【短編小説】シャングリラ眠る

 懐かしくもあるような、それでいて久司の奥底にある名も無い衝動に触れる女を見ると、久司はその女とセックスをする夢を見るのだ。泡のような、あられもない姿をした女と体を交り、溶けるような夢に溺れる。昨日も、夢を見てしまうような女に出会ったのだ。他愛もない飲みの席で出会った、その女は桜子という名前だった。自己紹介の後、もうとっくに桜は散ってしまっているのにと久司は勝手に残念がったが、彼女の一呼吸、瞬きの一瞬、目が合う一秒だけで久司は夢の中へと落ちた。水面に浮かぶ散ってしまった桃色の花びらのようにどこか儚げで、それでいて目の奥に潜む活動的な刹那的な炎は、狂おしいほど僕の目線を独占した。少しウルフぽい段差のついた髪と長く天へとそそりだったまつげ、細長い指は幼さと聡明さを我儘に抱えたようだ。名は体を表すとはこの事かと、幼少の頃に感じたのに近い高揚感が久司の全身を走り抜けた。
 いつもならば、夢に浸ってしまった時点で、その女とのセックスをすることは叶わないのだけれど、昨日の女は違っていた。

 目を覚ましたのは、蛙が鳴く朝とも昼とも言えないような時間だった。蛙たちは昨日の夕立で潤った声を、これでもかと言うほどがなり立て、緩やかに僕を現実に戻していた。隣にある、肉感的な存在は肌色と少し黄ばんだシーツに包まれている。ねぇ、と僕が話し掛けても彼女の耳には届かなく、口を少し開けて小さく息をしていた。何も変わらない部屋は、彼女の寝息に侵食されている。
 安くさいくせに、エスニックと欧米の悪いところを混ぜ合わせた内装をしているアパートはチカチカする壁紙と少し綺麗な木枠の出窓がカオスを極めている。ただ、壁紙は喫煙のせいで発色良さ、という売りを失ってしまっているが……。安さと最寄り駅まで近いという交通の便から選んだこの部屋をここまで後悔するとは思わなかった。体を起こして、ベットのそばにある出窓からアパートの駐車場へと目をやった。数人前の道路を歩いていて、その中の一人は日傘を指していた。
 女がこの部屋に居るという事実が、今にも瓦解してしまいそうな現実感を漂わせていた。視線を部屋の中に戻して、隣で眠る女を跨いでベットの脇の床に落ちていた、襟が窶れたTシャツを拾い上げて下着一枚の肌に被せるように着た。体馴染みが良いTシャツを一枚着るだけで、安心感が段違いだった。小さな本棚とシケモクが溜まった灰皿とアルコールの残骸しか無いこの部屋は、自分の器と心にひどく酷似している。もっと大きくなると普遍的で昔からの若者の不変な予想をしていた十数年前からみたら、目も当てたくない人間になっている。それは、本をよむときの猫背や煙草を吸うときの吸う速さに現れているだろう。決して醜い体ではないと思っているが、線が細いだけの男の悪い姿勢ってのは不気味には見えそうだ。
 ベット近くのローテーブルの付近に腰を下ろして、CDプレーヤーに繋がったヘッドホンを耳に当てる。再生のボタンを押し込んで、手が届くところにある本に手を伸ばした。僕には到底ヒアリング出来ない英語が掠れた声と聞こえる、と同時に本の中の栞を外して机の上に投げ捨てた。栞は、机を滑り緩やかなカーブを描いて、置いてあるハイライトにぶつかった。視線に入った煙草におもむろに手を伸ばし、火を点けた。女の存在など気にしないように、何かに目を背けるように自分の世界に入り込めるように、手に取れるものすべてを手に取った。体をいやに小さく丸め、本に顔を近付け一枚また一枚とページを捲った。その間に何度も煙を吐く。頭になっている洋楽が、サビに近づいたその瞬間、ヘッドホンは外され耳元で昨日聞いた、彼女の声が低く鳴った。全身がビリビリと電流が流れたと思うくらい揺れ、心臓が一回りほど小さくなるくらい大きい鼓動が一度した
 「え……」
 「おはよう」
 「あ、はようございます」
 桜子は、なんで敬語?と笑っていた。あまりにも無垢で緊張感のない笑顔にこちらがよそよそしくなってしまった。彼女は何も変わらず、手を伸ばした。僕があまりにもキョトンとしていると「煙草取ってって言ったじゃん」と言った。ヘッドホンを取られた時あまりにも驚きすぎて、何を言われたか飛んでしまっていたがそれを言っていたのかと納得して、机のハイライトとライターを渡した。
 「キュウはさ、本当ばかみたいに殻に閉じこもるのが好きだね」
 煙を吐いた彼女は、飲み会で知人が僕を呼ぶいつものあだ名で、貶してるわけでも褒めてるわけでもない言葉を僕に投げた。それにムカつきもしない僕は、多分僕自身を諦めているのだろう。だからこそ、もうなんとも感情が出ないのかもしれない。目がずっと合ったままの煙越しの彼女は、名前には似合わない夏の匂いがした。
