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写真は「真相」を伝えてくれるのか 【書評:『The Cruel Radiance』】

このところの香港の状況に、何も言葉が見つからないでいる。

「暴徒」たちの写真と「香港の真相」という大きな文字を背景に林鄭月娥行政長官の記者会見が行われた5月15日から、全人代が香港の立法府を迂回し「国家安全法」を直接制定することが発表された21日にいたるまでの1週間の様子は、昨年6月以降に目撃したどんな衝突の場面よりも気分が重くなるものだった。

どうやら香港デモの「真相」は、香港政府および中国政府の立場からは、もうはっきりと定まったようだ。

では、この1年間、マスメディアやネットメディア、あるいは個人のSNSを通じて世界が「目撃」した様々な場面はどうなるのだろうか。

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そんな気分で本来するべき作業にもすっかり手がつかないなか、何か専門外の本を手に取ろうと思って、『The Cruel Radiance: Photography and Political Violence』(無慈悲な輝き:写真と政治的暴力)という報道写真論を読んだ。

「(報道)写真は政治的暴力の悲惨さを伝えられるのだろうか」というテーマで書かれた本で、アウシュビッツや文化大革命からイラク戦争時のアブグレイブ刑務所での拷問事件まで、人類の残忍さを示す様々な事件に対して写真が果たした役割を考察している。

この手の問い自体は写真論ではすでにおなじみのもので、スーザン・ソンタグの『写真論』(と後の『他者の苦痛へのまなざし』)以降、多くの批評家がとりあげてきたものだったけど、その多くは写真の力についてネガティブに分析するのが一般的だった。

たとえば、写真は一瞬の出来事を切り取るけど文脈を伝えられないから、同じ事件を写した一枚の写真が、見た人をまったく別の政治的行動に駆り立ててしまうとか。衝撃的な写真は人々の感覚を麻痺させて「共感疲れ」を引き起こすから逆効果だとか。あるいは、撮り手がどんなに善意を持っていたとしても、そういった写真は被害者を晒しものにする「ポルノ的」なものでしかないのだとか。

ソンタグの著作は日本語にも翻訳されていて、写真論特集などでもしばしば取り上げられるので、こうした議論は日本でもおなじみだと思う。

それに対してこの筆者は、そんなソンタグらの写真批評の多くを「写真嫌いによる写真批評」として批判して、報道写真が持つ肯定的な意味に今一度光を当てようとしている。

ソンタグの言ったこと全てが間違いだと言いたいのではない。彼女の洞察の多くは鋭く、今日においても当てはまるものである。ただし、彼女が、他の誰よりも、写真批評における疑念と不信の風潮をつくり、写真と賢く向き合うには写真をけなさなければならないという風潮をつくってしまったことも事実だ。(…)そういう批評家たちとは異なり、私たちは写真を解体するのではなく写真に向き合い、写真から何かを学び取らなければならないと私は思う。私たちは、[映画批評家・写真批評家の] ジェームズ・エイジーの言ったような”あるがままの無慈悲な輝き”を見つめるべきだと私は思う。写真にも、そして写真の価値を信じる批評にも、それを助ける力があるはずだ。(序論より)

個人的には、筆者のソンタグ批判は流石に手厳しすぎるように思う。ソンタグが写真嫌いだとは決して思わないし、彼女の著作から写真の肯定的な側面を読み取ることも可能だと思うからだ。でも、写真と真実の問題に対して、私たちがにひどく斜めな見方をしてしまいがちなことも事実だと思う。筆者はこう書いている:

今日の私たちは皆、情熱をあざわらい、感情をあざけるプロの皮肉屋だ。そして、特にこのデジタル時代においては、みな写真と距離を置く方法にかけてはエキスパートでもある。ティーンエイジャーですら、誰もが写真を加工したり、バラバラにしたり、ただの嘘だと退けたりする方法を身につけている。私たちが失ったのは、写真に”反応”する能力、特に政治的暴力を写した写真から市民として有益な何かを学びとり、それを通じて他者と通じようとする能力である。(p.24)

