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実は世界の政治はここまで進化している

ダイレクトデモクラシーの旅」からの抜粋です

五つ星運動という革命

五つ星運動にとってリーダーは、過去の言葉で、汚い、見当外れな言葉だ。 何のリーダー?それはあなたが知性と意思決定能力を他人に帰属させることを意味するが、 あなたはもはや奴隷でも、物でもない。
G. カザレッジョ

ダイレクトデモクラシーについてより深く知りたいとシュミット氏に相談したところ、紹介してくれたのが、ドイツのケルンにオフィスを構えるデモクラシー・インターナショナルというNPOだった。2016年の秋にそこを訪ねた。

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メインステーションを降りると目の前に大聖堂がそびえ立つ。中心の広場に聖堂がある風景は、ヨーロッパの街並のスタンダードだけど、ケルンはその規模がまるで違う。ここの大聖堂は世界一のゴシック建築で、途中の中断を挟んで完成までおよそ600年を要し、1880年に完成した時には、世界一高い建築物だった。もちろんドイツで1番の観光名所でもある。目の前に立つと怖いくらいに巨大、そして緻密な建築だ。ひとつの建築物に人間がこれほどのエネルギーを注ぎ込めるということに畏怖の念を抱かずにはいられない。

そこから電車を乗り継いで10分ほど、バーゼルより川幅が広くなったライン川のほとりにオフィスはあった。NPOのスタッフであるアンドレアス・ミューラー氏からその活動を説明してもらっている中で、世界中からダイレクトデモクラシーを目指す人びとが集うグローバル・フォーラムがあることを知る。しかも開催が迫っていて、これまで日本人は誰も参加したことがないという。

結局、一旦日本にもどり、とんぼ返りしてフォーラムの開催地であるスペインのサン・セバスティアンに向かった。

バスクという言葉には分離独立やテロのイメージしか浮かんでこなかった。サン・セバスティアンはバスク語でドノスティアというが、面白いのは、この言葉は、ヨーロッパの言語体系とはまったく違う独自のものだそうだ。発音は日本語に似ているとも言われている。他にバスクといえば、イエズス会をつくったロヨラとザビエルはともにバスク人で、そして、ナチスドイツが史上初めて無差別空爆をした街「ゲルニカ」もまたバスクにある。

バルセロナから長距離バスに一日揺られて、地中海から大西洋まで横断してようやくターミナルに着いた。そこから予約した宿を探してチェックインして、そのまま外に出てウェルカムパーティの会場を探しながら海岸沿いのメインストリートに出ると、街の美しさに息を飲む。三日月のかたちをした白い砂浜の入江に沿って、白い石畳の遊歩道とメインストリートがあり、その背後に白い街並みが続いている。この街が「ビスケー湾の真珠」と呼ばれているなんて知らなかった。人口は20万人ほどの小さな街が入江に沿ってまとまっていて、その端から端まで歩いても30分くらいだ。北側にある繁華街には、たくさんのバルがあって、カウンターに色んなピンチョスがきれいに並んでいる。サン・セバスティアンはヨーロッパ屈指の美食の街で、星付きレストランも少なくないのは着いてから知った。

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歓迎レセプションの会場は市庁舎だが、行ってみると宮殿のようなつくりに驚いた。もともとカジノとして立てられたものらしい。立食で隣り合わせた陽気な老夫婦と話したら、キューバ人だという。若い頃、婚約していた時に、男が亡命せざるを得なくなってフランスに渡り、1年もしないうちに連絡がとれなくなった。それから、なんと55年ぶりに2人はヨーロッパで再会した。だから夫婦じゃなくて、違う人生を歩みながら、何かの折に会っている。政治をやっているわけでもないのに、どうしてこんなフォーラムに2人で参加するのかは聴きそびれたけど、本当に人の運命の数奇さに驚いた。

フォーラムの会場は、市庁舎とは入江の反対側の丘の中腹にたっているミラマール宮殿、かつてスペイン王室が夏の離宮として使ったところだ。登壇するのはヨーロッパやアメリカの政治家やジャーナリスト、学者、活動家がほとんどだ。3日間にわたって、メインのセッションと、面白そうな分科会に参加して、とりあえずすべてビデオに収めた。

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その中で、たまたま分科会で聴いたイタリアの若い国会議員のプレゼンテーション、翌日の全体会議で再び聞いた彼のスピーチは、とりわけ強烈なインパクトがあった。

