【未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ】 終 「鏡」に映るもの
「未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ」と題したこの連載では、2019年に書いたカントポップまとめ「一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論」の続編として、2020年から今年にかけての香港のポピュラー音楽を簡単に振り返ってきた。
2019年の逃亡犯条例改正デモの最中に前回の連載を書いた時、その後の香港にここまでの変化が起こることは想像できていなかった。
でも香港の政治的変化は、想像したくはなかったにせよ、近年の中国情勢、香港情勢を見ていれば、ある程度予想できるものではあった。
しかし、香港にMirrorのようなスターが再び現れることは、2019年の私は正直言って全く予想すらできていなかった、もっと想定外の事態だった。
2019年当時の香港では、インターネットの普及以降のメディア消費の細分化によって、かつてスターを輩出してきたオールドメディアは求心力を失い、誰もが知る大物歌手は生まれにくくなっていた。
また政治への関心の高まりの中で、政治問題や社会問題から乖離した浮世離れした芸能人が忌避される風潮もあった。
そんな中、政治的立場を超越するポップスターが再び復活したのだ。
それも、このとびきり「暗い時代」の香港に。
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自由は君の好きな旋律の中に
カントポップの歴史、あるいはポピュラー音楽そのものの歴史を紐解けば、暗い時代に明るい歌がはやるのは、決して珍しいことではない。
実は、まだ2019年の運動の熱が冷めやらぬ頃に、今日のMirrorブームの状況を予見するような文章を目にしたことがあった。
2020年8月、広東語文学雑誌『迴響』に掲載されたMiltonという著者の「音楽は自由にする:抗争中に歌を聴く価値について」(音樂使人自由:論聽歌喺抗爭中嘅價值)という論評だ(この雑誌については、以前noteに記事を書いたことがある)。
当時はまだ2019年のデモに関連するプロテストソングがデモ支持者たちの間で広く愛聴されていた時期だったが、この論評の筆者は、70年代アメリカなどの事例を引きながら、そうした政治的歌の流行は長続きせず、むしろ政治や社会が暗い時期ほど案外温和なポップスが好まれる傾向がある、と指摘していた。
カントポップの歴史を見ても、レスリー・チャンから四大天王まで、多くの煌びやかなスターが台頭した1980年代~1990年代初頭は、1984年に中国への返還が決定し、1989年に天安門事件が起こり、将来への不安が広がる中で1997年へのカウントダウンが迫っていた、おそらく政治的には非常に暗い時代でもあった。そんな時代でも、あるいはそんな時代だからこそ、香港の人は自分が好きなアイドルたちの明るい歌を聴いていたのだ。
またこの筆者は、たとえばデュア・リパやビリー・アイリッシュを聴いたところで、自由を求める心が消滅するのだろうかとも問うている。むしろ、自分の好きな音楽を聞くという行為は、それ自体が自由の表明に他ならないのではないか、と。抑圧が社会の主旋律となった時代にこそ、自分の好きな音楽を聴く自由はより得難く、貴重な自由であるはずだ。
「自由とは、君の好きな旋律の中にあるのだ」(自由,就喺你喜愛嘅旋律之中)という印象的な言葉でこの論評は結ばれていた。
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One and All: 「Mirror現象」とは何だったのか
Mirrorは逃避なのかもしれない。ただの商売なのかもしれない。瀕死の音楽業界を救い、若い才能が輝く場をもたらした救世主なのかもしれない。こんな時代に香港らしさを誇らせてくれる唯一のものなのかもしれない。あるいはただの一時の流行にすぎず、来年なれば何事もなかったように忘れ去られる運命なのかもしれない。
たぶんMirror現象は、その全てであるのだろう。
人々がどんな気持ちでMirrorを聞いているのかを決めつけることはできない。
ただ一つ確かなのは、多くの人が深刻に考え込むこともなく、罪悪感にかられることもなく、立場に関わらず気軽に消費できるポップスというものが、彼らと共に復活したように見えることだ。
それ自体の色を持たず、様々な人が感情移入でき、「好きだ」と思える流行歌は、それだけ多くの人々の心を動かす力を持つ。
そういう歌は、長い目で見れば、きっと社会に少なからぬ影響を及ぼすだろう。様々な心を支え、多様な人生に寄り添い、無数の行為の原動力なるのだから。
それこそが、リスナーの心を鏡のように写すポップソングの強さなのだと思う。
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それでも香港には歌がある
2019年に書いた連載の最後の記事を、私はこんな言葉で締めくくっていた。
今だから正直にいうと、この時は自分で書きながら半信半疑だった。
ただそうあってほしいと思って、願望や希望を込めて、自分に言い聞かせるように書いていただけだった。
当時、連載を書き終えた後は、なかなか続きを書く気にもなれなかった。変わりゆく香港について日々耳にするだけで気が重くなり、音楽や芸能に関心を持つ余裕がなくなる時期もあった。そんなものについて書いている場合だろうかとも思った。
今回の続編を書こうと思えたのは、Mirrorを聴いたからだった。
Mirrorの歌を聴いて、新世代の歌手たちの歌を聴いて、自分が2年前に書いた言葉をはじめて心から信じられた気がした。
カントポップもまだまだ終わってない、香港もまだ終わっていない、と。
これからの香港がどうなるかはわからない。
でも2021年の香港には、少なくとも歌があった。
この上なく暗い時代の香港で、それでも歌は歌われていたのだ。
暗い時代についての歌も、そうでもなさそうな歌も。
だからこの先もきっと、どんなことがあっても、香港からカントポップという「声」が消えることはないだろう。
今は2019年の自分よりも、心からそう信じられる気がする。
【未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ】完
[バナー画像出典:am730(CC BY)に基づき筆者作成]
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