけることとなった。SFやファンタジーといった側面から少女マンガに接近するものも現われ、男性読者が現われだしたのである。
1970年代後半は、まさに「まんが界にとってバラ色の時代であった。雑誌の数が多くなったことで、まんが家は、自由に描きたい作品を発表できるようになり明るい、希望に満ちた時代であった」(二上洋一 2005:212)。だが結果として、読み手と描き手の位置が接近していくこととなった。それは、「コミックマーケット」における同人誌活動に顕著に現われることとなる。「少女マンガのヒエラルキーは、素人とプロの差の異常接近によって打ち砕かれ、コミューンを形成する。読者と作家が共にいるユートピアこそ少女マンガ状況であり、少女マンガは、少女達の感性によって少女達の世界そのものとな」ったのである(米沢嘉博 2007:323)。少女マンガは描き手である少女たちが「少女」を表すため、語るための文法として機能していくこととなったのだ。

(1)国民はイメージとして心の中に想像されたものである。国民は限られたものとして、主権的なものとして想像される。国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同士愛として心に思い描かれるからである(アンダーソン 1997:24:26)。
つまり、少女というイメージもまた心の中に想像されたものであり、少女という共同体もまた想像される。
(2)ここでの問題作は、従来の意味での問題作ではない。「少女マンガにとって新しい可能性を持つ、衝撃力のあるテーマや描き方を展開した作品のことだ」(米沢嘉博 2007:209)。

参考文献

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