そのリカルド・フラカーロ氏はフォーラムでこう話した。

新しい社会運動の話をします。近年、ヨーロッパの街で起こっている他の社会運動のように、五つ星運動が生まれたのも、 西側世界で深刻な社会経済危機が起こったからです。この危機によって、人びとは政治プロセスからより遠い存在になり、一層政治家に失望しています。人びとは自分が大切な存在じゃないと感じ、住んでいる社会の未来を決められない、未来社会の一部になれないと思っています。 私たちは、お互いの信頼関係をなくし、他人を信用しなくなって、コミュニティという感覚をなくしました。コミュニティの感覚が互いの尊重、公共の場の尊重を生み出します。これをなくすと、コミュニティの未来もなくなり、社会に崩壊のリスクがうまれます。そこで、社会運動はなにをすべきか? 私たちは、もう一度お互いを信用しあう、これが目指すべきメインゴールだと思います。 どうやってやるか?ダイレクトデモクラシーは答えになりえます。もう一度人びとが意思決定プロセスに参加できるようにする。この方法だけが、人びとが自分は大事な存在だと感じられ、未来の一部、コミュニティの一部になれます。この方法だけが、参加を創造し、人びとから情熱をうみだせます。でもこれだけはいけません。ダイレクトデモクラシーは答えだけど、良い方法で使わないといけない。誰もこのことを話しませんが、参加プロセスにおいて少ない人数というのも必要です。集権化ではなく脱集権化。大きな人数だと違いがないと感じてしまいます。欧州やアメリカの選挙のようだとあなたの一票はどうでもいい。信頼をもう一度つくるために、地域レベルから始めないといけません。私たちが地域のダイレクトデモクラシーにフォーカスして、組織化したことは完璧です。実際のコミュニティで一緒にやるのです。地域レベルからしか参加プロセスはつくれないし、病んだ社会を癒せない。もうひとつ、 今日の主要マスメディアの疑似的なコミュニケーションを超えて、単純な口伝えが使えます。これもダイレクトデモクラシー。イタリアではほとんどダイレクトデモクラシーのツールがなく、それをイタリアの政党が人びとを操るために自由じゃない情報を通して使ってきました。ダイレクトデモクラシーは市民のツールなので、市民のためになくてはなりません。政党の手段のようになったらまったく機能しません。
私たちの運動、五つ星運動は、西側世界のデモクラシーの危機へのアクションとして生まれました。経済危機は2008年ですが、すべては2005年に始まりました。誰か知ってるでしょうが、この運動の創始者のベッペ・グリッロのコミュニティ・ブログです。その頃、大きな自由空間がありました。新しいことを話す余地、多くの人がブログを読み始め、 そしてイタリアで、いや世界で一番大事なブログのひとつになりました。なぜでしょう?
人びとは新しいことを話し合うのが好きだからです。今、ほとんど扱われないこと。政治家が気づいていないか、みんなに気づいて欲しくないこと。少し例を挙げると、蓄電池、持続可能な経済、持続可能な農業システム、ベーシックインカム、デジタル・ライツ、こういう事です。そして人びとは新しい世界は実現可能だと気づきだしました。それは、政治家はあまり確信できない、あるいは望まない世界です。これで、現実的なものへのニーズがうまれました。話しているだけじゃなく、実現するために。そこでベッペ・グリッロが私たちに言いました。どうして一緒になって地域の問題を解決しないの?分析して解決しようよ。 それで人びとは集まりだしました。すべての町、イタリアの小さな町や都市で。そして解決策を政党や行政にもっていきました。何が起こったか?政治家は私たちの話を聞きたくなかったので、ドアを閉め、顔に水をかけた。時には本当にやったんです。蹴り出したんです、本当に。そこで、彼らがやりたくないのだから、解決策は見いだせないと気づいたのです。権力は腐敗していて、時にカネだけになり、個人の利益が市民の利益より大事なのです。新しい法律が必要だと、すぐに理解して、市民発議のために署名を集めました。2007年、一日で30万以上の署名を集め、次の年は「自由な情報」と言う法律のために、数日で130万の署名を集めました。イタリアではいまだに公共テレビは政府に完全に支配され、民放はベルルスコーニに完全に支配されているので、自由な情報がない。人びとと話して、精神性を変え、言葉を変えるために自由な情報が必要なのです。でも、政府は署名をごみ箱に入れて私たちを無視しました。だから私たちは政治運動をして、自分たちで法律をつくるために議会に入る。今、私たちは2つのゴールがあります。ひとつは政治家がまったくやってない約束を守るということ、そして、もうひとつは、ダイレクトデモクラシーを改良して腐敗した政治家から権力を人びとに戻す。最近、誰かがデモクラシーは複雑なビジネスだといってました。複雑でも、ビジネスでもない。ただとても厳しいものです。私たちは、社会革命の運動をしていて、精神性から変えようとしています。単なる代議制のデモクラシーから参加型に移行する。簡単じゃなくとても疲れます。プライベートの時間も、人生のすべてを費やしていますが、とても情熱があります。私たちの運動では任期が2期までと決めています。それは大事なことで、その時だけ政治が機能します。プロになったら悪くなるから、家に戻らないといけません。現実生活に戻らないといけない。あなたが船出に貢献した現実生活で暮らす、だから情熱をもってデザインの努力ができるのです。厳しいけど実現できます。
そして、おカネがない方が政治はうまく機能すると信じています。おカネから離れて始めて、人びとが政治をやるためのサービスを提供するのです。例えばどうやって予算に取り組むか、すべての市民がアイデアを練り上げて専門家のやり方で法律にできるサービスが必要です。そして、市民たちに立場を与える。自分たちのインフラをもつには、政府を変える必要があります。もうあなたたちには投票しないというのが物事を変える唯一の方法、代議士を変えるのです。政治家が怖いのは投票だけです。
また、正しい決定をするのがダイレクトデモクラシーではありません。それがダイレクトデモクラシーの意義ではないのです。人びとに責任を与えることなのです。昨日、どうやって市民感覚を向上させるか話し合いましたが、子供に責任を与えないと決して成長しません。責任を与えることが唯一の方法です。悪い決定は問題ではない、間違った決定でも、ダイレクトデモクラシーの市民は彼らの過ちだとは言えません。私たちの過ち、それが精神の変化です。
リーダーについては、私たちはベッペ・グリッロのようなカリスマ性のあるリーダーは重要でした。彼なしで五つ星運動をつくることはできませんでした。彼のお陰で本当にたくさんの人が一緒になり、統一されたひとつのゴールを目指しています。まだ多くの人がテレビから情報をとっていて、テレビは広告的なコミュニケーション・メディアだからカリスマ性のある人間が必要ですがそれを変えたいと思っています。顔を突き合わせてアイデアを伝えるのにはリーダーはいらない。もうリーダーがいらなくなることを目的に仕事をしています。そのためにも、イタリアでできるだけ早く政権をとります。


すぐに私は彼を日本に招きたいと思ったが、パーティや休憩時間には姿が見当たらず話すことができなかった。あとでフォーラムのチェアマンであるブルーノ・カウフマン氏からメールアドレスを教えてもらって、ヨーロッパに行く際にメールを送ったが、返事がない。その次、2017年9月、リスボンでベーシックインカムの世界会議に参加するのに合わせて、あの手この手で、ようやくアポイントをとって、ローマに立ち寄った。

モンテチトーリオ宮訪問

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人口およそ300万人のローマは、古代遺跡に人間が同居しているような街だ。ちょっと疲れるけど、歩いて主要な観光スポットをまわれるほどの大きさだ。コロッセオからまっすぐ伸びる大通りを10分ほど歩けば街の中心であるヴェネツィア広場に着く。そこのカフェでひと息ついている時にウェイトレスにwifiはないかときいたら、得意げにいう。
「ここにはビューしかないわ。あなたの国にはないでしょ?」
目の前には、巨大なモニュメント、ヴィットーリオがある。イタリアの統一を記念してつくられたもので、確かに似たようなものは日本にはない。そこから、コロッセオの反対方向に狭くなってのびる中心市街地のメインストリート、コルソ通りを数分歩くと左手にモンテチトーリオ宮殿がある。そこから、トレビの泉やスペイン広場、パンテオンなども徒歩で数分だ。17世紀にローマ教皇によってつくられたこの宮殿は、もともと裁判所として使われていたが、1870年、イタリアが統一された際に下院の議事堂になった。外見は隣接する市街地の建物とあまり変わらないが、中に入ると天井が高く、古い美術館のようなたたずまいだ。入り口で待っていた秘書に案内されて執務室につくと、フラカーロ氏が私たちを待っていた。サン・セバスティアンでの彼のスピーチは、帰国してすぐにビデオを編集して字幕も自分でつけたので、私の頭に全部焼きつけられている。1年近くたってようやく間近であいさつを交わすことができた。

面談は2時間におよび、その後、議事堂内を自ら案内してくれた。ちょうど代表のルイジ・ディマイオ氏がすれ違って、紹介もしてくれた。それから、パルラメント広場の反対側にあるレストランでイタリアンをご馳走になった。スペインのフォーラムには五つ星の他のメンバーも参加しているなかで、私はスピーチの内容が素晴らしいという理由で、フラカーロ氏にアプローチしたのだが、五つ星の中で、彼がどんな役割を担っているのかは知らなかった。彼は自分を除名権をもっている数少ない人間の1人だと言った。社会運動は外からの攻撃に対して対処することは可能だけど、誰でも参加できる中で、内部に入り込んで切り崩されたら防衛は困難だ。「腐ったリンゴ」を放置すれば腐敗はあっという間に広がるので、即座に外に出す必要がある。もちろん除名に対して抗告の機会は与えられるし、除名されるというのは、五つ星運動を冠しての活動ができなくなることに過ぎない。ほかに罰則があるわけではない。

彼らのカネをかけない政治についても、丁寧に話してくれた。第2党で多くの国会議員を擁する五つ星は年間4千万ユーロ、50億円もの政党助成金の受け取る権利があるが、それを拒否している。税金を政党のプロモーションに使ってはいけないという指針に基づいているのだが、それで支持率1位になれるという現実がある。そして、議員の報酬は国民の平均年収であるべきだという方針は、実際には返納手段がないために、マイクロクレジット基金をつくって報酬の半分を供出し、それを市民に貸し出している。すでに数千人に貸し出していると言っていたが、それは、ムハマド・ユヌス氏との交流から生まれたものに違いない。

私がもともと既存政党の候補者だったと自己紹介したら、少し苦い顔をして「政党の内部から変えるのは不可能だ」と言った。もちろん、だから私はここまで来ている。マスメディアも既存の政党も寄ってたかって五つ星運動を潰そうとしているけど、彼らは、「政治の右も左も幻想で、現実は、国民に良い政策と悪い政策しかない、自分たちは国民に良い提案をし続ける」という方針を堅持し、支持率トップを維持していた。そして、イタリアと日本は、政治やマスメディアの腐敗した状況がとてもよく似ていると認識を共有して、日本に来て欲しいというリクエストを快諾してくれた。