今日、世界の悲惨さを伝える写真に対して素直に心を動かされる人がどれだけいるだろうか。あるいは、感じたとして、それを素直に表明できる人はどれだけいるだろうか。「やらせだ」「フェイクだ」「プロパガンダだ」と退けてしまった方が、どこか賢く見えるだろうし、そこに写った事態に向き合う必要もないのだから、精神衛生的もその方が楽だろう。

そんな時代には、まっすぐ写真に向き合うことを呼びかける筆者のような写真論がきっと必要なのかもしれない。

「まっすぐ」といえば、最初にこの本を手にした時から、表紙のまっすぐな目でこちらを見つめる少女の写真がとても印象的だった。本の中の説明によると、彼女はポル・ポト政権下のカンボジアで処刑された少女で、この写真は処刑場の看守が撮影したものなのだという。

だからこれは被害者を救うという意図で取られたものではないし、彼女が経験した悲劇の場面そのものを写したものでもない。彼女の短い生涯についても、ポル・ポト政権下のカンボジアについても、この写真自体は何の解説もしてくれない。そういう意味では、報道写真としては(そもそも報道写真ではないから当然なのだが)とても不完全だ。

だけど無限に解釈の可能性が残された写真だからこそ、この少女の境遇について、見たものに想像させるような迫力がある。彼女はこの無表情な顔をカメラに向けるこの瞬間までに、一体どんな経験をしてきたのだろうか。輝きを失った彼女の瞳には、一体どんな光景が写っていたのか。このまっすぐな視線の先に、彼女は一体どんな未来を見据えていたのか。

実際、私はあまりにも印象的なこの表紙に心を奪われて、なかなか中身を読み進めることができなかった。

どうやらそんな力こそが、この本が伝えようとしている写真の魅力らしい。写真は、そこに写る対象ついて、そしてフレームの外側の世界について、深く考えるきっかけを与えてくれる。

イラク戦争下の子供達の日常を写した写真について、筆者はこう書いている。

この写真の解釈の無限さこそが、この写真がイラク戦争をめぐる入り組んだ政治への回答など与えくれないことこそが、この写真の価値だ。どう感じるべきかを示さないことで、私たちは、理解を超えた物事について感じることができ、もう少し深く掘り下げ、もう少し深く考ようと思える。(…)写真を、ただ私たちがナイーブに受け止めるか、あるいは蔑み拒絶するかのどちらかしかない静止した対象として捉えるのではなく、ある種のプロセスとして、対話のきっかけ、探究のはじまりへと私たちの思慮と意識とを導くものとして考えられないものだろうか。(p.29-30)

ソンタグらの批判どおり、写真は常に真実を伝え、人々を正義に導く完璧なメディアなどではない。それでも写真がその発明以来、人類の考えや価値観に与えてきた影響はやはり無視できないだろう。もし写真を一度も目にしたことがなければ、あなたの世界観はどうなっていただろうか、と筆者は問いかけている。

少なくとも、この写真を見ていなければ、私がこの少女の境遇に思いを馳せることはなかったし、ポル・ポト政権下の虐殺について、ひとりの人間が直面した悲劇として想像してみることもできなかっただろうと思う。

そういう意味では、この写真は、彼女の命を救うことはできなかったかもしれないけれど、彼女を葬り去ろうとした政権の思惑を超えて、虐殺をただの歴史的事件として風化させてしまう時の流れを超えて、彼女の身に起こった出来事について、後世の人間に真剣に考えさせるだけの力を持っていることは確かだ。

写真は必ずしも「真相」を伝えてくれないかもしれないけれど、そうして始まった誰かの真剣な考察が、いつの日か、葬り去られ隠された事実に再び光が当たるきっかけになるかもしれない。

今ばかりは、そういう写真の力を、ナイーブに信じていたいと思う。

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(2019年9月7日、香港・大埔にて撮影)

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