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恋は桃色

かれこれもう13年ほど前、私は北海道から東京に来て、いわゆる「文化系」や「サブカル系」がそれなりに集まる大学に入学した。そこである女の子に出会った。その子は一般に「お嬢様学校」と括られる東京の女子校出身だったが、お高く止まるとか小声で会話するとかは一切なく(ある意味気品というものは皆無だった)、あけすけでユーモアがあり、少し強がりでとても聡明な人間だった。そんな彼女のことを、私はすぐに好きになった。

犬のように尻尾を振りまんまと彼女と仲良くなった私は、それから彼女にたくさんの「カルチャー」を教えてもらった。特に彼女が詳しいのは音楽だ。教授が遥か下方で講義を進める大学の大教室で「J-WAVEを聴いている」と彼女はさらりと言い、私はそれを聞き漏らすことなく、一人暮らしの部屋でパソコンを広げてその存在を知ったりした。一方私の情報源と言えば、もっぱら金曜夜のミュージックステーション。彼女のおかげで新しい扉が開いた。まだ、みんなの手元にスマートフォンがなかった00年代終わりの話。

私は音楽を聴く際、いまだに歌詞にあまり興味が持てないのだが(メロディラインばかりを追ってしまう)、彼女は音楽性に加えて「歌詞」を大切に聴いているようだった。そんな彼女が「これは素晴らしい」と絶賛していたのが、細野晴臣の「恋は桃色」だ。特にこの部分が大好きなのだ、と当時の彼女は明朗に語っていた。

おまえの中で 雨が降れば
僕は傘を閉じて濡れていけるかな
雨の香りこの黴のくさみ
空は鼠色 恋は桃色

(細野晴臣「恋は桃色」より)

20歳そこらでこれを理解できる感性、早熟すぎやしませんか。一体あなたには何があったの。いまの私ならそうツッコミを入れるところだが、当時の私は「分からない」顔をするのは格好がつかないので、なんとなく分かったような雰囲気を醸し出しつつその場を乗り切った気がする。

ただ、いい大人になった私はいま改めてこの歌詞を噛み締めている。「守る/守られる」の関係ではなく、共に濡れながら隣を歩いてくれる人のありがたみや得難さ。これは「恋」というより「愛」と呼べるのだと思う。


……と急にこんなことを悠々と語ってしまったのは、いま改めて『ノルウェイの森』を再読しているからだ。この本を手に取ったのも私が18歳の頃。当時の私は「移り気な恋の話」なのだと理解していたのだが、ある程度の歳を重ねたいまでは、これは「愛と死の話」なのかもしれないと思う。

そして、タイトルにもなったビートルズの「Norwegian Wood」の歌詞を紐解いていたところでなかなか興味深い事実を知り、歌詞の面白みに思いを巡らせ、こんなところまで飛んできてしまったのでありました。「Norwegian Wood」の話は時間のある時にまた書きます。

「書くことないな」と思う時ほど文章が長くなる傾向あり。冗長ですみません。それでは、きょうも1日を乗り切りましょう。

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