来日の準備としてインタビュー動画をつくりたいと思い、一旦、スイスで商談を済ませてから、再びモンテチトーリオを訪ねた。その間、フラカーロ氏はベッペ・グリッロ氏と電話で話して日本人が来たことを話題にしたという。グリッロ氏はそれを喜んで自分が日本語で話した「BANZAI」という動画を教えてくれた。また、数年前に亡くなった五つ星運動の共同創設者でITエンジニアのジャンロベルト・カザレッジョ氏は特に親日家で、ベッペ・グリッロのブログには英語の他に日本語のバージョンがあった。日本人はこういう運動をきっと理解するし、自分たちと繋がれると思って日本語版を始めたのだけど、結局、日本との交流が深まることはなかった。2009年にオブザーバー誌が世界で9番目に影響力をもつブログとランキングしたベッペ・グリッロのブログは、やがて五つ星運動が急激に勢力を拡大する中で、運動の広報メディアのようになっていたのだが、2018年の総選挙を前に、運動の広報を別のサイトに切り離して、グリッロ氏のブログもリニューアルした。その際、長く更新が止まったままだった日本語版はなくなった。

イタリアは翌年早々にも総選挙が行われるという見通しの中、訪日は、なるべく早くしてもらわないと、当分無理だということにしかならない。日本でも解散総選挙が現実味を帯びている時期で、その騒動が終わったあと、できれば11月下旬が望ましいというこちらのお願いを彼らは快諾してくれた。でも、その後、イタリアの国会は選挙制度をめぐって紛糾する。イタリアの国会は任期が5年で解散権は政治的な実権からは離れた大統領がもっている。任期が近づいてきたら然るべきタイミングで解散するというのが慣例だ。そして、日本では考えられないことだが、選挙制度が政党の思惑で絶えず変わる。その前の選挙では五つ星の躍進を防ぐために第1党に自動的に過半数を与えるという法律を通し、結果、第1党の民主党に過半数が与えられた。その制度は選挙のあとで違憲判決が下されるのだが、再選挙はなかった。そして、今度は、第1党になるであろう五つ星を阻止するために、当然のように第1党に過半数を与えるというルールはなくなり、小選挙区制が部分的に導入されるという。こういう混乱の中で、リカルド氏の秘書とのメールのやり取りが途絶えてしまった。予定された来日期日が迫る中でもう諦めようと思っていた頃、2週間前になって突然来日すると返事がきた。

3泊4日の滞在中、2度の講演会を企画した。日本では五つ星運動の知名度はほぼゼロで時間もない中で、丁寧に説明した案内が広がって、どちらの会にも200名前後の人が集ってくれた。参加者の多くが彼らの先進的で抜本的な取り組みを驚きをもって知ることになったが、その中でも五つ星運動のオンラインプラットフォームであるルソーの説明に感嘆したようだ。五つ星のメンバーおよそ15万人がインターネット上で常に政策を話し合い、必要に応じて投票を行い決定する。選挙の候補者もメンバー誰もが立候補できて、プラットフォーム上の予備選挙で選ばれる。フラカーロ氏がパワーポイントの資料で出した2014年の欧州議会選挙の時点では、メンバーの総数約9万人のなかで予備選挙におよそ5000人が立候補、その中から73人が候補者として選ばれ、実際の選挙で15名が当選している。ベッペ・グリッロ氏は国会の候補者の中で事前に知っていた人は5人しかいなかったと書いているが、これだけ大勢が立候補してネット上のプレゼンテーションだけで選ばれるのだから、誰か権力をもつ人が、自分の派閥をつくるために恣意的に選べるようなシステムにはなりようがない。そして、なんの調整も割り当てもない中で、候補者は半分以上が女性になった。女性の社会進出がそれほど進んでいないイタリアでこれは画期的なことだった。さらに、もちろんルソーには寄付の機能もあるが、選挙にかけているお金の少なさにも驚かされる。2013年、最初の総選挙の時に集めた寄付の総額は80万ユーロに満たない。それで第2党、ゆうに100名以上の議席を確保したが、実際に選挙で使った金額は集まったお金の半分だった。その残金は普通はプールして運営資金にまわすだろうけど、彼らは全額地震で壊れた学校に寄付してしまっている。フラカーロ氏自身、選挙に自分が使ったお金はわずか500ユーロだったと言っていた。比例代表だからと言っても驚くほど少ない。政策や立法についても常にプラットフォームで活発に議論され、膨大な数の提案がなされ、良いものは議会に提出される。議会で審議されていることも常にルソーにフィードバックされて対応が話し合われる。そして、議員はルソー内で決まったことには従わなければならない。

最後にフラカーロ氏は、政権をとって首相を連れて日本に戻ってくると締めくくり、会場は大きな拍手が沸き起こった。

帰り際、空港で、疑問をぶつけてみた。イタリアの総選挙が迫ってくる中で、本当に2期で辞めてしまったら人材やノウハウの流出で運動の維持がたいへんじゃないかと。そしたら、次の選挙でまた人は増えて、彼らにノウハウを伝えることで受け継がれていくから問題ないと言った。前回、当選してから初めてモンテチトーリオで仲間と会って、最初は議事堂でよく迷子になって他党の議員たちから笑われていたが、半年もすると彼ら以上に仕事はできるようになった。もちろん、他の議員たちは1日でも長く議員を続けることが目標で、彼ら以外にそんな内規をもつ政党はない。そして、創設者たちが決して自分たちが権力の座につこうとせず、応援に徹する姿勢は、国民の信用を確実に得たのだった。

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フラカーロ氏と再会したのは、翌年の7月、ローマでその年の9月に開催されるグローバル・フォーラムの準備会に参加した際、スイス大使館で開かれたパーティでだった。始まる前に公使が私に話しかけた。
「大使館に大臣がくるなんて滅多にないことだから、今日はすごく楽しみなの」
少し経ったら大臣が現れ、すぐに会場の中で私を見つけると、まっすぐに向かってきてハグして言った。
「日本で私がダイレクトデモクラシー大臣になるって言ったら疑ってたけど、ちゃんとなったよ」

グローバル・フォーラムは、もともとサンセバスティアンで開催された翌年、トリノで開かれる予定だった。トリノにも五つ星運動の若い女性市長のキアラ・アッペンディーノがいる。確か、もともとサッカーのユベントスの広報をしていた人だ。でも、開催が延期され、1年後、ローマで開かれることになった。その間、五つ星運動は総選挙で第1党となり連立政権をつくった。そして、フォーラムのホストは、ローマ市長・ヴィルジニア・ラッジと世界初のダイレクトデモクラシー大臣に就任したフラカーロ氏が共同であたることになった。きっと彼がすべてお膳立てしたことに違いない。

このパーティ会場でフラカーロ氏の秘書に相談したのは、ベッペ・グリッロを日本に招きたいということだった。特に高齢なので長いフライトが気掛かりだったが、「ベッペは、最近もアメリカに行ってたし、何の問題もないと思うよ」とグリッロ氏の秘書のメールアドレスを教えてくれた。心が踊る。

聖フランチェスコのスピリット

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この旅では、空いた時間でアッシジを訪ねることができた。私は、当初、彼らの運動がどうしてこんなにストイックなのか理解ができなかったのだが、それは、グリッロ氏がアッシジの聖フランチェスコ(サン・フランシスコ)に深い敬愛の念をもち、フランチェスコの修道会のあり方をそのまま運動に取り入れようとしているからだった。キリスト教になんの造詣もない私は、この聖人のことをまったく知らなかったのだが、この事実を知って強い興味をもった。五つ星運動には、ピラミッド構造の組織も、本部事務所も、管理部門もないのだが、それはまさにフランチェスコのあり方だ。

