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小説『雑草』


私は道に咲く花である。
ものごころついた頃にはアスファルトに囲まれていた。
すぐそばにはどこまでも続く白線が引かれている。
時たま、前を人が、後ろを車が通りすぎる。
私から下に伸びる足の先はまるで針通しの穴のように窮屈で、土を見ることはできない。
土の柔らかい感触は曖昧な記憶の中にしかない。
手が届きそうなすぐ先には、蝶々結びほどの大きな隙間があり、そこに煌びやかな茶色い土が覗いているのだが、どう頑張っても一度生えてしまったこの場所から動くことはできない。
さらに言えば、私は背中を掻くどころか、腹を掻くことも、頭の中を搔きむしることもできない。
生きている限り拭えないこの痒さというか“凝り”が、私を疲弊させ続ける。
とはいえ、周りから見たら大したことではないのだろう。
私には言葉にする口も、歩くための足も、表情を見せる顔もないのだから、何を考えたところで、いずれこの場で枯れることには変わりない。
ぬいぐるみがいくら物を考えていようと、愛され方が変わるわけではないのである。
何の意味もないのにひたすらに疲弊していく精神をどうすることもできないまま、ただひたすらに枯れるのを待っていた。

ある日、私は優しい人に拾われた。
物憂げな少女だった。
彼女はしばらく私をじっと見、何を思ったのか、私の足首の辺りから優しく摘み取った。
少しだけ痛みを感じたが、数月ぶりに感じた感覚を少しだけ心地よく思った。
それは退屈な日々に吹き荒んだ嵐のようで、そのまま枯れてしまうのならそれもいいと思った。
宝くじに当たるような確率を引き当てた私は幸運なのだと、その時は思った。
彼女は私を摘むとすぐさま水の入ったペットボトルに差し入れた。
水にぷかぷかと浮かんだまま、私はカバンに入れられた。
真っ暗闇の中私はゆらゆら揺られ、どんなところに連れていかれるのか楽しみだった。
その次に光を見た時にはもう彼女の部屋だった。
きっとこの人と一生を添い遂げるのだと、と私は悟った。
言葉を交わしたわけではない。
しかし既に私は彼女に惚れていたように思う。
家に着くやいなや、彼女はペットボトルの上側をカッターで切り始めた。
新鮮な空気が私の頬に触れた。
そのまま私は陽の当たる窓際に置かれることとなった。

はじめの数日は幸せであった。
彼女の弛みない水やりのおかげで、寝食には全く困らなかった。
生まれてこの方感じたことのない優しさも味わった。
自分だけがここまで幸せになってもいいのだろうか、と同胞たちに少しばかりの罪悪感があったが、私を知る友人がいたわけでもなかったので、ある程度割り切ることができた。
部屋には排気ガスの臭いは一切なく、仄かにヒノキの香りがした。
彼女がクラシックを聴きながら本を読むのを私は毎日眺めた。
彼女は確かに優しかったし、私は確かに“幸せ者”だった。
しかし、ものの数日で私の蛇足な心が暴走を始めたのである。

それまでも、本を読むことのできる彼女に少しばかりの嫉みなどはあった。
しかしそれは道路を行き交う人々を眺め散々悩んできたことであったし、既にほとんど清算できた悩みであった。
だからそれはもはやどうでもよかった。
そんなことよりも、自分が拾われてしまったことによって一つ、とてつもなく大きな呪いが課せられたのである。
それは、彼女があまりに優しいからこそ、そして彼女が非常に感性豊かだからこそのものだった。
私が枯れた時、彼女は必ず悲しむ。
私が枯れた時、彼女は必ず傷つく。
それはもう火を見るよりも明らかだった。
彼女が悲しむ姿を想像して、私は胸が張り裂ける気持ちになった。
彼女は自分を責めるだろうか。
自分の世話が足りなかったと思うだろうか。
なんとしてでもそれだけは避けたかった。
「私は自分の死期を悟っている。だから貴方のせいではない。貴方は私の救世主でさえある。だから貴方が責任を感じることはない。」
そう言葉にするまでは行き着いた。
しかし私には、それを伝える力が一切なかった。
私は彼女が悲しむことだけ知ったまま、何もできずに朽ちていくのだ。
これほどまでに残酷なことがあろうか。
地球がひと月後に滅びることを私だけが知っていて、それを救う方法まで思いついているというのに、それを黙って見過ごせというのか。
尚且つ、地球が滅びるのは私のせいなのだ。
自分の非力さをこれほどまでに呪ったことはない。
私の未来は真っ黒に染まり、計り知れない罪悪感が、絶え間なく押し寄せた。
これまでのどんな悩みも取るに足らないものだった。
土の感触を二度と知れないところで、本を一度も読めなかったところで、私が苦しむだけであり、もはやそんなことはどうでもよかった。
私のせいで誰かが苦しむ。
私のせいで大切な人が悲しむ。
私は今すぐにでも元居たアスファルトに戻りたいと願った。
しかし、私にはその足はないのである。
逃げ出すことも消え入ることもできず、枯れるのを待つしかない。
それがひどく苦しかった。
せめて、今私がこんな絶望の淵に立っていることを彼女に知ってほしかった。
しかし洗面所の鏡に映った私は、ただ美しく咲いていたのである。



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