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危機の中の地域研究、あるいは文系の院生はどう「役に立つ」のか——『香港危機の深層』刊行に思うこと

『香港危機の深層』の発売直前に、この本は「現実の危機に際して、役に立たないと思われがちな文系の学問に何ができるかというひとつの提言にもなっている」と書いた。

実際に、この本についていろいろなところで取り上げていただいたり、関連するシンポジウムにもとても多くの方に来ていただけたり、昨年6月以降の香港情勢への注目の高まりを受けて「香港の専門家」の知識が一般の方々に広く求められていることを強く感じた。

そこに微力ながら携わらせてもらったなかで、私のような文系の院生が、あるいは地域研究という学問が、世の中にどのようにして貢献できるのかについてもいろいろと考えるきっかけにもなったから、ここにそれを少しシェアしたいと思う。

文化人類学/香港地域研究という狭い領域からの話だし、なによりあくまで個人の感想にすぎないけれど、文系の院生がどんなことを考えて研究をしているかについて興味をもつきっかけにしていただけたらと思う。

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ある研究が世の中の「役に立たない」と言われる時、そこには二つの意味があるんじゃないかと思う。

一つは、高度に専門的すぎることをやっていて、一般的な課題への応用の可能性が想像しづらいような、つまり「そんなことやってなんの役に立つのか」という問題。よく研究者について言われるのは、たぶんこっちだ。特に理系の研究者が日々直面しているのはこの問題なんじゃないかと想像してる。

もう一つは、研究そもそもの「専門性」が疑われる場合。案外文系について言われるのはこっちが多いんじゃないかと思う。「筆者の気持ちでも想像してろ」という悪口がその典型で、文系の学生がやっていることは、どうやら小学校の国語のテストと変わらないと思われてるらしい。

そういう印象を与えてしまうのも、ある意味仕方ないのかもしれない。

実際、文系の研究者がやっている作業は、基本的にはとても身近なもので、ラボで最先端の機器を使って行われるような研究と違って、一見それほど特別な技能を必要としなさそうに見える。

それは、統計データを豊富に使うような一部の領域を除けば、世の中の人々が普段からやっていそうなことと変わらない。文学研究をしていなくても文学を読んでいる人はたくさんいる。言語研究をしていなくても語学の勉強をしている人はたくさんいる。歴史家の読むような一次史料を読むことは、すこし難しいかもしれないけれど、特別な機材が必要なわけではないし、実際に一般の郷土史家や歴史マニアというのは一定数存在している。文化人類学者が行う「フィールドワーク」というのも、カッコいい響きをもつ言葉ではあるけれども、旅行や留学を通じて異文化の中に身を置く経験はもはや珍しくもなんともない。

今回の『香港危機の深層』という本だってそうだ。香港を専門とする研究者が集まって、つまり香港を対象とする「地域研究」の研究者が集まって、昨年6月以降の危機を考察した本だけれども、同じ時期の香港については多くのジャーナリストが取材をしていて、すばらしい記事をたくさん書かれている。中には今後書籍化されるものも多く出てくることだろうと思う。

では、ある地域や領域を専門とする研究者の強みとはいったいなんなんだろう。

それはやっぱり「専門性」にあるんだろうと思う。

この言葉は、誤解されがちだけど、ただの「物知り」と同義ではないはずだ。

たとえば香港のいろいろな側面、たとえば食べ物やら芸能やらについて、研究者より詳しい「香港マニア」の方々はたくさんいるし、今回の危機について取材を重ねてきて、私たちよりもずっと「現場の声」に精通したジャーナリストの方はたくさんいると思う。単純な知識量で言えば、私たち研究者というのは、そういう方々や香港に長く住んでいる人々(香港人自身を含め)にはまったく敵わない。

じゃあ研究者の強みはなにかというと、逆説的だけど、研究対象に対して「広い視野」を持てることだと思う。

研究者というのは細々としたことに拘りをもって調べる変わりものだというイメージがあるかもしれない。でも研究者というのは、そうして細かいことについて調べた知識が、自らの「専門」のなかに位置づける広い視野も持っている。

文学者が文学を読み、言語学者が言語を調べ、歴史学者が史料を読んで、人類学者がフィールドに出かける時、彼らは必ず、自分の調べようとしている事柄について、これまでどんなことがわかっているか、反対にどんなことがわかっていないかを知っている。

調べようとする事柄について、これまでにどんな調査が行われてきて、どんなことが言われてきたかがわからなければ、自分がやった研究がほんとうに新しい「発見」につながったのかはわからない。だから研究者は常に他人の研究にも常に気を配っている。

自然科学については、長らく「巨人の肩の上に立つ」ということが言われてきたけれども、文系でもそれは変わらない。研究者は常に既存の研究に気を配り、その上に自分の行う細々とした調査を位置付けて、世の中に少しでも新しい「発見」をもたらす努力をしている。