ローマから電車で内陸を北に1時間ほど行ったところ、ペルージャ県にアッシジという駅がある。駅で路線バスに乗り換えて少しすると丘の上に巨大な横長の建造物のある街が見えてくる。バスを降りると、アップダウンの続くこじんまりとした街が広がる。イタリア屈指の巡礼地で土産物屋も多い。そして、街の中心にあるのが、フランチェスコが埋葬された教会、少し離れたところに、フランチェスコの弟子で女子修道会をつくったキアラ(クレア、クララ)が埋葬される教会もある。日本でいうとちょうど高野山のようなところだろう。高いところにあって、周りから隔離された街なのは同じだけど、アッシジに鬱蒼とした森はなく、空気が乾いていて、明るい太陽が降り注いでいる。この街の石畳の坂道を上ったり下ったりして散歩するのは、いい汗かけて気持ちがいい。

フランチェスコは、12世紀から13世紀にかけて実在した人で、存命中から聖人のように扱われていた。聖フランチェスコ聖堂の前の芝の広場には、馬に乗って打ちひしがれているフランチェスコの像がある。南部のプーリアでの戦争に参加する騎士に同行して戦功をたてて騎士に取り立ててもらおうと思ったのだが、アッシジを少し出たばかりで引き返してしまう。フランチェスコは、それ以前にもアッシジとペルージャの戦争に参加して捕らえられて獄中生活を送り、病気にもなっている。そこで、騎士になることはやめて、福音書にあるキリストと弟子たちのように生きようと決めた。お金は受け取らず、肉体労働と托鉢で食い扶持をえて、ハンセン病患者のサポートや壊れた教会の修復をした。修復用の資材を集めるのに、通りで歌や音楽を奏でて喜捨を集めたフランチェスコは「神の道化師」とも呼ばれた。小鳥と話す聖人としても有名で、エコロジストの祖とも見なされている。当時、托鉢や、聖職者じゃない人の説教はローマ・カトリック教会では禁止されていたが、彼らは、その活動を法王庁に認めさせて修道会として活動ができるようにした。でも、グリッロ氏が著作で指摘しているように、教会権力とは完全に一線を画して、徹底して貧しくあろうとした。フランチェスコは、キリストに一番近い生き方をした人としてイタリア人に敬愛され、イタリアの守護聖人になっている。最小限の寄付を集め、最小限の費用で政治活動をする五つ星運動、マスメディアはそういうことは報じないから、イタリア人のどれくらいがそれを知っているかは疑問だが、少なくとも、国民全体にフランチェスコの精神性、美徳を共有する素地はあるだろう。そして、数奇な運命をたどったコメディアンであるベッペ・グリッロ氏は、同じ道化師だったフランチェスコに特別な共鳴をしているし、少なくないイタリア人も同じことを感じて、一緒に活動している。そして「歴代、フランチェスコを名乗る法王が1人もいなかったのは偶然ではない」とかつてグリッロ氏は著作で語っていたが、この時代、初めてそれが誕生している。まさしく偶然ではないだろう。

ローマのフォーラムとヴィルジニア・ラッジ

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ローマは7つの丘の街として知られるが、市庁舎であるセナトリオ宮殿は、一番高い丘の上にあるカンピドーリオ広場にある。イタリア統一を記念してつくられた巨大なモニュメントであるヴィットーリオの隣にあって、やや目立たなくなっているが、古代にはジュピター神殿のあった場所で、ずっとローマの中心、そして、そもそも首都という言葉キャピタルの語源はこの広場だ。ミケランジェロが設計した広場は、道路から急な階段を登っていくと、入り口で双子座のカストルとポルックスの巨大な像が出迎え、広場の中央にはマルクス・アウレリウスの騎馬像がある。これはレプリカだが損傷を防ぐために何十年か前に置き換えられたもので、本物は広場の左右にある美術館の中にあって、現存するローマ時代の唯一の騎馬像だ。美術館は、15世紀にローマ教皇から寄贈された美術品を保存するためにつくられたが、後に世界で最初に一般公開された。美術館と市庁舎は地下道で繋がったりして渾然としている。そして、市庁舎セナトリオ宮殿からコロッセオまでまっすぐに伸びるフォロ・ロマーノの眺めは、ローマで最高の景色のひとつに違いない。歴史の古さを民族の誇りにつなげる風潮は世界のあちこちにあるけど、ローマは2000年以上前のものがあまりにもありふれていて、アピールする必要がない。

準備会に合わせて、市長と大臣が宮殿で記者会見をした。私は最前列でビデオをまわしたが、その時に初めて、ヴィルジニア・ラッジをまじかに見た。美人市長として恐らくは世界的に有名な若者は、弁護士でシングルマザー、目の前にするととても小柄でスリムで、市長職の困難さが思いやられた。でも、掘りの深い顔立ちの奥の目の光は強く、毅然としていて、流れるようなスピーチが印象的だった。

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このローマ市長は、就任早々から延々とマスメディアに「無能」とレッテル貼りされ、汚職の嫌疑をかけられ裁判まで起こされたが、年月を経て完全な無罪を勝ち取っている。本当に世の中を変えたいという純粋な熱意をもつ若者が、いきなり高いポストに着いてしまうと、マスメディアや裏社会も一体となって、容赦ない排斥をする。イタリアと日本の社会が腐敗する様子はほとんど変わらないと思う。でも、五つ星運動から生まれた彼女はそれを正面から受け止めて、闘い抜いている。一過性のブームにのって出てきてしまっけど、バッシングに耐えきれずに変節して消されるようなタマではない。2019年6月にベッペ・グリッロのブログに投稿された彼女の原稿に感動して全訳したので、ここに紹介する。

