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なにもしないって、難しい

「僕は、仕事がないとき天井のシミをずっと見ていましたよ」

定期的に訪れている整体の先生とは、カーテンや仕切りのない8畳間でいろんな話をする。(次の予約の人、下手すると次の次に予約している人が同じ空間で椅子に座って待っていたりする)

プライベートも仕事の話もする。「そこ痛いです〜」とか言いながら、「畑を耕しているんです」とか「そのTシャツ可愛いですね」とか。

寡黙な方で、ポツリポツリと話す。問いかけると、少し沈黙してから答える。この間は「鍛錬」について話した。

お前は作家か、と言われそうだけど、最近書くことへのハードルが自分の中でめちゃくちゃ上がっている。前まではなんでも楽しく書けていた。書くこと以外のあれこれに気を取られているからかなぁ、スラリと書くことに移行できなくなった。とにかく粛々と頑張るのみだとは頭では理解できているんだけど、気持ちがついていかない感じ。技術がものをいう、整体も日々鍛錬が必要なのかな?だとしたらどういう心持ちでやっているんだろう?と気になって「以前、お客さんが来るのを待ち続けたとおっしゃっていましたが、その間は毎日整体に向き合っていましたか?」と聞いてみた。(当時は、看板も出さずに、何年もひたすらお客さんがくるのを待ち続けたらしい)

「稽古はしていましたが、毎日やるほどではありませんでした」
「不安の中で取り組むものほど、いい結果になりません」

周りを見渡すと、みんなとにかく書く量がすごい。圧倒されるほどに。「ああ私もやらねば」と思うほど、書くことから遠ざかっていく。書かなければ仕事にならない。暇になってしまうことへの焦り。

先生は暇な時、天井のシミをじーっとみていたらしい。“仕事がない”、そのことに向き合うだけでも十分に鍛錬していると思いますとも言われた。仕事に波のあるフリーランス。依頼がないと、社会から忘れ去られているような、自分が透明人間になったように感じる。とにかく不安になるから、なにかコトを起こさなきゃとあせって、あまり心が進まないことを好きと言ってみたりする。一般的に必要そうだからやってみたりする。なんかしこりが残るんだよなぁとか思いながら。

先生は本当に天井をボケーっと見ていただけかもしれないから、これは単なる私の憶測だけど、シミを見つめながら自分の気持ちにどう折り合いをつけるかやその時感じたことを内省していたんじゃないかなぁと思う。そんなたいそうな人間じゃないですよと先生は言うけど、滋味深い言葉。そこにある意味を、考えてしまう。

8畳間でお客さんをひたすら待ち続けた頃の先生と今の自分を重ねて、「まだまだ、やってみよう」と思う。天井を見つめながら、今しか感じられない焦燥感をジリジリ味わうのもいいかも......(?)

たった20分ほどの整体。喋りながら、ぎっくり腰を楽にしてもらった。気持ちは引き締まったんだか、ゆるんだんだかわからない。流れに身を任せて、自分を観察するののもよいのかもしれないと思った。

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