見出し画像

しふく

はじめまして。佐々木 拓馬です。

洋服を着ることがいつの間にかすきになっていて、特に経験を積んだわけでもないのに2010年、高円寺に「vivid」というMADE IN JAPANのヴィンテージショップをオープンさせ2013年に閉店させました。閉店し、場所がなくなったにも関わらず仕入れを続けていて「なにをやっているのか?」とじぶんによく問いただしますが、よくわかりません。3000着以上の、じぶんでは着ることのできない洋服があるのですから、洋服というものがすきなのだとは思います。

現在は神奈川県三浦市のちいさな港町・三﨑で、またもやMADE IN JAPANの古着屋をやっています。vivid閉店から6年経ってようやく3000着以上の洋服の一部を並べる事ができました。

しかし、それよりも、洋服。ものとしてもすきですが、着ることがすきです。
洋服は、うまれてから知らぬ間に着せられます。着ることが「着るもの」とされているのですきという感情にはなりにくいと思いますが、着ることがすき、というのがぼくの場所だと思っています。ファッションというものとはちょっと違う感覚です。

洋服を着ていると僕が「佐々木拓馬」だと認識してもらえるところが、すきです。
裸で歩いていたら、洋服に「POLICE」と書かれた人に腕を掴まれて「名前は?」
と聞かれますが、洋服を着ると「佐々木」と呼んでもらえるところが、すきです。
冗談ですが、ほんとのことも含まれていると思っています。


洋服というのは言葉と近いところがあると思います。
言葉に対して、「何を言ったかではなく、誰が言ったか」と言うし
洋服に対して、「何を着たかではなく、誰が着たか」と言います。
共通していることは、その人が確かにそこに「いる」ということです。
同じことを言っても、説得力のある人とそうでない人がいます。
同じ洋服を着ても、似合う人とそうでない人がいます。

そうでない場合、それは、やっぱりそこにその人がいないのだと思います。
言葉を発するのではなく、洋服を着るのではなく、落ちているものをそのまま使ってしまうということ。お金を払って買った本をじっくり読んでも、流行の洋服で
きれいに見えていても、それをそのまま使ってしまうと、わたしでなくてもいい
のです。どんなに外側にまとってみても、裸のまま歩いているのと同じです。

何かを追ってじぶんの場所をつくってしまうと、知らぬ間に何かに追われていってしまいます。そんなことをしなくても、わたしというのは紛れもなくそこにいてしまうものです。そこにいるわたし自身をサポートするのが洋服の持つ機能です。
だから僕は、どこで買ったかではなく、何を着たかでもなく、どう着たか。だと
思うんです。プロセスそのものが、着るということなのではないでしょうか。

ぼくはそのまとい方を「思服」とよんでいます。
それが最終的に「私服」になれるように。
そしてそういうじぶんと洋服の関係って「至福」ですよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?