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韓国のデモクラシーと憲法改正

ダイレクトデモクラシーの旅」からの抜粋です。コロナ対策に成功して支持率を急速にあげて総選挙に望んだ政権与党は、2/3近い議席を得て、もう一度憲法改正を試みるんじゃないかと思います。アップデートしたいですね。

韓国のデモクラシーの根底にあるもの

2017年秋、スイスデモクラシー財団のブルーノ・カウフマン氏が韓国デモクラシー財団のフォーラムで講演をする際、私を招待してくれた。前日の夕方、手配してくれたソウルのホテルに着いてチェックインしてから外に出てみると、なんとすぐ隣にあの慰安婦像がある。彼らはオフィスの近くのホテルを手配してくれたのだが、韓国デモクラシー財団のオフィスは日本大使館と同じビルにあったのだ。

フォーラムのパネルディスカッションの時、「いや、びっくりしました」と言ったら会場がどっと笑いに包まれた。その後のレセプションで彼らは、自虐的に話す。「同じビルの、しかも真下のフロアなんだよ」。

韓国デモクラシー財団は、2001年、金大中政権下で特別立法によって設立された政府の外郭団体だ。韓国の民主化運動の歴史を次世代に伝えることを第一のミッションにしている。彼らとはその後も交流が続いていろんな話を聴いた。何よりも、先人たちの民主化運動のなかでの多大な犠牲、献身があって今の社会がある、そのことを誇りに思うということを熱く語る。朴槿恵政権下で、予算が削られることに抗議して、みんなが何ヶ月も無給で働いたことまである。確かな芯があって人としての強さを感じる。日本の外郭団体のイメージとは程遠い。そのフォーラムには台湾のデモクラシー財団も参加していた。それもまた韓国とほぼ同じ時期に国会で全会一致で決議されて設立されている。この隣国の2つの財団は、古くからの同士という雰囲気で話をしていたが、それを1人ポツンと日本人の私が聴いているのは、とても複雑な気持ちになる。

韓国の民主化の歴史、そう、かつて日本だった国が、戦争のあとどのような道を辿ってきたのかを知ることは、大事なことに違いない。

朝鮮半島を38度線を境界に分割統治することは、長崎に原爆が投下される数時間前、ソ連が満州に侵攻してから、慌ててアメリカの大統領トルーマンがソ連に提案したものだ。ソ連の対日参戦はその年の2月にクリミア半島のヤルタでの会談で決まり、それを受けて4月5日に、ソ連の外務大臣が日本の大使を呼んで、およそ1年後に期限がくる日ソ中立条約を延長しないと通告している。その月末にはムッソリーニが処刑され、ヒトラーも自殺、翌月にはドイツが降伏した。ソ連の対日参戦を望んだルーズベルトが4月に死去し、大統領がトルーマンに変わってすぐに西部戦線が集結をむかえ、日本との戦いも終わる目処がついた段階で、トルーマンはもはやソ連の参戦を望まなくなった。しかし、ドイツの降伏後90日以内に参戦するとしたスターリンは、シベリア鉄道で150万人の兵士を輸送してそれを実行した。歴史のイフだが、もし、もう少し早くソ連が参戦していれば、その後の朝鮮半島の悲劇は、日本が辿ったものだったかも知れない。ドイツでは、最後は少年や老人まで動員されて首都で戦闘を行い、結果として首都と国土全体が東西に分割占領されたが、アジアは、解放されたはずの植民地が分割されてしまった。

