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『だまされ屋さん』を読んで考えたこと

星野智幸さんの小説『だまされ屋さん』を読んだ。

現代の家族をめぐるお話なのだが、その人物評が鋭すぎて心に痛いほどで、自分の心にもやもやと蠢いていたものに「言葉」という形が与えられ、目の前に現れて苦しくなった。こんな風に解像度を高く人を捉えられるのは本当にすごいと驚嘆する一方で、(完全に余計なお世話だが、)これだけ視界がクリアだと著者の星野さんは知らなくてもよい機微にも気がついてしまうんだろうな、などといらぬ心配をしてみたりした。
そしてとにかく、「家族」という言葉に内包された呪いのようなものについて考えさせられた。

わたしは、父のことも母のことも人間としてすごく尊敬しているし、心から大好きだなと思えている。でもそれは、親子だから当然なのではなく、ただ相性がよかった偶然の結果なのだということを、大人になってからようやく自覚した。

「家族は仲良くあるべき」「親は子を、子を親を、愛し合うべき」みたいな考えはいまだに根強くある。でも「〜であるべき」というのは、正解を1つに定め、それ以外の形を認めず排除する呪いだ。おそらく自分は、家族という問題に関してはいわゆる正解の側にいるからこそ、「〜こうあるべき」を無自覚に押しつけてしまいそうでおそろしい。もっと多様な家族のあり方を、許容できる自分でありたいと思う。

だって、別の側面から捉えなおせばまた、自分もまた世間的な「〜あるべき」から外れた存在でもあり、そこに合致できないことに小さなやましさや無力感をどうしても感じてしまっているから。自分が苦しまないために、他人も苦しめたくない。

だからこそ、誰かに価値観を押しつけたくないし、押しつけられたくない。

おそらく主題とは異なるかもしれないけれど、この小説を読んで、「価値観を他者に押しつけることはとても暴力的な行為である」ということをまざまざを実感した。何度そう思っても、自分は何度も何度も失敗してしまう。だからこそ、また改めて自覚できてよかった。

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