確認男 バスと自転車編

 長年愛用していたクロスバイクが壊れた。
 大事に使っていたつもりだが、ある日乗ろうと思ったらフレームが割れていた。長年愛用していた物が、ある日急に壊れる感じが、生き物と変わらないなと悲しくなった。とはいえ、自転車は生き物とは違う、修理をすると生前動揺の輝きを取り戻し、復活する。

 修理をしようと自転車屋に持っていったら、「2万はかかる」と診断された。2万も修理に出すなら新しいのを買おうかとも思ったが、30分自転車漕いて高校に行くのもそろそろ辛かったので、バス通学に切り替えることにした。自転車の愛と自分の辛さを天秤にかけたら、いとも簡単に辛さが勝った。墓に埋めるでもなく、自転車はそのまま自転車屋さんに処分してもらった。所詮その程度の自転車だったんだ、仕方ない。

 今はまだ4月だからいいが、7月に坂と田んぼしかない田舎道を、30分も漕いだら、学校に着く頃にはシャワーを浴びたくなるほど汗をかく。だから、バスほど最高なものはなかったんだから、仕方ない。

          *

 バス通学の最高なところは、天候と気温に左右されないところだけじゃなかった。
 俺がいつも乗るバスには同じクラスの優香が乗っている。1年の時も同じクラスだったが、特に話したことはなかった。でも、バスで一緒になりだしてから学校で話すようになったし、バスでも話すようになった。きっかけって大事だなと感じたし、自転車が壊れたのももはや、運命だったんじゃないかとも思えた。

 毎朝、家族で一番遅く家を出る俺が、家の鍵を締める。けど、何回も施錠されたかを確認しないと安心できない。一度遅刻しそうな時に施錠を確認せずに家を出たばかりに、どこか胸騒ぎがして、わざわざ確認しに引き返して、見事遅刻したくらいだ。

 俺が確認すると鍵は絶対締まっているのに、未だに自分自身の行動を信用できない。そのくせ、リップクリームや目薬はすぐに失くすし、最近はTシャツやパンツまで知らない間に失くしているのだから、朝の施錠に自分の注意力と確認力が持っていかれている気がする。でも、親はルーズで、夜に限っては、よく鍵が開いていたりするから、俺の確認癖は誰から遺伝したか不安になる。

 今日も鍵が閉まっているか、ドアノブを何度も引いて確かめてから家を出た。
 顔見知りのリーマンやおじいちゃんとバス停でバスを待って、時刻どおりに着たバスに乗り込む。すると、大抵、優香はバスの最後尾から1つ前の席に、雛人形のように鎮座している。黒髪ロング、前髪ぱっつんの髪型がより一層人形感を際立たせていた。

「おはよー」俺はそう言って、通路を挟んだ優香の隣の席に座る。
 本当は優香の隣に座りたいが、数分後に乗ってくるバカのせいで座れない。以前、優香の隣に座っていたら、「なに? 付き合ってんの? そういう関係?」と、バカに周りの乗客を気にせず大声で冷やかされて以降、優香の隣には座らなくなった。

「おはよう」優香は俺が声をかけると、大体、ハッと目を大きくして挨拶を返してくれる。
 寝ているわけじゃないが、意識が半分身体から抜けているようで、俺の挨拶を合図に身体に戻ってくるみたいだった。

「模試の勉強してる?」優香は神様が直々に描いたとしか思えない二重の目でこちらを見た。
「ぜーんぜん。どこをどう勉強したらいいか全く分からん」勉強に対しての謙遜なんて持ち合わせていない。事実を包み隠さず、むしろバカっぽく答えた。

「だよねー。昨日から少し勉強してるけど、高1の範囲でも分からなさすぎるよ」
「さすが、賢い人は違うなー」
「賢くないから勉強してるんだよ」そう言うと優香は唇を噛んだ。
「赤点取るか取らないかの瀬戸際の人間からしたら、すげーよ」そんな低レベルの人間に褒められても嬉しくないか、と言ってから俺の褒め言葉の価値の無さに気づいた。

