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映画「花束みたいな恋をした」を観た

今日、ようやく映画「花束みたいな恋をした」を観た。1月末に公開されてからさまざまな場所で話題を呼び、考察も進んでいる映画ではあるが、せっかくだから自分なりの感想を書いてみたい。

鑑賞した後の最初の感想は「坂元裕二が…文化系を…殺しにきている……」というものだった。大薙刀を振って文化系の首を刈らんばかりの勢いで、描かれている固有名詞がばんばん心に突き刺さってくるのだ。穂村弘、長嶋有、そして今村夏子。頻出されるワードは「大丈夫ですか? これ、単館系の映画じゃないですよね……?」と思うほどのニッチさで、主人公の麦くん絹ちゃんは、わたしと見聞きしているものが恐ろしく近く、その点に共感をせずにはいられなかった。

根性の曲がった偏見だらけの元サブカルとしては、正直、主演が菅田将暉と有村架純の映画なんて、絶対に洒落臭いと思っていたのだ。いまをトキメク超王道ど真ん中俳優の2人が主役の恋愛映画なんて、脚本が坂元裕二だとしてもわたしは騙されんぞと、そう思っていた。だけどあまりにも周りのサブカル民が騒いでいるから「どおれ」と思って観に行ったところ、映画が終わった後には、平身低頭でその不遜な態度を謝罪したくなった。なんて自分は偏見にまみれた愚かな存在なのだろう。そして何に騙されることを警戒していたのだろう。

と、ここまではどちらかというと映画の“側”というか、登場モチーフについて痺れたという話をしてきたが、もちろん1つの恋が始まり終わるまでを描いた恋愛映画としても、この作品は大変にすばらしかった。個人的な話をすると、ちょうどわたしも麦くんと絹ちゃんが付き合っていた年齢(21〜26歳)の頃に自分のなかでは大きな恋愛をしていたので、2人の姿がどうしても当時の自分の過去と重なってしまった。

とはいえ、わたしの相手はサブカル好きというよりも、超王道路線な感じだったので趣味はほとんど合致しなかったのだが、「どちらが悪いわけでもないのに、どうして少しずつ歯車が噛み合わなくなってしまうんだろう」とか、別れ際に思う「どうしてあんなに楽しい時間を過ごしたのに、わたしたちは一緒にはいられないんだろう」という気持ちとか、そんなことを重ねて思い出して、かなり切なくなってしまった。過去はやっぱり輝いて見えるけれど、それで戻ったところで絶対にうまくいかないのが悲しい。

タイトルである「花束みたいな恋をした」の“花束みたい”を自分なりに解釈するなら、それは美しく咲き、最後は結果的に“枯れてしまった”という点にあるのではないかと思う。花束の「物」としての美しさを言いたいのではなく、花束を花瓶に活けた後の「過程」や「変化」(美しく咲いた花が、次第に元気を失い、やがて枯れていく)がこの恋愛と符号するのではないか。


「恋の始まりから終わり」を観させられるとなると、正直自分は重なる部分も多いから結構なダメージを受けるのではないかとも心配していたが、かなり共感したわりに、最終的にはさっぱりとした気持ちになれたのもよかった。2人のように、自分もちゃんと歩んでいこうと思わせてくれる。まだ観ていない人は、わたしの二の舞を演じることなく、素直に映画館へ足を運んでみて欲しい。誰でもきっと何かしら琴線に触れる部分があるだろう、すばらしい映画です。

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