見出し画像

登山でも散歩でもない、新しい徒歩の旅〜フラット登山という提案①

登山というと「つらい」「歩くのだるい」「足が痛い」という印象を持つ人が多いようです。そういう意見に対し、山慣れてるしてる登山者の中には「体力つければ大丈夫」「そんなの慣れだよ」とバカにする人もいます。そういうちょいと「上から目線」が、結果的に登山と社会の距離を遠くしてしまってる。

登山というものに対する固定観念もあります。「ヒイヒイ言いながら急な登山道を歩いて、なんとか頂上に到達して達成感を味わう」みたいな固定観念です。しかし本当にそれが登山の本質なのでしょうか?

ここでいったん、すべての固定観念や常識をとりはらって、登山とはいったい何なのか。わたしたちは登山に何を求めているのかを定義しなおしてみようじゃないですか。

登山とは「頂上まで登る」こと?

たしかに頂上は気持ちよく、良い眺めを楽しめることも多いでしょう。しかし頂上に行かなくても、気持ちよい場所や眺めの良い場所は無数にあります。

登山とは「達成感を味わう」こと?

たしかに頂上に到達すれば、達成感は味わえます。そういう喜びは否定しません。でも右肩上がり成長の時代ならともかく、そもそも「頂上というゴールに達成して、それでハッピーエンド」という世界観自体が、二十一世紀の現代には適合していないのではないでしょうか。いきなり大袈裟ではありますが。現代の価値観はゴールへの達成ではなく、「いまこの瞬間の平凡な幸せの持続」というものに変わってきているのではないでしょうか。だったら登山も頂上というゴールを目指すのではなく、「いまこの瞬間が気持ちいい」という持続する快感という価値観を目指したっていいはず。

「裏岩手」と呼ばれる東北の長大な山々を四日かけて縦走。達成感はすごかったが延々と泥道との格闘ですげえ疲れた……

登山とは「スリルを味わう」こと?

スリルは確かにあります。ナイフのように切れ落ちた稜線、ゴツゴツとした岩稜の鎖場、広大で深遠な森林での道迷いの不安。しかしこうしたスリルを求めすぎると、「命を喪う」というしっぺ返しもあります。
振り返ればわたしが登山を始めた1980年代は、まだ組織登山が元気だった時代でした。大学生は山岳部やワンダーフォーゲル部に所属し、在野の社会人山岳会もたくさんありました。そうした組織に所属することで、登山のスキルやルールを基礎から学べたのです。しかし現代は組織登山はすっかり衰退し、個人登山の時代です。変な縛りがないためそれはそれで気楽で良いのですが、登山を体系的に学ぶ機会は乏しくなりました。だから昔だったら考えられないような、たとえば雪山の経験が少ない人が春の穂高連峰に入り込んで滑落して大騒ぎ、なんていうことがひんぱんに起きています。
登山のスリルは楽しいのですが、実力を伴わないスリルはただ危険なだけです。

登山をするのは「そこに山があるから」?

これはエベレストで遭難死した著名な登山家ジョージ・マロリーの言葉ですね。エベレストが登頂されていなかった1920年代に「なぜあなたはエベレストに登りたいのですか?」と聞かれ、「そこに(エベレストが)あるからだ」と答えたとされています。未登頂の世界最高峰がそこにあるのだから、目指すのは当然だろうというフロンティア精神です。
とはいえここは日本で、おまけにあなたが登ろうとしてるのは、誰でも気軽に登れる山です。「そこに山があるからだ」はあまりにも大袈裟すぎるでしょう。

そもそも登山は、山頂に行くことだけではない

ここで「登山」を再定義しましょう。山頂を目指すことだけが、登山ではありません。「登山」という単語は「山に登る」という意味ですが、「山頂を目指す」とイコールではない。登山道を歩き、登ったり下ったりするという行為こそが「登山」なのです。山頂にたどり着くのは、その結果に過ぎない。

これは言葉遊びではありません。登山の楽しさの本質は、「歩く」という行為そのものの中にあるというのが、わたしの持論です。「それって散歩で良くない?」という声が聞こえてきそうですね。散歩という用語の定義にも因るでしょう。サハラ砂漠横断など世界中をリヤカーで歩いて有名なリヤカーマンこと永瀬忠志さんを、新聞記者時代に取材したことがあります。取材していて驚いたのですが、「日本の東北地方の縦断」とかそういうレベルの旅を永瀬さんは「散歩」と呼んでました。それを散歩というのなら、日本のたいていの登山はどれも散歩レベルでしょうね。

とはいえ、一般的な意味での「散歩」は、公園や舗装された遊歩道、都市の街路などをせいぜい数十分ぐらいそぞろ歩くというものでしょう。しかし日本は広いのです。一般的な「散歩道」に当てはまらないような登山道や踏み跡が無数に存在します。散歩だけではもの足りない、散歩のその先に、もっと深く濃い自然の中を歩いてみたいと思う人の欲求にも、日本の自然は存分に答えてくれるのです。