「あのさ」優香がそう言いかけた時に、「大手町三丁目、大手町三丁目」と感情のない運転手のアナウンスが響いた。アナウンスに言葉を阻まれ、優香は一度バスの前方に視線を移した。それから俺の目を見て、「今日図書館で一緒に勉強しない?」と早口で言った。
 早口で言われたが、赤点レベルの俺の脳内では、処理するのに時間がかかった。

 図書館で一緒に勉強しない?
 文字数にしてみれば、12文字。それでも俺には、なぜ図書館で一緒に勉強するのか? それも優香よりもバカな俺と優香が勉強するメリットはなにか? なんで優香から誘ってきたのか? と脳内で変換され処理ができなくなった。脳内がフリーズを起こすと同時に、「え?」と言った口のまま俺は固まっていた。

 相当間抜け顔だったと思う。ドッキリでパニックになっている芸人を見て、笑っていた自分を殴ってやりたい。同級生に勉強を誘われただけで、パニックになるんだぞと言い聞かせたい。
 ただ、「うん」とか「いいよ」と言えばいいだけだったのに、「おっす!」と、バカが俺を窓側へ押しやった。

「お前昨日の道玄坂工事中見たか? みなみちゃんがついに日焼けサロン行くの止めたんだぜ!」といつもどおり俺の知らないアイドルの話を吹っかけてくる。

「知るかよ! メンバー全員真っ黒で、誰が誰か見分けつかねえんだよ!」心拍数と時の流れが反比例する空気を一瞬でぶち壊した亮太の肩を殴った。さっきまともに動かなかった口から出たツッコミとは思えなかった。
「いってえ」と亮太は本気で痛がっていたが、普段からオーバーな奴だから、優香には本気で殴ったことは伝わっていないはずだ。

 バスを降りて、離れていく優香の背中を確認しながら、俺は亮太に、「なにやってくれてんだよ」と、さっきとは逆の肩を殴った。

「なんだよ。いってえな」さすがのバカも、本気で二度も殴られたら、苛立ちを露わにした。それでも、殴られている理由を理解していないのだから、やはりバカだ。

「せっかく、優香に勉強しようって誘われたのに、お前が邪魔するから」
「あ、マジで?」やっとバカに通じたみたいだ。さっきの俺以上の間抜け顔だった。「もう、それ脈アリじゃん。好きなやつじゃん」
「え、そう思う?」
「だって、慎吾バカなのに、かしこの優香に勉強しようって誘われる意味が分からねえだろ」
「……だよな」なんで、その違和感にはすぐに分かるのに、バスの中での俺と優香の空気感には気づかないんだよと、心の中で皮肉った。
「そう、それに人気者の優香が、友達のいない俺らに視線が向くことすらねえのに、誘われたってことは、もうそういうことだろ」

 亮太の言い分は納得した。しかし、俺は、素直に優香の誘いを受け入れられなかった。脈があるのかもしれないが、もしかしたら、優香は、「こんなことも分からないの?」と数学教師の山本みたいに、バカを見て優越感に浸る輩なのかもしれないとも思えた。

 だって、特に特技もなく、目立つこともない、亮太といつもバカやってる俺が、サッカー部、野球部、他クラス、先輩、と多ジャンルの男からモテる優香に、好意を持たれる理由が分からなかった。

 友達も亮太くらいしかいない。部活にも入らず、クラスのうるさい野球部のノリにもついていけず、2人で好きなようにバカやっているのがちょうどよかった。むしろ、群れないと死ぬような奴らと俺は違うんだと斜に構えていた。

 もしかしたら、今日、優香の誘いに乗って図書館に行けば、知らない男の先輩5人位に囲まれて、地下の倉庫にぶちこまれたかもしれない。
 そんな想像をし始めると不思議なもので、優香の裏の顔が化物のように見えてきた。美人で性格までいいなんて日本の人口の何人だ? 日本の人口すらよくわからないけど、宝くじ当たるレベルな気がする。

「じゃあ、今日スマブラしねえの?」亮太が面白くなさそうに言った。
「うーん」俺が少し悩んだ様子を見せると、「じゃあ、もう一回優香に誘われたら、脈アリってことでいいんじゃね」とニヤつきながら亮太は提案してきた。
「そうだな」と素直に答えた。脈アリなら、もう一度誘ってくるはず。俺のことが好きなら、そのくらいのことはするだろうと、俺は調子に乗った解釈をした。

