程洞稲荷神社とその周辺 〜鮭の背に乗った英雄の複雑な誕生秘話〜
はじめに
冒頭に掲載した写真は、この記事のタイトルである「程洞稲荷神社とその周辺」エリアを示したものです。現在の町名でいうと、岩手県遠野市の下組町、六日町、新町。古い町名でいうと桜馬場町や元町も含まれます。地形的には、東を鍋倉山、南を程洞山、西を猿ヶ石川、北を来内川に囲まれた一平方キロメートルほどのコンパクトなエリアです。
そのなかでよく知られた場所としては、縁結びの卯子酉様、火伏せの神の愛宕神社、飢饉の碑である五百羅漢、お神明さんこと伊勢両宮神社、そして遠野高校などがあります。しかしこのエリア、通常は「程洞稲荷神社とその周辺」とは呼ばれませんし、そのように認識する人も少ないと思います。
本記事は、私がこのエリアをあえて「程洞稲荷神社とその周辺」と呼ぶ理由となる情報を集めて編んだ試論です。同時に、程洞稲荷神社の修繕工事の寄付金を募るための準備でもあります。それについては本記事の最後に記載したいと思いますので、ぜひ最後までお付き合いいただけますと幸いです。
遠野に伝わるふたつの創世神話
佐々木喜善が語り、柳田國男の著したことで知られる『遠野物語』には、柳田が序文で「これ目前の出来事なり」「この書は現在の事実なり」と力説したように、この本が出版された1910年当時の説話が数多く収められています。意外に思われるかもしれませんが、「昔々だれそれが」といった昔話ではないんです。
しかし喜善は、現代の遠野の怪談を柳田に語りはじめるにあたって、ひとつだけ、とりわけ古い時代に属する、伝説とも神話とも聞こえるような話をします。有名な第二話、三人の姫神たちによる山選びの花占いの話です。つまり喜善は、早池峰山、六角牛山、石上山という遠野三山に囲まれた地理と、もっとも高き山をめぐってあらそったと女神たちの伝説を、遠野物語の幕開けの演出に用いたわけです。
ところが『遠野物語』には収録されなかった創世神話がもうひとつありました。喜善はそれを、後に『聴耳草紙』(1931年)と『遠野物語拾遺』(1935年)に収録しています。
鮭の背に乗って新世界に到達した英雄の話に続いて、子孫の宮家にまつわる不思議なエピソードがいくつか語られるのですが、注目したいのはこの部分です。
「この郷での人間住居の創始である」
「土地でもっとも古い家だと伝えられている」
もしそれが本当ならば正真正銘の創世神話ということになりますが、果てしてどこまで過去に遡れるのか。その解明に挑戦した人がいます。他ならぬ、宮家の宮康さん(故人)です。
鮭に乗った英雄は阿曽沼一族
宮康さんがその研究成果を発表したのは「歴史と旅 臨時増刊号47 姓氏 名門 名家 PART2」(1991年, 秋田書店)の誌上。「先祖探しに30年 『遠野物語』にも登場するわが家の先祖は藤原秀郷であった!!」と題する寄稿文においてです。
若い頃に父母と死別した宮康さんは遠野を離れて東京に引っ越します。長じてから、先祖代々が保管してきた古文書を読み解き始め、多くの研究者の力を借りながら、遠野に何度も足を運び、30年を費やしてついに800年前の先祖を明らかにすることに成功します。
以下、( )内の情報は宮康さんによるものです。[ ] 内の情報は私(佐々木)が補足したものです。
阿曽沼氏は、現在の栃木県佐野市を領有していた藤原秀郷の流れを汲む佐野氏の一族で、1189年の奥州合戦の論功行賞として遠野を与えられたのが遠野阿曽沼氏のはじまりです。つまり、宮家のご先祖様は、中世の遠野を治めた阿曽沼氏のお殿様だった、というわけなのです。
阿曽沼氏が正確にいつから遠野に居を移して統治をはじめたのかは判然としませんが (*1)、いまから800年ほど前、遠野を治めにきたあたらしい殿様およびその集団が、鮭の背に乗って湖水世界にやってきた英雄として「この郷での人間住居の創始である」「土地でもっとも古い家だ」と伝えられているというわけです 。
念の為ですが、遠野には安倍貞任に関する遺跡や、縄文時代の遺跡、そして旧石器時代の金取遺跡まで残されており、実際にこの阿曽沼一族が「人間住居の創始」であったわけではありません。
神話か伝説だと思っていたものが、よく調べることによって歴史的な事実に変わってしまうのは、なんだかさみしいようなことでもあります。しかし、歴史的な事実が、神話か伝説に変じるほど長く語り伝えられてきたことを考えると、むしろその貴重さにあらたな感慨が湧いてもきます。
しかし、それはなぜだったのでしょうか? 出自が明確なはずのお殿様の来歴を、なぜわざわざ鮭の背に乗った英雄の伝説に変えなければならなかったのでしょうか?