最愛のローマを変えると決意した
ヴィルジニア・ラッジ
無能。これが私を攻撃し、敵として個人として損なうため、何千回も繰り返された侮辱の言葉。
卑怯なプロの政治家、訴訟に直面したにも関わらず、議員免除を盾に使うような彼らが、私に繰り返す言葉だ。カーサモニカ(注:マフィアグループ)に関して、私が彼らの違法住居の打ち壊しに取りかかると、(プロの政治家たちは)叫び声をあげた;30年、古いシステムと馴れ合いながら沈黙してたにも関わらず;通常どちらに分があるか、明らかではないのか。
今朝、カルタジローネの新聞も、その合唱に加わった。批判ではなく、いつもの個人的な侮辱だ。大げさで効果的な見出しがつけられた無駄な言葉が流れるだけの記事、重要なのは(人目を惹く)タイトルなのだから…。
ちょうど3年前、ローマの一部の新聞が、チヴィタヴェッキアに関する私への疑惑の調査をタイトルに冠し、全面記事として書いたことがあり、それはちょうど地方自治体の議員選挙の投票日のことだった:ここ数日、各新聞メディアはそのタイトルからきっかり3年を迎えたことを祝っている。
そのニュースは明らかに根拠のないものだったが、読者、購読者に謝罪する、(私を糾弾した時のような)全面記事は書かれなかった。
批判は常に正しく、状況をよりよくするために必要なものでも、それは誠意を持って行われた場合に限る。申し訳ないが、(私への批判には)疑問があるとしか言えない。ローマの課題は根深く、私は困難に直面しているが、それを克服しようとしている。私の罪はーそれを誇りに思っているがー古い埃っぽいサロンに加わらなかったことだ。
私は私と同じように郊外に住む人びと、行政の手が行き届かず、荒れて放棄された郊外の人びとに寄り添いたい。
私は権力者たちとは何の約束をすることもなく、常に私の街を守っている。
無能どころか決心しているのだ。
私の街を変え、行政の声が届くことがなかった人びとに声を届け、ローマという街を食いちらかし、跪かせた「有能な」輩から、いつも見放され、相手にされずにいた人びとのために闘うことを決意している。
誰も簡単だとは言わなかった。しかし、我々は進路を逆に向けることに成功し、そしてそれを実行している。
私たちは、イタリアの首都にうごめく長年の不正や汚職を隠してきた偽善の壁をゆっくりと壊しているところだ。
でも、なぜ、誰一人不法に目を閉じて、カーサモニカの不法住居を打ち倒さなかったのか?
ローマの廃棄物の25%を管理していた4つのゴミ処理場のうちの1つが火災に遭った際(近隣に悪臭が漂い、大変な公害を引き起こした)、なぜ誰も捜査しなかったのか?
今の行政になるまで、なぜ廃棄物収集の契約がセローニに課されなかったのか?
「同族主義」のAtac(市営交通)が”友達の友達”を雇って10億ユーロ以上の借金を負った際、なぜ誰もが沈黙していたのか?
この3年間で私たちが再編したような新しい方法を、どうして誰も提示しなかったのか?
本当に家を必要とする人びとが、その権利を享受するのを妨害して、違法に証明書なしで公営住宅を占領する「たかり屋」に対する私たちの闘いについて誰も話さなったのか?
なぜこの行政が最も弱い人たちに割り当てた1,200以上の公営住宅について、誰も言及しようとしないのか?
社会政策や障害のある人を対象とした活動(彼らの交通機関利用のための予算は倍になった)に確保された、今までは確保していなかった数億ユーロという予算について誰も語ろうとはしないのか?
何十年もの間、地下鉄の整備をせず、新しいバスも購入しなかったことについて、どうして誰も何も言わなかったか?
なぜジプシーのキャンプを作り、キャンプそのものや近隣地区の住民から利益を得ていたのか?
おそらくこれら全てのことは、誰かにとって好都合だったからだろう。だから私は対立し、このシステムに反対した。
無能どころか、私は決心している。
かつてよりも、さらに決心している。剣を手に取り、守ります。なぜなら私はローマを愛しているから。

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7月の記者会見では、フラカーロ大臣は、イタリアがダイレクトデモクラシーの世界のベストプラクティスになると宣言していた。さらに9月のフォーラムでは、ダイレクトデモクラシーの改憲案を国会に提出したと表明、続いて登壇した副首相のルイジ・ディ・マイオが、ダイレクトデモクラシーの改憲と同時に国会議員を350人削減すると表明した。彼らは選挙で勝利すると同時にこれから第3共和国が始まると宣言したが、それはダイレクトデモクラシーの国に他ならない。

国民投票で王制を廃止したイタリア

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今回行われているイタリアの憲法改正について書く前に、その歴史的背景を知ることは大事だ。特に、第2次世界大戦で共に敗戦国となった日本とイタリアだが、たどった経緯は大きく違う。私たちが選択できたかもしれない歴史としてイタリアの歴史を見つめることは、固定観念から解放されるきっかけになるかもしれない。

第1次世界大戦に従軍したムッソリーニは、戦後の不況で社会不安が高まる中、復員軍人たちを巻き込んでファシズム運動を始めた。1919年の総選挙では当選者を出すことはできなかったが、21年にはファシズムに賛同する議員が5%ほどの議席を占めた。これを機にムッソリーニは、ファシズム運動を政党にする一方で、運動の私兵組織である黒シャツ隊を拡充し、クーデターの準備を進めた。黒シャツの由来は、当時の戦争は塹壕を拠点に戦うために、停滞しがちだったが、それを打開するための突撃歩兵、アルディーティ隊が黒い制服を着ていたことだ。退役軍人たちの中でももっとも勇猛果敢な人たちは、国家のための自己犠牲の象徴で、全体主義的な価値観を体現していた。シャツをシンボルにすることは、ヒトラーの突撃隊の褐色シャツに受け継がれる。

そして、翌22年10月29日、2万5千人の黒シャツ隊がローマに結集した。私兵たちの軍事行動に対して当時の左派内閣は戒厳令を発動して対抗しようとしたが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、その署名を拒否、逆にムッソリーニに組閣を命じることで、クーデターはすぐに無血で成立した。それから20年以上ムッソリーニは政権の座にあって独裁者としての地位を築き上げていくが、長いあいだ国王はその手腕を高く評価し、全幅の信頼を寄せて行動を支持した。そして、ナチスドイツが戦争を始め、西部戦線を開いてあっという間にフランスを占領するのを目の当たりにして、国王は、戦争に慎重だったムッソリーニより先に参戦を主張、イタリアは戦争に踏み切った。その後は、共に大元帥という肩書きで軍の統帥権を共有して戦争を遂行した。実は、日本の参戦もイタリアとほとんど同じで、フランスがナチスに制圧されたために、アジアのフランス植民地に権力の空白が生まれて、その絶好のチャンスにのって日本はベトナムに派兵、事実上占領した。しかし、その侵攻がアメリカとの関係を決定的に悪化させ、太平洋戦争に突入する。日本は、この戦争でアジアを解放するという大義をうたっても、実際には、ドイツの傀儡であるヴィシー政権の植民地政府とは協調し、ベトナム人によるベトナム政府をつくろうとはしなかった。

やがて戦況が悪化する中で、国王とムッソリーニの関係も次第に悪くなっていった。そして、1943年7月、連合軍がシチリアに上陸し、ローマが空襲されるにおよんで、国王はムッソリーニの解任動議に加担して辞任させた。次いで組閣を委ねたバドリオ政権に連合軍との休戦を託すが、王政の存続を確保しようとして、交渉は煮えきらないものとなった。そしてアイゼンアワーがイタリアの降伏を発表すると、軍になんら指示を出さないまま、すぐにローマを捨てて南部に逃げてしまう。これは多くの国民の怒りを買うこととなった。ナチスドイツがイタリア北部を占領し、連合軍の指示に従ってイタリア王国がそれに宣戦布告して内戦に突入、それに勝利したために、王制存続の可能性が残ったが、戦争が終わった時には、反ファシズムの勢力が大きくなっており、ずっとファシスト政権と共にあった国王に対する批判は激しくなり、王制の廃止を訴える意見も大きくなっていた。結局、戦後誕生した左右大連立内閣であるアルチーデ・デ・ガスペリ政権で、王制を存続するか共和制へ移行するかを国民投票で決することになった。投票は、憲法制定議会議員選挙と同日、1946年6月2日に行われた。国民投票の1ヶ月前には、国王は退位して息子に王位を譲り、王制存続の希望を託したが、結果は、廃止が過半数を超え、ここでイタリアは共和制に移行した。投票結果が僅差で、王制支持者からは異議申立てもあったが、政府は強制的にサヴォイア家を国外追放し、その後制定された憲法ではイタリアに入国することさえ禁じた。サヴォイア家はエジプトに亡命し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、程なくアレクサンドリアで病没、その地に葬られている。

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サヴォイア家は、ヨーロッパでも屈指に古い歴史をもち、長い間トリノを中心にフランスにまたがる一帯を領有してきた。フランス革命後のヨーロッパの混乱の中で、小さな国に分かれて大国の脅威にさらされるイタリアで統一運動が起こり出した。1848年の二月革命の余波でイタリアでも各地で民衆が蜂起する中で、ジュゼッペ・マッツィーニは共和主義によるイタリア統一を目指してローマ共和国をつくるが、フランス軍の介入で失敗した。その後、サヴォイア家が、強い圧力を受けていたオーストリアとの戦争に勝利したために、一挙に求心力をもった。イタリアの他の地域のほとんどは住民投票で圧倒的な支持を表明してサヴォイア家に合流していった。統一の英雄ガリバルディは、ブルボン朝の支配するシチリアに赤シャツ隊を率いて上陸して支配権を奪い、ナポリとあわせてサヴォイア家に献上した。こうして1861年にイタリア王国が誕生したが、そこからわずか85年で王制が幕を閉じることになった。
これと同じように、第1次世界大戦に参加した王家も、結果としてその地位を失っている。イタリア国王はその二の舞は避けようと策動したが、かなわなかった。