「くっそ、やられた! ふざけんなよ! マジで!」俺はコントローラーを放り投げ、テレビに向かって悪態をついた。

 亮太に負けると、腹が立つが、今日はいつも以上に苛ついている自分がいた。亮太の提案通り、優香にもう一度一緒に勉強しようと誘われていれば、俺は亮太に何度も同じ技で敗北を喫することもなかったんだ。

 同じクラスがゆえに、優香に誘われるチャンスは何度もあった。なのに。なのに、優香は、誘いどころか俺に話しかけてくることはなかった。俺から催促しようかと思ったが、断られるのが怖かったから止めた。

 亮太にも、「ただの社交辞令だったんじゃね?」と朝の期待させる発言と相反することを言われ、上げて落とされた感が否めなかった。亮太があんなこと言わなければ、俺はここまで意識はしなかった。なにかと便利だからという理由で坊主にしている亮太の頭を、スキンヘッドにしてやりたくなった。

           *

 教室じゃ周りの視線が気になるから、話しかけてこなかったんだろうなと1人で勝手に納得した。朝、いつも通りバスに乗り込んだが、いつもの特等席に優香の姿はなかった。俺がバス通学を始めてから、優香がいなかったことなんてなかったのに。

「おっす!」相変わらずのバカみたいな大声で言いながら、亮太が隣に座ってきた。けど、さすがのバカも今日のバスの違和感に察したようで、「あれ? 優香なんでいないの?」といつもなら優香がいる席と俺を交互に見た。

「そうなんだよ。珍しくねえか?」
「そうだな、俺がバス通始めてから、だいたいその席だったんだけど、なんで、一番前に座ってるんだ?」
「え? 一番前?」
「それか、お前に誘いを断られたショックで席変えたんじゃね?」亮太はわざとらしくニヤける口元を隠した。
「バカにしやがって」俺は亮太の太ももを殴った。いてぇ、と乗客は俺だけなのに、相変わらず大げさなリアクションをしていた。

 優香を追いかけるようにして、教室に入ると、ショックを受けている様子どころか、いつもと変わらぬ様子で、友達に明るく、「おはよー」と言っていた。
 その姿を見た時に、俺と亮太の期待が儚く散った。ショックを受けているようになんて見えなかった。そうなると、ただ単純に俺のことを避けている以外に、席を変える理由が思いつかなかった。
 亮太は無言で俺の肩をトントンと2回叩いて自席に向かった。

          *

 一つロクな事がないと、ロクじゃないことが続くというのは神様の悪ふざけのようにしか思えない。

 優香が俺を避け始めた次の日の朝、俺は生まれて初めて、自分の部屋で膝から崩れ落ちた。
 買ったばかりの定期券が失くなっていた。それも半年定期。バス通学を初めてまだ2週間。どうせなら、一学期定期を買うべきだったと後悔した。亮太いわく、バス通学の生徒は一学期定期がほとんどで、緑色の一学期定期とは違う、薄いピンク色の定期を俺が持っていると、「リッチなやつだな」といじられた。定期代の2万円すら消費していないのだから、相当リッチなバカだ。

 通学カバンに取り付けていた定期入れから、定期券が誰かに抜かれたように綺麗に消えていた。昨日の帰りにバスから降りた時には確実に入っていた。そうなると、バス停から家の間か家のどこかで失くなったはずだ。家を出るギリギリまで、家の中を捜索したが見つからなかった。
  それに、クローゼットにあるはずのカッターシャツも失くなっていて、仕方なく生乾きのカッターシャツを着た。

 玄関からバス停までの道のりを、不審者に思われるくらい地面を凝視しながら通ったが、定期の見る影もなかった。
 そのことを優香に話して慰めてもらおうとしたが、優香の姿はいつもの席にはなく一番前に座っていて、亮太にバカにされただけだった。

  その日は現金でなんとかやり過ごした。けど、親にバレずに定期を新しく買うなんて、ろくにバイトもしていない俺が、2万という大金を自腹で払うことなんてできるわけがなかった。泣く泣く親に打ち明けると、母親から、「お父さんの自転車使いな」と一蹴された。