ある夏の日の霧ヶ峰高原

ただ「歩く喜び」を全身で味わいたいだけ

たとえばわたしのイメージする「歩く」は、以下のようなものです。

長野の戸隠神社奥社の森。誰もいない深緑の中をひっそりと歩く

……光が降り注ぐ森の中で、木漏れ日が揺れる踏み跡が小川に沿って縫うようにして先へと続いている。踏みしめれば古い落ち葉がきしきしと鳴り、小川のせせらぎ音と混じりあって、豊かな音楽のように鳴り響いている。やがて道は少しずつ傾斜を強め、小径を取り巻く樹々は低い灌木に代わった。目の前に横たわっていた丘を越えると、急に展望が拓けた。遠くの山々のあいだに湖が見え隠れし、湖面が太陽を反射してキラキラと光っている。

このような森の中の踏み跡だけでなく、登山道や遊歩道など日本には無数の気持ちよい道があります。地平線の向こうまで続く草原の道、風が吹き抜けていく大河のほとりの道、切り裂くように深い青空が印象的な高原の道、鉄道の廃線跡をたどる道。

旧JR信越本線の跡をたどる「アプトの道」を歩く

そういう道の数々をただ歩くことができるというだけで、ほんとうに幸せ。気持ちよい道を気持ちよく歩いていれば、山頂なんかどうでも良くなるのです。

そもそも山頂を目指す登山は、山頂に着いたらそれがゴールになってしまう。あとは下り坂に神経を使いながら、ただ山を下りるだけ。登り続けて山頂にたどりつき、山頂から単調な登山道をひたすら下って「早くバス停に着かないかなあ」と愚
図っているのは、あまりに単調です。

山頂なんて、ただの通過点に過ぎない

山頂をゴールや目標にする必要なんかないのです。ただ歩いていくことが登山の目的なのであって、その途中に山頂があったとしても、ただの通過点に過ぎないのです。

とはいえ、「長く歩く」「どこまでも歩く」が自己目的化してしまうと、それはそれでまた辛いものになりかねません。登山のなかでも近年注目されているジャンルに、ロングトレイルというものがあります。トレイルランと混同している人がときどきいますが、ロングトレイルは走るスポーツではありません。日本ロングトレイル協会の定義によれば、ロングトレイルとは次のようなもの。

「『歩く旅』を楽しむために造られた道のことです。登頂を目的とする登山とは異なり、登山道やハイキング道、自然散策路、里山のあぜ道、ときには車道などを歩きながら、その地域の自然や歴史、文化に触れることができるのがロングトレイルです」

ロングトレイルも長さが目的になると辛くなる

まさに「歩くことの楽しさ」を追求するのがロングトレイルなのですが、しかしロングトレイルにはどうしても「長大」というイメージがついてまわります。発祥の地であるアメリカで、代表的なロングトレイルとしてあげられるのがアパラチアントレイルですが、全長はなんと3000キロ。日本でも最長のロングトレイルというと、東日本大震災の被災地を縫うように設定された「みちのく潮騒トレイル」が全長1000キロ。八ヶ岳のふもとをぐるりと一周する八ヶ岳山麓スーパートレイルは全長200キロ。日本のロングトレイルの草分けとなった信越トレイルは全長110キロ。いずれも長大です。

もちろんどのトレイルも、端から端までを一気に歩かなければならないわけではありません。一部だけを切り取って楽しんでも全然構わないのですが、しかしロングトレイルにはどうしても「長大なコースをひたすら歩き続ける徒歩旅行者」というイメージがついて回ります。孤高で求道者的なのです。

富士の山頂に行かずに富士を歩いた一日

求道的ではない、悦びの「歩くたび」という提案

そこでわたしからの提案です。ロングトレイルほど求道的ではなく、かといって山頂を目指す登山でもなく、もっと気楽に、もっと短く、「歩く旅」を気持ちよく楽しもう。

かといって散歩やピクニックほど緩い歩行ではなく、都会の散歩よりももっと深く濃い自然に浸り、とはいえ辛くならない程度に、ただ歩く喜びを満たす旅。

目的は、歩く楽しさです。山頂を踏むこともありますが、それは目的ではありません。長く歩くことを目指すわけでもありません。楽できるのなら楽な道を歩けばいい。

歩くコースは、できるだけ変化に富んでいたほうがいい。車道、歩道、遊歩道、あぜ道、牧場の中の道、林業の仕事道、踏み跡、けもの道、磯の海岸。あらゆる道を歩いて、多様な足跡を刻んでいく。山の魅力をあえてつまみ食いするのです。

わたしはそういう「登らない登山」「ただ自然の中を歩く旅」を、従来の頂上を目指す登山とは区別して、ひそかに「フラット登山」「フラットハイキング」などと呼んでいます。なるべくキツイ登りを避けて(完全に避けるのは無理ですが)、フラットに自然を横移動していきながら、歩く喜びを満喫する。

そういう新たな「歩く旅」、フラット登山を楽しんでみませんか。本シリーズでは、実際に私が歩いたフラット登山のコースをいくつか紹介していこうと思います。

日本は広い、そしてとても奥深い。海外に出なくても、信じられないぐらい美しい風景や広大無辺な風景がいたるところにあるのです。さあ歩きましょう。

栃木・渡良瀬遊水地から地平線を目指して

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?