だから自分の専門とする領域で何かが起こった時、それについて普段から考えている研究者は、その出来事を幅広い文脈の中に位置付けて考えることができる。

『香港危機の深層』の筆者たちについても、全員が今回の「危機」の起こる遥か前から香港に拘りをもって注目をしてきた人たちだ。だからこそ今回の危機について、法学や政治学や経済学や歴史学などのそれぞれの専門から背景を解説して、問題を深く掘り下げることができている。

香港で起こったデモが、ある法律の改正に端を発していることはみんなわかっているけど、政治学者や法学者は、その改正問題がどんな政治制度/司法制度の中で起きたことかが具体的に解説ができる。デモの主体が若者であることはよく知られているし、彼らの持つ不満についてはジャーナリストの方々の精力的な取材によって日本でも多く伝えられているけど、経済学者はさらにそれを実際の統計をもとに経済的な背景からも説明することができる。歴史学者は、ニュースを騒がせた「香港独立」という言葉や「白シャツ集団」による事件について、長い歴史的なタイムスパンのなかで検討して、今目の前で見えている現象だけでは語りきれないことを語ることができる。

この本は、一連の香港関連のニュースを見てきた人、あるいは香港について既に一定の知識がある人にとっては、とくに新しい「事実」はほとんど書かれていない本だったかもしれない。でも、そんな既知の事柄を大きな文脈に位置づけて広い視野で考える方法が書かれている(と思う)。だから本書には、誰も知らない事柄をあきらかにするという意味の「真相」ではなく、既に知られた現象を深いレベルで捉えることを意味する「深層」というタイトルがつけられている(はずだ)。

現実の危機が起きた際に、それに研究者が素早く反応できるのは、世間の注目を集めていないうちからこつこつと行った基礎研究の積み重ねがあるからだ。これは理系でも文系でも変わらないだろう。世間から注目される華々しい研究成果の背後には、日の目を見なかった無数の地味な研究の積み重ねがある。その積み重ねが豊富であればあるほど、研究者は起こったことを出来事を瞬時に分析して、その結果を世間に還元することで「役に立つ」ことができる。

『香港危機の深層』をデモの勃発から半年ほど、企画から4ヶ月足らずで緊急出版することできたのも、香港研究者が日頃からそういう鍛錬を積んできたからだと思う。そして個々の研究者がそれを行うことが可能だったのは、これまでの香港研究が、あるいは同時代の他の研究者たちが積み重ねてきた研究成果という「巨人」があったおかげだ。

編者は序文の中でこの本を「日本の香港研究の意地の結晶」と呼んでいるけど、それはきっと、こういう日ごろの知識の積み重ねのたまものだからなのだと思う。

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バナーにも使ったこの写真は、私が自分のフィールドである香港で撮ったものだ。

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山の上から香港市街地を望める人気観光スポットで撮影したもので、香港を訪問する観光客の多くが、香港の摩天楼とビクトリア湾が一望できるこの美しい景色を写真におさめようとする。

観光客と同じバスに乗ってこの場所についた私は、彼らと同じようにこの景色に感激した。けど、ふと展望台から離れて、ただ美しい景色だけでなく、この風景に夢中になる観光客たちの姿をも写真におさめたいと思って、この写真を撮った。

私は自分とフィールドとの付き合い方を、いつもこんな風に捉えている。研究対象とする人々と同じ現場に身を置いて、同じ空気を感じつつも、それから一歩引いた広い視野に常に気を配る。高精細な顕微鏡や望遠鏡を使って誰も見たことがない未知の世界を探求するのではなく、既知の事柄を新しい視点から切り取って見せるのが文系の、少なくとも文化人類学という学問の役割だと思っているからだ。

世界で何か問題が起こると、多くの人がそれに注目をして、報道も過熱する。様々なディテールが報じられ、世の中にそれにまつわる情報が溢れる。「ブーム」の中で、ありがたいことに、専門家としてその問題を扱ってきた人々の知識が突然にクローズアップされることになる。

そんな状況で自分のような研究者にできることは、ある種この写真のように、クローズアップされてピンポイントで注目を集めた事柄を、広い視野の中で捉える手助けをすることなんじゃないかと思う。

そうすることで短期的なブームを長期的な関心に変えることができれば、それによって自分が対象とする事柄について理解してくれる人が増えるなら、少しは自分の研究が「役に立った」と思える気がする。

自分の研究分野が将来どんな形で世間の注目を集めるかは誰にも予想できないと思う。けど、そんな瞬間が来た時モノを言うのは、自分が普段から広い視野を持てるだけの知識と経験を積み重ねていられるかどうかだと思う。

結局、研究者にとって「いざ」という時に本当に「役に立つ」のは、流行に流されずにコツコツ身につけた知識だけなのだろう。

今後香港に対する世間の関心がどう変わっていくかはわからないけど、とにかく自分の専門だと思える事柄について、広く深い知識をしっかりと積み重ねていきたい。それがいつの日かまた「役に立つ」時が来るはずだから。

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