 そんなわけで、父親のママチャリという非常にややこしく、クロスバイクと比べると余りにもダサい自転車で通学することになった。前カゴはなんか錆びてるし、荷台には荷物を固定するためのロープがぐるぐる巻きになってるし、なんであの時新しい自転車を買わなかったんだと後悔した。

 チャリ通学を再開して何日か経つとすでにバス通学が恋しくなった。
父親のママチャリだと、前のクロスバイクに比べて通学に時間がかかった。なんせ変速がないから坂は歩かないとキツイし、平地でも、隣を小学生の男子が追い抜ぬかれるくらいだ。まだ4月の後半だというのに、学校に着く頃には背中にカッターシャツが張り付いていた。遅いし、疲れるし、汗かくし、ろくでもない三拍子が揃っている。

 放課後、駐輪場で見つけたくもない自転車を探していると、優香の姿があった。バス通学の優香が何の用だと思いながら、恐る恐る近づくと、優香はバスのときと同じように、俺と目が合った瞬間、ハッと見開いた。

 優香は両手でしっかりと肩に掛けた通学カバンを握っていて、「ねぇ、今日一緒に帰らない?」と言った時にその手に力が入ったのがよく分かった。

「え?」まず、この状況がよくわかっていない俺は聞き返した。バス通の優香が駐輪場にいる事自体が幻覚に思えたし、そんな優香から一緒に帰ろうなんて、幻聴でしかない。

「いや?」と聞かれ、幻覚だろうが幻聴だろうが、そんなことはどうでもよかった。幻覚優香でも一緒に帰れるなら最高だと思い、俺は間髪入れず、「嫌じゃない嫌じゃない、はい、一緒に帰りましょう」と自転車の前カゴにカバンを投げ入れ、鍵を開けようとしたが、なかなかもたついた。「前の自転車壊れて、こんなボロしかないんだよな」と言い訳しておいた。

 俺が自転車に跨っても、優香はさっきと同じところに立っていた。
「あれ? 自転車は?」
「いや、バスできたんだけど、定期失くしちゃったんだよね」優香はしっかりと生えた自眉をハの字にした。

 その言葉だけで、俺が定期を失くしたのも、これまた運命なんじゃないかと思った。俺に起きている悪いことが、全て優香によって報われている。等価交換でなく、相当なお釣りが来るレベルだ。

「マジか、俺も買ったばかりなのに失くしたんだよな。それも半年定期」
「え? 半年定期なくしたの? 私一学期定期失くしてヘコんでたけど、半年ってヤバイね」
「そう、おかげで自転車通学に逆戻りだよ」
「そうだったんだ。今日自転車で来てるのは見たから、まさかとは思ったけど」
「そう、定期入れから抜け落ちたみたいで」
「ほんとに、私も携帯のカバーに入れてたんだけど、失くなってて」優香は手帳型のケースに入ったスマホを胸ポケットから出して眺めた。
「定期失くすタイミングが被ることって、まぁないよな」そう言って、俺は自転車から降りて、押して歩き始めたが、「え?」という声が聞こえてきたのを合図に歩みを止めて振り返った。

「いや、定期失くすなんて滅多にないのに、ほぼ2人同時に失くすなんて珍しいなって思って……」先程、同様のハの字の眉をした優香に向けて言った。
「いや、そうじゃなくて」一瞬だけ優香の眉間にシワが出来たのを俺は見逃さなかった。
「え? そんなに珍しくなかった?」
「そうじゃなくて……」と優香は言いかけたが、「まぁ、早く帰ろ」と言って、やけに早歩きで、俺を追い抜いた。

「模試の勉強してるの?」「最近の数学むずくない?」「昨日亮太のバカがさぁ」とか、ごく普通の話題を話しながら歩いた。一応車道側を俺が歩いた。周りにクラスメイトがいないかとか、気になって、優香の言ってることが半分以上聞き逃していた。やたら、「え?」と聞き返してしまって耳が悪いやつに勘違いされた気がする。なんか優香の声が駐輪場の時よりも大きくなった気がするし。