その後、米ソ対立がさらに鮮明になっていく中で、アメリカは、南側の単独選挙で政権を樹立する方向を固めていく。いうまでもなく、国民は民族の統一国家を望んでおり、分断を固定化する選挙に反対運動が起こった。特に済州島では大きなデモが発生し、警察の発砲によって死者がでると、それに抗議してゼネストが行われ、混乱は拡大した。それ以後済州島では、政府が反共政策だと正当化して徹底した弾圧を続けた。1948年4月に南朝鮮労働者党が中心となって武装蜂起を起こすと、政府は陸軍の投入を決定、それに反対する軍内部からも反乱が起こって騒乱が拡大するものの、軍は蜂起を鎮圧した。その後、残存勢力はゲリラ化して紛争は長期化、ゲリラを支持しているとみられる住民への虐殺は繰り返され、完全鎮圧された1957年までの犠牲者は8万人にものぼると推測されている。この混乱の中で済州島から日本に避難してきた人も相当数にのぼる。こうした混乱の中、1948年8月に大韓民国が建国され、それに呼応するように翌月には、朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言された。
そして、1950年6月、中国とソ連の支援を確認した金日成が境界線を超えて侵攻し、戦争が始まった。日本に駐留していた米軍を中心とする各国軍が国連軍として参戦し、ソ連の支援をえた中国の人民解放軍が義勇軍として本格参戦する中で、前線は目まぐるしく変化し、朝鮮半島のほぼ全土で一般人を巻き込む地上戦が行われた。太平洋戦争で日本に投下されたものの数倍の爆弾が使われ、敵を支援したという嫌疑で、軍による民間人の虐殺も頻繁にあった。戦争はおよそ3年続き、結局38度線付近を境界として停戦されるが、犠牲者は南北合わせておよそ500万人とも推計されている。人口がおよそ3500万人だったことを考えると、その被害の大きさには驚くばかりだ。さらに、戦況によって人びとが大移動し続けたため、停戦によって、1000万人とも推計される離散家族が発生した。生産設備の多くも破壊されたため、韓国は世界の最貧国となった。その後も、戦争の終結がなされないまま長く軍事独裁に苦しむこととなる。

初代大統領の李承晩は、自分が大統領であり続けるために、憲法改正や不正選挙を繰り返し、政敵を容赦なく弾圧、排斥して独裁体制を強めていった。1960年3月15日、李承晩の4選が報じられると、不正選挙に怒った人びとのデモが発生し、当局の発砲により死者が出て、デモは拡大する。4月19日には、各地で学生と警察が衝突して186人もの死者が出るに至って、駐韓アメリカ大使が李承晩の不支持を表明、国会でも辞職要求決議が全会一致で採択されるにおよんで、李承晩はようやく辞職を表明、そのまま亡命した。

その1年後、1961年4月19日に予想された1周年記念のデモを鎮圧することをきっかけにクーデターを計画したのが当時陸軍少将の朴正煕だった。李承晩の失脚後、学生たちは南北会談を開催しようとしていた。結局、当日は平穏に過ぎたために、翌月、あらためてクーデターが決行された。わずか3600名の軍人が出動し、ほとんど無血で首都の主要機関を制圧、それから18年間も、新たな独裁政権がつづく。その間、終始民主化運動は徹底的に弾圧され、不当逮捕や拷問が行われた。そして、朴正煕の暗殺後も軍人による政権は1993年まで続いた。

朴正煕の暗殺は、1979年10月、釜山で学生を中心とした発生した大規模なデモがきっかけになった。政府は戒厳令を布告して軍を投入して鎮圧、収束させようとしている時に、朴の側近であるKCIAのトップが至近距離から銃で撃った。その後、当時の首相である崔圭夏が大統領となり、就任の際に、早期の民主化を約束し政治犯を釈放、活動を制限されていた政治家たちの公民権が回復された。大学では、追放されていた教授や学生が復帰し、大学の民主化運動が拡大、「ソウルの春」と呼ばれた。一方で、朴の暗殺直後に内乱を起こして軍の実権を握った全斗煥は、翌年4月に保安司令官に加えて中央情報部部長代理を兼務した。またもや軍事独裁が生まれる動きは、民主化を求める人たちに衝撃をもたらし、反対デモが全国に拡大した。国会もそれに応えるように朴の暗殺以来続いた戒厳令の解除を決議しようとした。こうした動きを一挙に封じ込めるために軍は5月17日に戒厳令を全国に拡大、政治活動を禁止、大学は休校措置となり、金大中ら主要な政治家、民主化運動や労働組合のリーダーを一斉に逮捕した。これによって全国のデモは収束したが、金大中の出身地である全羅道にある光州市では、18日に、大学を閉鎖した空挺部隊と学生が衝突し、市民を巻き込んでエスカレートしていった。軍の発砲に対抗して市民は武器庫を襲撃して武装、本格的な市街戦になる中で、軍は光州の交通と通信を遮断して封鎖、包囲して掃討作戦を展開、多数の市民の犠牲を出しながら鎮圧した。その際、軍はヘリコプターから市民に向かって機銃掃射をしたと言われているが、まだ全容解明にはいたっていない。