 「昨日あたしを抱きしめたときになんて言ったか覚えてる?」との言葉に僕は首を横に振った。足回りにあった布団を桜子は、かき集め包まった。「君の中に入って、僕を忘れてしまいたいって言ったの、酔っ払ってたんだろうなとか思ったけど、酔っ払って出る言葉は言いたいことではないけど嘘ではないとあたしは思うんだ」
 少し焼けた肌とシーツの白とのコントラストが、光って僕には眩しい。何も疑いもせずに、僕のことを分かる彼女を 大人になった僕は跳ね返さなくても良くなったのだと瞬間的に感じた。だからなのだろう、こんな言葉が出たのは。
 「僕はね、子供の頃から友達が居なかったんだ、それは僕に友達を作る才能がなかったと言えば話は早いんだけど、人より早く思春期ってものを迎えてしまって、大人だけに向けて反抗を続ければまだ良かったんだけど、近い年の人にも向け続けてしまって、それを続けるたびに独りになった」
 何故こんな話をするのか自分でも納得はいっていなかったが、それでも口から出る錆は止まらなかった。僕が続ける言葉に彼女は、苦しそうにしなかった上に共感に近い目や態度すら向けた。一人が寄ってたかった本やCDが、今はなぜか更に身近に感じる。
 「人間ってのは自分を肯定したい生き物だと思う」
 私もそう思うと、桜子は言った。
 「それのせいで、捻れた想像と人間への執着と愛情が、僕の常識になって偏見になった、殻に閉じこもりたくなるのは、それを誰にも否定されたくなかったんだと思う」
 桜子は先が短くなった煙草をギリギリまで吸い続け、僕の奥にあった灰皿へと手を伸ばした。芳醇さと若く青々としたのが混じり合う匂いが僕の鼻を抜ける。そのまま、近くで僕の顔を見て「まだ子供なんだよね」と言った。僕が頷くと、それに納得して、私もと呟いた。
 「否定ってのはコンプレックスで、自分自身が否定してしまうものを否応にも欲してしまう、私はキュウが嫌いでとても愛おしい、それを肌で抱きしめるたびに思った」
 朧気な昨日の夜のように、僕をもう一度抱きしめ、それから耳元で嫌いだと囁いた。柔らかな肌に生えた棘でどちらもを傷をつけた。
 「母親が嫌いだったんだ、僕を分かってるふりをして優しくして時には撫でて、でも何も分かってなかった、小学生の頃の女の担任が嫌いだった、少しデキる様な行動を取るたびに僕に異なるプレッシャーを与えた、あの時の担任の匂いが時々鼻を掠めるだけで苦しくなる」
 エゴとコンプレックスがざらついた心にするたびに、久司はあの体を欲して、夢に落ちるようになっていた。
 小さな体と僕の体が当たる僅かな部分から少しづつ熱が体全体へと伝わっていく。それは、氷が溶けるようでもあって、または燃え上がる執着が更に炎を増すかのようだった。僕からも彼女に、それを更に強くするように背中に手を回した。滲むように不規則に広まる熱は何かを形作るようにみえて、なにも残さず、これから更に中毒的に欲してしまう様に思えた。
 「同族嫌悪なんだと思った、自分に失望して何が悪いか分かっててどうしょうもなくなってる自分と同じなのかもと」
 桜子は淡々と僕の耳元で話を続けた。今の彼女には、強さというものが見えなくなりつつある。強い音に隠された弱々しいメッセージが、自覚すると見えてくるみたいだった。
 「昨日ムシャクシャしててさ、久しぶりに父親から連絡が来たの朝、大学卒業したらこっちで働きなさいっていきなりね、なんの脈略もなしに、あんたが嫌いだから家を出たんだって最後家を出るときに言ったはずだったのにあの人には変わらないみたいでムカついた、でも私は人形だったんだって思い出した、今まであの人の逆鱗に触れないようにしてたくせに、最後の最後に言ったって無駄なのに」
 大人しく人間の中に混ざることを覚えてしまった僕らは、鬱屈を拗らせているのだろう。弱々しい声の桜子は昨日とは様子が違って、僕はとても嫌いで愛おしかった。抱きしめた夢が夢で終わらなかった意味が分かった気がした。
 「私はただ、褒められて本当の私を愛してほしかった、強く反発してなりたい自分になってみたけど今はそれが苦しい」
 愛故に、僕らは何かを見失って、でこぼこのはまるところだけを交わして、僕らを満たそうとしていた。時間とか関係なしに孤立したこの部屋で、僕らはもう一度ベットに溶け出した。昨日とは違ってただ抱きしめたまま。

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