遠野騒動と南部家前後
阿曽沼家第13代広郷から第14代広長の頃、時代でいうと16世紀末から17世紀頭にかけて、遠野に大きなパワーバランスの変化が起こり、「遠野騒動」が起こります。以後、27年間に渡る無政府状態が生じます。
当時の遠野は、地政学的に見ると、南部藩(いまの盛岡)と伊達藩(いまの仙台)の藩境にあり、しかも金がよく採れたことから、双方の勢力が「コントロール」をめぐって争っていた状況でした。
事件が起こったのは1600年。第14代広長が北の関ヶ原と呼ばれた慶長出羽合戦に出向いている間に、南部利直の後ろ盾を得た臣下の三人(鱒沢左馬助広勝・平清水駿河・上野丹波)が中心となってクーデターを実行。広長が留守の間に、遠野は反政府勢力に乗っ取られてしまいました。これが遠野騒動です。
その後、広長はわずかな手勢で伊達藩の世田米(いまの住田町)で力を蓄え、三度遠野への侵攻を試みますがいずれも敗退。奪還のための勢力も気力も使い果たした広長は伊達藩の庇護を受け、最後は仙台で客死します。
その間、残された阿曽沼家や広長の臣下だった人々、南部利直の傀儡政権についた人々、そして遠野の人々はどうしていたのでしょうか。罪の意識をもちながら新政権についた人、在野にいて広長の帰還を待った人、どちらにも与しないように趨勢を見極めようとした人、さまざまだったようです。そのような新政権の求心力のなさが政情不安を呼び込み、遠野を暗黒の時代へ向かわせました。政府が法律や武力をコントロールできず、市井の人々が自らの力で財産や生命を守らねばならない時代です。そうなると、強きものや無法者が盗みや殺しといった凶悪犯罪を行うようになります。凄惨な記録が数々残されています。
その時代に終止符が打たれるのが、騒動から27年後の1627年。クーデターの中心となった三人がいずれも不幸の死を遂げた後、八戸南部藩主・南部直義(遠野移封後、直栄と改名)があたらしい遠野の領主に命じられてからのことです。このとき、南部藩の筆頭家老として盛岡にいることの多かった直栄に代わって遠野を治めたのが女殿様として有名な清心尼公です。浪人を分け隔てなく取り立てたり、犯罪を非常に厳しく取り締まったことにより、ついに遠野の秩序を回復することに成功しました。
ここで宮家の系譜に戻ります。注目は第13代阿曽沼広郷の子「義政」。クーデターで追われた広長の兄弟ということになります。義政は遠野騒動の後、姓を阿曽沼から倉堀に変えて、遠野に住み続けました。その倉堀家が身を潜めたのが程洞山であり、本記事で「程洞稲荷神社とその周辺」と呼ぶところになります。
それをなぜ下組町(あるいは六日町や新町や桜馬場町や元町)と呼ばないかというと、それは、八戸南部氏による都市計画以後の名前だからです (*2)。八戸南部家が統治するより前の時代を幻視するには、あの一帯を指す別の名前がほしかったわけです。
次からは、具体的な史跡を見ていきたいと思います。
卯子酉様と程洞稲荷神社
卯子酉様
宮家の系譜に戻ると、倉堀家になってからの三代目・倉堀義次が「倉堀神社建立」を建立したとあります。
倉堀神社の経緯にはちょっと判然としないところがあり、倉堀神社に卯子酉神社が合祀されたとも、倉堀神社の境内に卯子酉神社がある、とも書かれることがありますが、現在では、縁結びの神様「卯子酉様」として非常によく知られる、遠野のなかでも屈指の人気スポットになっています。 (*3)
この場所について、「遠野物語拾遺」にこんな話が残っています。
このときすでに縁結びの話が書かれていますが、注目したいのはその地勢です。
卯子酉様が位置するのは、遠野の川が落合で集約され猿ヶ石川がいよいよ太くなって西に折れ曲がって流れ出していく根本のところにあります。卯子酉様の近くは喜善が書いた頃と変わらずいまも小池に恵まれていますが、19世紀前半に長作堤防が築かれる前までは、猿ヶ石川の流れがもっと深く神社の方まで及んでいたであろうことが想像できる地形で、言い伝えの通り大きな淵があったはずです。
こうした豊かな水のイメージは、どこかで鮭の背に乗って湖水世界にやってきた英雄に結びつくものがあり、中世さらには古代の風景を呼び覚ましてくれるようです。
程洞稲荷神社
倉堀家の人たち、つまり旧阿曽沼家の人たちは、クーデターで倒された前政権の一族です。彼らが安全な住まいとして選び、墓に眠ったのが程洞山でした。
しかし時代が変わり、南部家の統治によって平和が取り戻されるようになると、一族は次第に町に住みはじめます(六日町と言われています)。なかでも倉堀家の五代目にあたる宮道義(宮道雲とも、四戸道義とも)は医者として成功した人物で、藩医として南部家に仕えることになります。