文在寅大統領は、就任直後のこの光州事件の記念式典でこう話している。

5.18は不義の国家権力が国民の生命と人権を蹂躙した私たちの現代史の悲劇でした。 しかし、これに対抗した市民の抗争が民主主義の道しるべを立てました。真実は長い間隠蔽され、歪曲され、弾圧されました。しかし、厳しい独裁の暗やみの中でも、国民は、光州のともしびをたどって一歩ずつ進みました。光州の真実を伝えることが民主化運動となりました。
釜山で弁護士として活動した私も違いませんでした。私自身も5.18の時に拘束されましたが、私が経験した苦痛は大したことではありませんでした。光州の真実は私にとって無視できない怒りで、痛みをともに分かち合うことができなかったという、あまりにも大きな負い目でした。その負い目が民主化運動に乗り出す勇気をくれました。それが私を今日この席に立たせるまで成長させてくれた力になりました。


1987年、全斗煥大統領の任期満了が近づく中、大統領の直接選挙のための憲法改正を求める声が強まっていた。そもそも1971年の大統領選挙で朴は金大中に僅差で勝利しただけで、直後の総選挙でも与党が改憲に必要な2/3の議席を得ることができず、そのため議会を通して改憲ができなくなった。そこで朴は「北朝鮮が攻めてくる」といって非常事態を宣言、翌年には抜き打ち的に戒厳令を布告し、国会を解散、政治活動を禁止、大学を休校にして、報道を事前検閲した。そして大統領の任期制限を撤廃、間接選挙に切り替えた新憲法を制定、自らの支持者で固めた代議員によって大統領に再選された。それから15年間、国民が投票で大統領を選ぶことができなくなっていた。こうした声にも関わらず、全斗煥は、4月に直接選挙の拒否を宣言した。これに対して野党が一斉に反発、ちょうど起きたソウル大学生の拷問致死事件も火に油を注ぐかたちとなって、5月に広く反政府勢力が結集して国民運動本部が組織された。そして、6月10日の与党の大統領候補を選ぶ党大会に合わせて国民大会を開催、一般市民も広く参加して全国の都市でデモが起こった。そこで、催涙弾が学生に直撃して重体となる事故が発生しすると、運動本部は18日を「催涙弾追放の日」としてキャンペーンを展開、全国の大学や都市にデモが広がっていった。一部では、とうとう警察の武装が解除され、幹線道路が民衆に占拠された。光州でも20万人以上が参加した。こうした空前のデモが起こっても政府が一向に打開策を提示しない中、6月26日には「国民平和大行進」が決行され、合計180万人とも推計されるデモが全国で発生した。これを受けるかたちでようやく政府が6.29宣言を表明、大統領の直接選挙の改憲を受け入れた。この時に改正された憲法が現行のものだが、これによって大統領の任期は1期5年で再任禁止とされ、大統領の非常措置権や国会の解散権も禁じられた。また、憲法裁判所が新設されて今日にいたっている。