 登校の時には苦しめられる坂に差し掛かったところで、「ねぇ、自転車乗らないの?」と優香が聞いてきた。
 前々から、この坂は自転車で思いっきり下るのが好きだったが、今、優香を置き去りにして、そんなことをする気にはならなかった。

「いや、優香歩きだし……」
「この席は空いてないの?」優香は、自転車の荷台に手をかけてから、跨った。
 急に、腕に優香の体重が加わりあわや倒れそうになった。軽い優香を、余裕を持って支えるような筋力を持ち合わせていなかったが、必死になんとか持ちこたえた。

 そんな俺の様子を見かねて、優香は、「もしかして、二人乗りできない?」と心配した。
「いやいや、余裕余裕」そう言って俺もサドルに跨る。そして、そのまま地面から両足を離した。

 想像してたよりも、グラついた。正直二人乗りなんてしたことなかった。無意識にハンドルがあらゆる方向に引っ張られた。長友ほどの体幹があれば、グラつくことなんてないんだろうが、筋トレなんて生まれてこの方してこなかった、ひょろ長の身体には体幹なんてものが存在しない気がした。

 そんな俺の苦労に気を使うことなく、下り坂に入ると自転車は見る見るうちに加速した。
 優香と一緒にひっくり返って大怪我するわけにもいかない。それをきっかけにタイムリープできるようになるのであれば、やぶさかじゃないが、そこまで俺の頭はお花畑じゃない。自分の持っている筋肉を総動員しても、俺の腕のブレは止まらず、自転車もブレ続けた。今の恐怖は、乗ったことはないが世界最長とか、世界最速のアトラクションよりも恐ろしいはずだ。なんせ、安全性がない。死と隣合わせの恐怖。優香を怪我させてしまうんじゃないかという恐怖。いつもなら、どんどん強くなる風邪が気持ちいいのに、今は不安を煽られる不快な風でしかない。

 そんな恐怖と戦っていると、ガッと自分に衝撃がきた。なんの衝撃かなんて、すぐに分からなかった。まだ生きているし、ちゃんと自転車にも乗っている。自転車も不格好に揺れながらなんとか走っている。

 自分の下腹部に、優香の小さい手が見えて、衝撃の出処がわかった。背中から確かに優香の重みを感じた。恐怖からか強く抱き寄せられているおかげで、優香の感触がはっきりと伝わってきた。ブレザーなんか着なきゃよかったと後悔した。

 一瞬、一生この下り坂が続けばいいのにとも思ったが、なんなく平地にたどり着いた。それから、徐々に速度が落ちても、優香の力は変わらなかった。恐怖からの開放と、状況の把握ができず、自転車を止めると、同時に優香の力が慣性で強くなった。

「ごめん、やっぱりこの自転車慣れないわ」あたかも、自転車が悪いような言い方をして、責任転嫁した。
 少し間が空いたから、下手な言い訳過ぎたかと反省し、訂正しようとしたら、「ふっ」と優香から空気が漏れた。「もーむっちゃ怖かったー」と言って、俺の背中にもたれ掛かってきた。

 さっきまでとは違って、頭も俺の背中につけているようで、張り裂けそうな心臓の鼓動が聞こえるんじゃないかと心配になった。このときばかりはブレザーを着ていてよかったのかもしれなないと、さっき批判したブレザーを擁護したくなった。

「ねぇ」と優香の声が聞こえてくるよりも速く、身体の中に響いた。「なんで、あの時返事してくれなかったの?」さっきのいつもよりもテンションの上がった優香の声のトーンから何オクターブも低くなっていた。

「え?」今日何度目かの、え? を言ってから優香の言う、あの時、を考えた。
 あの時、返事、優香の言葉を切り崩して、細かくすると、何とか消化できた。

「返事って、図書館で勉強しようって言ってたこと?」
「そう、バスの中じゃ萩原くんが途中で来たから、仕方ないけど、教室だったら返事してくれるものだと思ってたから……」
「あぁ……ごめん」亮太にもう一度誘われたら、返事をしようと思ってた、と言おうか迷ったが、情けなくなってやめた。

