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「音楽・平和・学び合い」(16)

◆【実践報告】
  中学校における臨床教育学的生徒理解(2)
  -生徒のナラティヴを引き出す音楽科授業-

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言われても反応できない。反応しないのではなく、できない。
今の時代は、KYは嫌がられる存在。
小中学校では、先生の言うことを聞いて、動いてきているから、
9年間でそうなってしまった。
やりたいけれど、できない。そういう環境にされてきた(と私は思う)。
先生が怖いから…怒られたくない…。そうやって縛られてきた。
自分自身は変わりたいけれど、どうやったらいいのか?
怖い。不安。人の目、全てが気になる。
自分の考えが全てみんなと同じ訳ではない。
自分が傷ついてしまうくらいなら、このままでいい…
なんて思ってた。大人だって…親だって…先生だって…
そうやっているからできない。
外国はみんな一人一人考えを持っていて発言できる。
もちろん大人、先生、親、みんなそうやっているからできる。
日本人は逆。ゆとり教育なんてウソだ。しばられ教育だ、と何度も思った。
このままだったら100%変えられないと思う。
クラスで2人実行する人がいれば3人。3人いれば4人。4人いれば5人。
そうやって少しずつやれるようになるのが自分の理想。
自分のことを理解してくれる先生なんて誰もいない。
言われてショックだった言葉…
「お前はおかしい」完全否定された言い方でした。
それで全てが怖くなりました。
キレイごとなんて言えないけれど、これが私が思ってたことです。
3年間+6年間、義務教育の全てです。
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 長く中学校で教師を続けてきたが、これほどリアルに心情を吐露した文章は初めてだった。提出しなくても良い自由記述を、彼女はわざわざ「先生、是非読んでください」と自発的に持ってきたのだった。この文章を読んで、私は教師としてのあり様、学校教育のあり様を強烈に告発されているように感じた。このようなナラティヴを中学生に語らしめる学校文化とは、一体何なのか。その背景には、「自分の意見を求められる機会などない」という学校文化以前に、「主体として存在することを許さない諸条件」が幾重にも織りなされているのではないか。それを作り出しているのが我々大人の文化なのではないか。この生徒の言葉からは、教師であり続ける限り、ずっと課題として突きつけられるテーマをもらったように感じている。

 金子奨氏(公立高校社会科教諭、「高校学びの広場」事務局)はその著書において、様々な背景を持つ子どもたちが互いに繋がり合えず孤立していた教室に、「対話」を通した学びを持ち込むことで少しずつ彼らの絆を紡いでいく様を、丁寧に記述している。そしてその著書の最後を、次のような言葉で終えている。

「(前略)こうして対話を核とする協働の活動は、「話しあい」から「聴きあい」へ、そして「語りあい」へと様相を変えながら、多様な人々の声が響き合う交響/公共圏を生成させていく。それはとりもなおさずP.フレイレのいう「民主主義的な関係」を構築する過程にほかならないのである。」10)

 氏が指摘する「交響/公共圏」としての「民主主義的な関係」に照らせば、先に紹介した生徒たちに決定的に欠けているのは、金子氏が強調する「対話的な実践」なのではないか。思えば、フレイレが銀行型教育に対置した「問題解決(課題提起)型」の教育の核となるものは、まさに「対話」であった。11)                              

【注】
10)金子奨『学びをつむぐ〈協働〉が育む教室の絆』
                       大月書店(2008)p.227
11)P.フレイレ(三砂ちづる訳)『新訳 被抑圧者の教育学』
      「第三章 対話性について-自由の実践としての教育の本質」
                     亜紀書房(2011)pp.122-196(4/10頁)

===編集日記=== 
 皆様に支えられて「日刊・中高MM」第3312号です。
 笹木陽一さんの「音楽・平和・学び合い」、お届けします。
 ・【実践報告】
  中学校における臨床教育学的生徒理解
  -生徒のナラティヴを引き出す音楽科授業-
 北海道の音楽の先生、笹木先生の論文を掲載しています。
 本号で全体の4割ほどになります。
 一度に掲載するよりも短期間に全体が読めるようにしたいと考えて
 編集しています。

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