キャンドルデモから目指す改憲

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それからおよそ30年後の2016年10月、朴槿恵大統領の汚職が表面化し、辞任を求める人びとが光化門広場を中心にキャンドルを手にして集まりだした。10月29日から翌年の辞任が決定するまで、ピーク時には1日200万人以上、延べ1700万人もの人が街にくりだしたと言われている。冬のソウルは本当に寒いが、単一のテーマとしては世界史上最大のデモに違いない。この運動に突き動かされるように、国会は12月9日に大統領の弾劾を決議し、翌3月10日は憲法裁判所が罷免を宣告した。87年の政変で導入された弾劾制度が初めて適用されている。

一連のデモの運営にあたったのは、「退陣行動」という2000以上のNGOの連合体で、徹底して「平和デモ」を呼びかけ、簡易トイレやステージの運営、広報や清掃などの環境整備に徹し、普通の人たちが自然に自発的に参加できるようにした。関係者が「リーダーはいないんです」と言っていたのが印象的だった。1987年の大規模デモでは、警察署や車両などが破壊されたが、この運動では、暴力行為は皆無と言ってもよく、だから誰でも参加できた。政治家を舞台にあげて喋らせないという原則もあった。

退陣後の大統領選挙ではすべての候補が改憲を政策として掲げた。30年以上前の憲法は依然強い大統領権限が残る一方で、任期が5年に制限されている。任期が迫ってくるとレームダック状態になりながら、汚職の温床になって、ほとんどの大統領が最終的に罪に問われて不本意な余生を過ごさなければならなかった。だから、今度の改憲は、より大統領の権限を弱めた上で任期を延ばす一方で、国民の権利をより強めるというのがキャンドルデモの中で生まれたコンセンサスだった。

文在寅大統領は2018年2月に直属の国民憲法諮問特別委員会を結成し、改憲案づくりに着手した。委員会はインターネット等で広く国民の意見を集めたが、集まった総数は70万件に達し、さらに各地で懇談会を開催、対面型で世論調査を行いながら、委員会でも熟議を重ねて、1ヶ月後に諮問案として大統領に提出している。それを受けて、大統領は3月末に国会に改憲案を提出、6月の統一地方選挙と同時に国民投票を実施したいと表明したが、残念ながら、少数与党の国会では審議が進まなかった。

私は、2018年の秋に再び、韓国デモクラシー財団のフォーラムに参加した。改憲について、メディアを通じて十分な情報を得ることができずにいたが、どうやら大統領案に盛り込まれたのは、有権者の署名によって国会審議が義務づけられるアジェンダ・イニシアチブに留まっていたようで、そこを確認したいと思っていた。

フォーラムでは、憲法委員会のメンバーである参与連帯の李泰鎬氏の講演もあった。その講演中、同時通訳のイヤホンから一瞬耳を疑うような言葉が聞こえてきて驚き、しっかり確認したいと思っていたら、幸いにも同じテーブルでランチをすることができた。詳しく聞いたところ、やはり、委員は全部で30名いて、全会一致で国レベルの市民イニシアチブの導入を諮問案に盛り込んだ。つまりスイス型のダイレクトデモクラシー、署名によって直接国民投票で市民の提案を決める制度だ。しかし、大統領案が出される直前にそれは削除されたと。理由は分からないとのことだった。

そして、このフォーラムの締めくくりでは、財団の代表が「キャンドルデモの結実は、市民イニシアチブの憲法への導入であるべきという認識のもと、署名集めを始める」と結んだ。
韓国の大統領が改憲案から市民イニシアチブを削除したということは残念なことだ。しかし、一方で、諮問委員全員が導入に賛成といい、史上最大のデモの成果をそこに求めて署名活動が始まるというのは、日本ではおよそ想像できないことだ。今現在、私の関係者を除いて、国レベルの市民イニシアチブを導入すべきという日本の学者も活動家も一般市民も私は知らないし、日本で何かの反対デモはあっても、問題を解決して社会を進化させるために、新しい権利を法制化しようという要求はない。この違いはとても大きい。

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