ロシアのニコライ2世は、汎スラブ主義を掲げて積極的に第一次世界大戦に参戦し、総動員令を出して自ら陣頭で指揮をとっていた。結局、多大な犠牲を出す中で、やがて首都ペトログラードで、食糧配給の改善を求めるデモに警官隊が発砲したことををきっかけに軍の兵士たちが反乱を起こし、政府の建物を襲撃、内閣は崩壊した。戦争の指揮をとっていたニコライ2世は騒乱を鎮圧しようとし、国会の解散も命じたものの、逆に議長は臨時政府をつくって、軍の支持を背景にニコライに退位を迫った。結局、それを受け入れざるをえず、300年続いたロマノフ王朝はそこで終わった。ニコライはそのまま数ヶ月監禁された後、家族全員がシベリアに流刑にされた。それからほどなく共産主義政府が誕生すると、監禁された館で一族が銃殺された。

ハプスブルク家のカール1世は、皇太子である伯父がサラエボで暗殺されたことをきっかけに、祖父の兄だった国王が開戦に踏み切った第一次世界大戦に直面する。戦時中に高齢の国王が死去して王位につくが、戦争で社会が疲弊して国民が食料不足にあえぐ現実の中で、秘密裏にオーストリア単独で休戦をしようと画策する。しかし、それが発覚して同盟国からの強い非難にさらされ、取り繕うための嘘の説明も暴かれて、オーストリア国内でも信用を失う。そして、1918年10月ドイツのヴィルヘルム2世の退位を受けて、オーストリア内の主要政党もカール1世に退位を要求した。カールは国事行為の断念を宣言してすぐに、シェーンブルン宮殿を離れて郊外の城に移るが、ニコライ同様の身の危険があるという首相の進言にしたがって、イギリス政府のサポートも受けてスイスに亡命した。財産はすべて共和国政府に没収された。そして、ハンガリーの政情不安の中で、何度かそこの王制復活を試みるがうまくいかず、これ以上の政治介入を望まないイギリス政府の進言によって、黒海に停泊していた軍艦で大西洋のマデイラ島に移送された。そこで貧困にあえぐ中、わずか5ヶ月後に34歳で病没している。第一次大戦では、この他にもドイツのホーエンツォレルン家、トルコのオスマン家も退位、亡命を余儀なくされ、以後、王制は廃止された。

王位は神がくれたものだと言って、王位の世襲を正当化し、領土争いに明け暮れた王たちは、やがて徴税権を担保に借金してまで領土の奪い合いを慢性的に続けた。それでも、機関銃が発明されるまでの戦争は、集団決闘のようなもので、兵士同士が殺しあって決着がつき、手柄の分配も可能だったろうが、やがて、兵器の殺傷能力が飛躍的に高まり、軍事同盟を結んで国を超えて全面戦争をする中で、戦争は誰にとっても、まったく割に合わず、ただ悲惨さだけが残るものになった。あいも変わらず安易に戦争を始める王たちは、最後は、その地位への執着の姿をさらし、結局、その地位の廃止に追い込まれていった。せっかく神から授かった地位なら、もっと国民のために賢明にその権限を行使することもできたろうが、そんな例を見つけることは簡単じゃない。あったのだろうか?

戦後イタリアのダイレクトデモクラシー

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ムッソリーニがローマ進軍によって政権の座に就いたのは、1922年10月だが、ヒトラーと違って、しばらくは連立政権を維持して他党とも融和的な政権運営をしていた。独裁を強めるきっかけとなったのは、野党第一党の党首が暗殺されたことだった。1924年6月、統一社会党の書記長・ジャコモ・マッテオッティが国会で激しくファシスト党を批判した直後、何者かに暗殺された。これに対して各党はアヴェンティーノ連合を形成、国会への出席拒否をした。アヴェンテーノはローマ7丘のひとつで、ローマ時代、平民が貴族に抗議してこの聖なる丘に立てこもった故事による。この運動は、国王や軍に支持されなかったためにすぐに勢いを失ったが、これをきっかけに翌年1月、ムッソリーニは国会で独裁を推進することを公言、ファシスト党独裁を推進し、他の政党は非合法化された。

それから20年近い歳月を経た1943年9月、連合軍のイタリア上陸でファシスト政権が崩壊すると、長い間非合法だった反ファシズムの政党は結集して「国民解放委員会」を結成する。そして、ムッソリーニの傀儡政権があってナチスが占領する北部でも、反ファシズム勢力はレジスタンスを展開した。ベッペ・グリッロの盟友でノーベル文学賞を受賞した劇作家のダリオ・フォも、この時、パルチザンの闘士で、政権側に捕らえられた経験がある。彼らは、ファシズムの流れを組むバドリオ政権に対して、当初は非協力的だった。そこにソ連に亡命していた共産党指導者のパルミーロ・トリアッティが帰国して、各勢力に歩み寄りを呼びかけることで、1944年4月、南部の都市サレルノでバドリオを首班として反ファシズム政党が加わっての国民統一政府が実現した。そして、直後の6月にローマを奪還した時、ローマを見捨てて逃げたバドリオは首相としてローマに戻ることはできなかった。首相になったのは、ムッソリーニのクーデター以前の首相で、その後反ファシズム運動をしてきたイヴァノエ・ボノーミだった。その後も1年近く内戦が続き、市民の犠牲を出す中で、最終的には、パルチザンたちが一斉蜂起して、北部のムッソリーニ政権を崩壊させ、イタリア全土をファシストの手から自分たちで解放した。北部の市民は、ムッソリーニの徴兵を拒否をして抵抗する人たちも少なくなかった。ムッソリーニは、最後はパルチザンに捕らえられて銃殺され、ミラノの広場に吊るされたが、国王のような汚名を浴びたくないと亡命を拒否したと言われている。そして、こうした経緯から、終戦時、敗戦国であってもイタリア政府は連合軍に対して強い発言権があった。

尚、トリアッティは、戦後の政権にも参加し、やがて彼の率いるイタリアの共産党は、議会主義にのっとり、党の綱領を変えて独裁や暴力革命を明確に否定することで国民の信頼をえて、西側世界の中では最大の勢力を誇った。もともとマルクスが考えたのは、格差社会の原因は、モノを生産する機能が私有されていることにあって、それを共有にすることが解決策ということだった。一方で、歴史とは階級闘争そのもので、やがて労働者階級が資本家階級を暴力で打ち破って、生産機能を労働者が独占することで理想社会が生まれるとした。暴力と独裁ありきの共産主義運動のなかで、イタリア共産党はそれとは違う道をはっきりと示した。結局、激化する東西冷戦とその後の共産圏の崩壊の中で、再び彼らが政権の座に就くことはなく終わってしまったが、独裁や暴力のない共産主義が実現していたら、それはどんな社会だったろうと想像するのは面白い。その独裁と暴力は世界に計り知れない被害をもたらした。やがて経済システムが変わっても、それでも独裁と暴力は残り続けている。