ところが「旧阿曽沼家の人々は南部家に恨みを抱いているから、何をされるかわからない」との噂が立てられ、嫌気がさした道義は再び程洞山に引っ込みました。しかし、道義の腕を知る人々は診療を受けるためにわざわざ山の中まで足を運び続けたということです。
その道義が18世紀後半に建立したのが程洞稲荷神社です(伊勢外宮から御霊を勧請したのが1765年)。これにより、もともとは旧阿曽沼家の人々の潜伏場所だったところが、信仰の現場に変わっていきます。
さてこの程洞稲荷神社ですが、現在流通している縁起や観光案内をみると、一読してアイデンティティが混乱しているように感じられると思います。曰く、子宝に恵まれる金精様を祀っている。曰く、八咫烏の霊験あらたかな清水が万病を癒してくれる。曰く、お稲荷様を祀っている。などなど。
しかしこれらの謂れは、道義(道雲)の息子の景雲も含めた宮家代々の医者たちが積み重ねた医療行為への畏敬の念が信仰に転じたものだと考えればすんなり理解できます。(*4)
それが現在では極めてわかりにくくなっているのは、前政権の阿曽沼家の一族を祀るという性格を南部家政権下においておおっぴらにしてこなかったということでもあるでしょうし、また、明治時代の「神仏分離令」を生き延びるために「稲荷神社」としての性格のみを残してもともとの由来や縁起を捨象してしまったことにもよります。言い伝えによれば、程洞からは倉堀家・宮家の墓は撤去されてしまったそうですので、今では阿曽沼家の祖霊が祀られていた痕跡を見つけることはできません。新町の常福寺には宮家代々の墓地があります。
遠野にお住まいの方や、程洞稲荷神社を訪れたことのある方であれば、「天然石の男根を祀ったコンセイサマのある場所」「八咫烏のところ」「お稲荷さん」というように何かしらの、しかしバラバラのイメージを持たれている方が多いと思いますが、それはこうした理由によるものだったのです。
程洞稲荷神社とその周辺を歩く
現在、程洞稲荷神社を地図で探すと、山中の境内の一点だけが指し示されます。ところが、程洞稲荷神社はそのずっと手前からはじまっており、登口・参道は意外なところにあります。釜石街道に面したバス停のあたりです。
次に、地図を表示したいと思います。
この地図の一番上にあるのが、登口を示す案内石碑です。
そこから緑の線が引かれている道をたどり、赤い線のところから先が今も残る参道です。「未使用参道」というのが往年の参道だったようですが、現在では家が建って歩けなくなっています。
参道の途中、斜面を登り始めて少しのところには中稲荷があります。その後、登りがきつくなってきて、途中で高速道路の下をくぐると(2019年に開通した遠野と釜石をつなぐ道)、再び林道に出ます。通常はここまで車で来て、最後の参道だけ登る方がほとんどです。最後の登りは10分ほど。程洞稲荷神社境内に到着すると、こんこんと湧き出る清水の音と、水の冷たさ、美味しさに感激することでしょう。
ちなみに、地図の左下には謎の白い丸が記されていますが、これは程洞稲荷神社のさらに奥にある、ガイドなしでは到達困難な「高早大明神」です。遠野町内では非常に珍しい、高清水の向こう早池峰山が望める場所です (*5)。
さて、程洞稲荷神社を降りていくとき、参道を引き返すのではなく、少し西の方に足を向けてみると、桜の名所としても有名な五百羅漢があります。そこから愛宕神社に降りて、左手に猿ヶ石川を見ながら麓までたどり着くと卯子酉様があります。そこから程洞稲荷霊水場所までは歩いてすぐ。境内に湧き出ていた清水はここでも汲むことができ、普段の炊事やお茶・コーヒーのために水を汲みに来る人がいまでもいます。
こうやって歩くと、程洞稲荷神社とその周辺をだいたい一周することができ、域内にある有名観光地を道のりのロスなくすべて見て回ることができます。そしておそらく、過去このあたりに暮らしていた人たちも同じルートを何度も歩いたのではないかと想像します。それくらい無理のない、自然なコースになっています。
程洞稲荷神社とその周辺というエリアは、山と里と町と川の資源に短時間でアクセスできるコンパクトな空間であり、現在のように橋や道路が通っていなかった頃には (*6) 、東南を山に、北西を川に囲まれた居心地のよい小宇宙だったことが想像できます。
そこに、鮭の背に乗って湖水世界にやってきた英雄の末裔が住み、やがて医療の技術で信仰を集めた。