「それでも、図書館で慎吾くんが来ないかなー、と思って勉強してたのに、来なかったし」優香は俺の背中を両手で、トンと押して自転車から降りた。

 そんなに強く押されたわけでもないのに、手汗のせいで、自転車のハンドルから手が滑って、止まっているのにも関わらずグラついた。こればかりは手汗のせい。

「そんな本当にしてるとも思ってなかったから……」先に歩き始めた優香の背中に向かって声を出した。
 本当は勉強なんてするつもりはさらさらなかったです。すいませんと心の中で謝った。亮太も同罪ですと勝手ながら、亮太の身も売った。

「ずっと図書館で勉強してたけど、慎吾くん来ないから」優香はカバンを自分の後ろで振り子のように揺らしている。
「ごめん」やっぱり亮太と2人でバカやってるから、友達も少ないし、頭も悪いんだなと再確認した。この短時間で亮太が自分の中で大悪人になってきている。

「じゃあ、私が付き合ってほしいって言ったら、付き合ってくれる?」優香はさっきの文句と同じトーンで言った。
 あまりにもその言葉が自然だったから、付き合うが何に対しての付き合うか、分からなかった。

「え? それは図書館の勉強に、ってこと?」確認せずにはいられなかった、文脈から図書館の勉強に付き合うという意味合いが、最有力候補だったから。この後の買い物かもしれないし、これから一緒に帰ることかもしれなかったから。

「ちがう」弱々しい否定だった。俺の声が優香に届いた瞬間、優香は地面を蹴るようにして止まった。俺もつられて、止まる。
「好きだから、付き合ってほしいの」優香が振り向いて、目があった瞬間に言ってきた。少し傾いてきた日が優香の目をキラリと輝かせた。

「それは、俺と付き合うってこと?」またしても好きの対象が、勉強かと思った。多分これは告白なんだろうけど、あまりにも急で、妄想すらしたことのないシチュエーションだから素直に受け取れなかった。

 クラスの女の子とニケツして、坂を死にそうになりながら下った後に、家と田んぼが入り交じる田舎道のど真ん中で告白される妄想なんてまずしない。もっと雰囲気のある場所、そう、図書館とかのほうが雰囲気がある。
 あ、俺が行かなかったからこうなったのか。

「テストは赤点ギリギリでも、こういうことに関しては0点だね」あまりにも鈍感な俺を見かねて、優香は笑っていた。呆れて笑われているのだろうけど、その笑みには柔らかさと暖かさがあって、不思議とバカにされてる気にはならなかった。

「それって、つまり――」俺が最終確認をしようとしたら、優香はカバンから手を離して、自転車のかごを掴んだ。教科書がたくさん入っているであろうカバンが、ドンと音を立てて道路に落ちた。

「君のことが好きなの。だから、付き合ってほしいの」身を乗り出すように顔を俺に近づけてきた。

 恋愛は0点だ、と言われたことに黙っていられず、優香の近づいてきた顔にキスでもお見舞いしてやろうかと思ったが、色々と退学レベルだとすぐに気づいたから、やめた。

「え……あ、うん」と感情の籠もっていない声だけが出た。

「よかったー」俺の変な声の返答でも、優香は自分の聞きたい言葉を聞けて満足だったのか、自転車に体重をかけてきて、首をガクリと下げた。もし振ったとしても同じ行動をしたような気がした。

「ほんとよかった」そう言ってカバンを拾うと、えへへ、と優香は照れ笑いしてる口元を隠した。

 こんな俺のどこが好きなの? と追い確認したくなったが、今の優香の笑顔が消える気もしたから、またどこかのタイミングで確認すればいいやと飲み込んだ。

「付き合うってことで……」優香はポケットからスマホを取り出した。「連絡先教えて」坂の上にいたときの優香と違って、その表情も声色も嬉々としていた。

「あぁ、いいよ」と俺が慌ててラインのQRコードを表示させると、優香は自分のスマホを俺のスマホに被せるようにして、QRコードを読み取った。

 その時に、優香の手帳型のスマホケースに差し込まれた薄いピンク色の定期が見えた。だけど、優香が失くしたのは一学期定期だから、緑色の定期のはずだ。
 それでも、指輪を受け取ったようにスマホの画面を眺める優香を見たら、「あれ? 定期あるじゃん」なんて確認はできなかった。

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