イタリアは、国の体制を国民投票によって決めただけでなく、まずは新しい社会の憲法をつくるために、王制廃止の国民投票と同時に、憲法制定議会の議員の選挙を行った。そこで、556名の議員が選ばれ、委員会での草案づくりが始まった。著名な憲法学者だったコスタンティーノ・モルターティは、キリスト教民主党から立候補して当選し、ここでダイレクトデモクラシーを提案して憲法み組み込まれた。イタリア憲法75条には、「50万人の有権者又は5つの州議会の要求があった場合には、法律又は法律の効力を有する行為の全部又は一部の廃止を決定するための国民投票が実施される」と規定されている。

2011年5月25日、日本の原発事故によって反原発の世論が高まる中、イタリア議会は、政府の原発再開の議論を凍結する法律をつくった。もともとチェルノブイリ事故をきっかけに、国民投票で原発を廃止していたイタリアだったが、電力需要の逼迫を理由に再開計画がもちあがっていた。この凍結は、国民投票を回避したいという与党の思惑があったと報道され、この動きに対して政党「価値あるイタリア」と市民運動「市民防衛運動」は、原発再開計画の完全放棄を求めて最高裁に国民投票を要求する。最高裁はこの要求を認めて6月12日と13日に国民投票が実施された。この国民投票に対して与党は自由投票を呼びかけ、野党は廃止に賛成を呼びかけたが、結果は、投票率が54.79%で有効投票率に達し、その中で廃止賛成が実に94.05%を占めた。日本の事故からわずか3ヵ月後、遠く離れたイタリアでは、国民の手によって原発計画があっさりと封印されてしまった。

モルターティの提案は、あくまで代議制を保管するものとして、既存の法律を国民が拒否する権利を与えるものだった。そして、その後、問題として残り続けるのが、50%という高い定足率だ。そもそも、法律の拒否の投票だから、政府にとって好ましいものはほとんどない。政治家は投票のボイコットを勧め、「ビーチで寝てよう」と公然と言う。国民投票が政党の政争の具に使われたり、例えば、政党助成金を国民投票で廃止しても、すぐに政治家たちが法律の名前を変えて復活させたりという状態だった。

ヨーロッパ評議会というのは、ストラスブールにある国際機関で、人権裁判所を核にデモクラシー、人権、法の支配の確立を推進している。その中にあるヴェニス委員会は、90年代、東欧諸国が新しく生まれ変わる中で民主的な法整備のサポートをするためにつくられた。この委員会は、レファレンダムに関する法整備についても提言している。定足率は、活動の活発な特定のマイノリティーがレファレンダムを乗っ取ることを防ぐために設定されるが、イタリアの国民投票のような高い定足率は社会に悪影響を及ぼすことが調査によって明らかとなっているので、ヴェニス委員会は、それを設定しないことを勧告している。それでも設定する場合には、可決成立の要件として、投票者の過半数に達した上で、その得票が全有権者の一定の低い比率に達することを承認投票率として設定することを勧めている。

イタリアのダイレクトデモクラシー改憲

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モンテチトーリオでのインタビューでフラカーロ氏は、「自分たちはたくさん勉強した」と言った。その上で、五つ星運動の到達目標としてダイレクトデモクラシーの導入を設定している。スイスやオレゴン、カリフォルニアでやっているのだから、自分たちができない理由はない。そして、それが実現したら、五つ星運動は終わるか、まったく別のものになるかどちらかだろうと明言している。カザレッジョ氏も著作で同じことを言っているので、それは全体のコンセンサスと言えるだろう。

今回、フラカーロ氏が提出したダイレクトデモクラシーに関する憲法改定案のメインは71条の改定だ。現行では、5万人の署名があれば、法律の提案が出来るという規定だが、その成立は国会に委ねるということになる。これは、一般的にはアジェンダ・イニシアチブというカテゴリーに入るが、イタリア社会であまり上手く機能していなかったようだ。今回の改正では、市民が提案する法案についてまず10万筆の署名を集めて、憲法裁判所の判断を仰ぐ。そこで、許可がおりれば、次は署名を50万筆集める。それから18ヶ月後にその賛否を問う国民投票が行われるが、その間、国会は市民の提案を審議し、立法化することも、代替案を出すこともできる。提案した市民たちは、国会の立法が満足なものであれば国民投票を取り下げても良いし、議会案と市民案を投票にかけることも可能になる。スイスで行われているやり方とほとんど一緒で、おそらくスイスでは期限が設定されていないものの、署名成立からおよそ2年かけて政府や議会が審議するので、イタリアはそれより若干短いのではないかと思う。何れにせよ提案した法律の決定権は国民がもつことになる。国民投票の定足率についてはスイス同様に廃止する。私が面談した時には条約も対象とすべきだと言っていたし、予算に関する提案も、必要資金の確保について一緒に提案することで可能にするというものだ。

フォーラムのレセプションで立ち話したところでは、超党派で広範な議論をして翌春にはある程度の結論が出るだろうと言っていた。面白いのは、イタリアの憲法改正は、上下両院の過半数があれば発議ができて、国民投票に付されるが、議会の2/3が賛成すれば、国民投票は不要でそのまま成立する。さらに、より慎重を期して3か月後に両院が再議決、都合4回の議決が必要だ。

その後、2019年の年初の新聞報道によると、政府内で、国民投票の定足率のことで隔たりがあってこう着状態が続いた。五つ星は定足率の廃止に強くこだわる一方、連立相手の同盟は33%を主張して平行線をたどっていた。しかし、年明けに五つ星は、国会で審議することを優先して定足率についても話し合うこととし、一方で同盟は33%を撤回して独自の修正案なしで協議することとなった。

コンテ首相は会見でいった。「過去に失敗して、1000人の国会議員とあまりにも弱い人びとの声を聞く手段をそのままにした過ちは犯さない。」イタリアの人口に占める国会議員の数や議員報酬は、EU内の他の国々に比べて突出していて、議員たちが自らの特権の削減に対して反対できる空気ではない。

五つ星の提案に対して、ベルルスコーニのフォルツァ・イタリアは、代議制民主主義への正面攻撃で「悲劇」であり、西側民主主義を弱体化させて、議会とは無関係に法律をつくる一握りの署名集めの専門家たちに乗っ取られると言って反対している。民主党は、2017年にレンツィ政権が国民投票で否決された案は、直近選挙の投票者の半分を定足としたが、今回は、25%を上限とし、国民投票の除外項目は、憲法内の基本的人権、税法、予算法、恩赦と国際条約。その他の提案としては、市民の提案に国会が代替法を出した場合、次に憲法裁判所の判断を加えたり、署名数を70万や100万に増やしたり、議会の検討期間を18ヶ月から24や30に伸ばしたりといったものだ。明確に反対している勢力は多くないので、数字についてのリーズナブルな妥協点を見出して2/3の賛成を得ることは十分あり得るだろう。

その後、まずは345人の議員定数の削減の審議が先に進んだ。イタリアでは議員定数の変更も憲法改正が必要だが、順調に審議は進んで上・下両院ともに2/3以上の賛成を得た。それから3ヶ月経過して、再決議を行う過程で、政争が起こった。連立政権のパートナーだった極右政党・同盟が、移民排斥の政策を推し進めて社会が騒然となる中で支持率を大きく伸ばし、一方で、それに対して決然とした態度を取れない五つ星は大きく支持を落とした。欧州議会選挙での同盟の躍進の後、党首のサルヴィーニは、コンテ政権への不信任を表明し、連立内閣は崩壊した。しかし、ここで同盟の思惑は外れて総選挙は回避され、民間から招聘された大学教授のコンテ首相が続投し、五つ星運動と民主党の連立政権が発足した。その後、あと1回だった議員定数削減の採決が行われ、過半数は確保したもの2/3に届かなかった採決が1度あったために、国民投票に付されることになる。その後、ダイレクトデモクラシーの改憲については、民主党と再調整してから審議が始まるだろう。