もちろん、遠野の人たちが、倉堀家・宮家が元は阿曽沼家であったことを知らなかったわけはありません。それを知って、いつか復讐されるのではないかと遠ざけた人もいたでしょう。しかし同時に、それを知って密かに応援するために、阿曽沼家とはあえて呼ばずに、曖昧模糊とした創世神話として語り伝える人もいたことでしょう。程洞稲荷神社とその周辺には、過去の政権交代による複雑な心情と医療に関する畏敬の念からあたらしい物語が生まれ、信仰の現場が今なお残されている、というわけなのです。
おわりに
その程洞稲荷神社ですが、いまから10年ほど前の雨漏り以降、拝殿のダメージが加速度的に大きくなっています。一時凌ぎの補修では足りず、本格的な修繕工事が必要とされている状況です。
この拝殿の修繕工事が、程洞稲荷神社の総代たちよって計画されているのですが、その費用の一部が不足しています。その不足分を賄うために、寄付金を募りたいと考えています。
程洞稲荷神社は、遠野の観光地のなかでは(いまのところ)マイナーなところであり、卯子酉様や五百羅漢に比べるとほとんど知られていません。ところが、その建立と信仰の歴史には、鮭の背に乗って湖水世界にやってきた英雄の伝説と、彼らが見た風景。阿曽沼家と南部家と遠野の人々による遠野騒動をめぐる複雑な感情、にも関わらず倉堀家・宮家が行った医療や出産における多大な貢献。そうしたものが渾然一体となって含まれています。それらの歴史にご関心のあるみなさま、特に阿曽沼家(浅沼家)、倉堀家、宮家、そして四戸家など、本件に縁深き日本全国のみなさま方から、程洞稲荷神社とその周辺を今後も長く残していくためのご協力を賜れれば幸いです。
程洞稲荷神社の宵宮祭と例大祭は例年7月8日と7月9日に行われます。来年、2024年の例大祭のタイミングを目指して、寄付金集めを行いたいと思います。具体的な方法はこのあとに記載しております。
最後までお読みいただきありがとうございました。
寄付方法
本プロジェクトでは、修繕工事費用総額600万円のプランAと、400万円のプランBのふたつの見積もりを準備しており、そのうち300万円を用意する見込みを既に立てています。残りの金額は、みなさまの寄付に頼りたいと考えております。もし300万円が集まればプランAを、それに至らずとも100万円が集まればプランBを実行します。
寄付: 1口 3,000円
寄付口座: 花巻農業協同組合 遠野支店 普通 1945079 ホドボライナリジンジャ
寄付金管理者: 程洞稲荷神社 総代 佐々木悦雄
修繕工事計画責任者: 遠野町11区自治会 菊池源悦
寄付後ご連絡先入力フォーム: https://forms.gle/ECzreDFu7BSeeFRh8
ご寄付いただいたみなさまには、ささやかではございますがお礼状やご報告など、修繕計画についてのお知らせをお送りしたいと思います。寄付後ご連絡先入力フォームへのお知らせを、何卒よろしくお願いいたします。
(*1) 阿曽沼広綱は実際には佐野に留まり、遠野には地頭代として宇夫方広房が派遣されました。実際に遠野に赴任したのは南北朝時代(1337年〜1392年)以後のことだったとされています
(*2) 六日町は商業の中心地として阿曽沼の時代からありました。桜馬場町と元町は寛永年間(1624年〜1643年)に、下組町は明暦〜万治年間(1655年〜1661年)の間につくられ、新町は六日町と一日市をつなぐものとしてさらにその後に計画されました。(参考文献 『遠野の歴史』著・鈴木久介, p59)
(*3) 卯子酉神社は1861年から1864年にできたとされます。鵜鳥神社の分霊を勧請したといわれます
(*4) 宮家の医術に関しての関連リンク: 遠野物語拾遺140(程洞稲荷由来)」 / 不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-
(*5) #097 幻の「高早大明神」を訪ねて / メディアヌップ
(*6) 愛宕橋の架橋は1666年。つまり阿曽沼家の人々が程洞に潜伏したときにはまだ橋はなかった。
追記とリンク集
追記(2023/09/24)
10月15日に開催するトーク&トレッキングイベント用に地図をつくりました。宮家ゆかりのスポットすべてに解説を書き込んだ詳細版。当日はこれを詳しく解説します。
程洞稲荷神社と遠野物語の地を歩く
2023/10/15のイベントの記録
2024/03/04の講演会の記録
追記 (2024/03/15)
昨年10月からの寄付により、程洞稲荷神社の修繕工事を開始できる目処が立ちました。
今年の宵宮祭と例大祭は2024年7月8日と9日に開催されます。