ベッペ・グリッロの来日


戦士とういうことば

僕らは出口を探していた
囚人だった
暗く閉ざされた何もない部屋にいた
どうしようもないと思っていたんだ
窓も扉も閉ざされていると思っていた
出口はどこにもなかった
そのうちあふれ出るものを感じたんだ
考えや言葉の洪水だった
どこから来たのかわからなかった
内側から来たのか 外から来たのか
ネット上か 広場からきたのか
それは平和の言葉だった
平和の言葉
でも同時に戦士という言葉だった
それを暗闇を照らす灯りにした
他の場所へ行く扉を開ける鍵にした
そこは知らない場所だった どこだ?
僕らの方だった
僕ら自身の方だった
今 僕らは外に出た
まだ光に慣れなくて目を固くつぶっている
怖いとも感じている
ちょっと臆病で
自然なことだけど
たったひとつだけ可能な道を走ろうとしてるから
今イタリアに起ころうとしていることは
近代デモクラシーの歴史で 一度も起こったことがないことだ
民主的な革命
非暴力で権力を根絶する
ピラミッドをひっくり返す
普通の市民が
たったの3年で国会議員になったんだよ
僕らの扉を閉じていたのは
僕ら自身だったということに気づいたんだ
戦士という言葉は僕らの内にあるだけだと思っていた
外側には出ていかないと思っていた
実はたくさんの人たちが同じ気持ちだったんだ
今 僕らは驚いている
全然知らない人たちが自分たちと同じだった
同じ考え 同じ希望 同じ不安を持っていた
僕らは互いに知り合うことになり
この戦士という言葉
戦士
長い間捨て去られていた言葉を分かち合った
その言葉が強力な武器となったんだ
すべてを変えるためにその言葉を使った
つくられた現実をひっくり返す
金融 経済 嘘と真実 専制と民主主義
戦士という言葉は新しい響きだけど
古代から使われた言葉でもある
コミュニティという言葉や
正直さ 参加 団結 サスティナビリティ
雷の波となってあらゆるところに広まった
古い政治を全滅させる
僕らは現実を知っている
自分たちの頑張りだけにかかっていることも
この国が瓦礫だということも
とても難しい時代がまっていることも
緊張 問題 葛藤があるだろう
でも進む道は決まっている



秘書のメールアドレスを入手してコンタクトを始めた。あいにくローマで会えなかったので日本からスカイプで話したら、本人はもとより2人の秘書も日本行きに心を踊らせているようすだった。しかし、なかなかスケジュールがあわずに、2度延期せざるをえなかった。そして、来日が実現したのは、2019年4月だった。

羽田空港の到着ロビーで待った。飛行機が到着してもなかなかゲートから現れない、本当に来るのか、信じられない気持ちで、なぜか不安で、ずっと胸が高鳴っていた。そのうち同じ飛行機から降りてきたヨーロッパ系の人がたくさん出てきたのに、本人は一向に現れない、不安が高まってきた頃、ゲートに写真と動画で見慣れた白髪の男がコミカルな眼鏡をかけて現れた。少しあたりを見わたしてから私たちに近づいてきて、大げさな身振り手振りで、何かのパフォーマンスのようなあいさつをした。

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事前にいろんな滞在プランを検討したが、秘書によると、本人は「とにかくイノベーションにしか興味がない人」とのことだった。結局、およそ1週間の滞在中、東京の1つのホテルに滞在し、講演会と最小限の取材以外は、関心がありそうなテクノロジーの視察をいくつか入れて、ゆっくりしたスケジュールを組んだ。お陰で多くの時間を一緒に過ごし、たくさん話をすることができた。

あらためてベッペ・グリッロ。

一言で言えばデモクラシーのイノベーターだろう。本人は、お金をかけずに政権を取ったの歴史上初めてに違いないと言っていたが、歴史上初めて、暴力ではなく、デモクラシーの手法で革命を起こした人とも言えるかもしれない。まだ途上ではあるが。

来日に合わせて、日本の人になるべくその存在を知ってもらいたいと、著作を翻訳しだした。あいにく来日が急に決まって出版は間に合わなかったが、お陰で、グリッロに対する知見が広がった。

1986年、誰もが政治家の汚職を知ってるのに、誰もそれに触れないイタリア。グリッロは国営放送の番組出演の際に、近く予定されていた原発の国民投票については決して触れるなと事前に放送局側から言われた。でも、彼はそのことを確信犯で生放送で話した。それだけじゃなくて、「中国の共産主義者は(国民から)いろいろ奪っているようだけど、イタリアの社会主義者は何を奪っているんだ?」と軽く茶化すように言った。その瞬間、ディレクターはヘッドセットを床に叩きつけて、スタジオを去った。スタジオは騒然とするけど、ベッペはキョトンとするだけだった。そして、ベッペの発言を知った首相のクラクシは、「社会主義者への冒涜だ」とマスメディアを通して声を荒げた。

ベッペは、ひとりでとぼとぼとホテルに戻った。部屋に案内してくれたポーターがベッペをハグして「よく言ってくれた、ありがとう」という。
翌朝、マネージャーから電話があって「これがクラクシの電話番号、謝れ!謝れ!」と怒鳴られたけど、ベッペは言う。
「うるさい!そんなことしたら、俺が俺じゃなくなる」


それから何年かして、クラクシは汚職の捜査の手がのび、国外逃亡して、そのまま海外で亡くなる。ベッペは、ただ自分に正直なだけだった。クラクシによってテレビを追放されたことを国民は知っていたから、結果的に、ベッペは英雄になった。彼は私のインタビューで話した。「私は何気なく茶化しただけだった。クラクシが過剰反応しなかったら、今でもテレビに出ていたかもしれない」。

彼は、そこでテレビをきっぱりと捨てて、各地でショーをやったが、どこでもたくさんの人が押しかけた。そこで、単に風刺で観客を笑わせるだけじゃなく、環境やテクノロジーや新しい社会システムの話をして、徐々に国民が目覚めていった。テレビに出て欲しいと言われても、興味がもてなく、最低限の付合いに留めているが、それでも出演したら圧倒的な視聴率をたたき出した。
「一見、自分にとって失敗と思えることでも、長い目で見ればそうじゃないかもしれない。そういうものだ」と言った。でも、一見危機と思うことを引き起こしても、やがて大きく好転することが無意識でわかっていたから、まっすぐな選択ができたに違いない。

2005年、ITエンジニアのジャンロベルト・カザレッジョの勧めでブログを始めると、あっという間に巨大なアクセスを集め、2009年には、オブザーバー誌が、世界で9番目に影響力のあるブログと位置づける。2人は、ともにキャリアのピークにある中で、本当に世の中にとって大事なことを無償でやろうと言って、まずはブログを始めた。インタビュー中「ゼロからコツコツ積み重ねたんだ」といったのは、運動に対する取り組む姿勢を一番端的にあらわしているだろう。グリッロはジェノヴァに住み、カザレッジョのオフィスはミラノにある。2人は1日で5,6回電話でやりとりを重ねて投稿をつくった。

「ジャンロベルトは要約して、私が分析する。話して話して話して...すべては対面と対話からやってくる」
「少し前に、私たちのブログの言葉の疑似科学的な分析が行われ、5つの違ったパーソナリティがあることが発見された。5人の別々の作者!」
風刺、政治や社会問題、他のコンセプトもすべて違うスタイルで書かれ、7つの頭をもった作家とも評された。

ある時ベッペはブログで呼びかけた。「地域で集まって身近な問題を話し合って、その解決策を提案しようよ」。ミートアップというアプリを利用して各地で実際に人びとが集って話し合うようになった。彼らは、話し合い、解決策を見いだして、それを政治家にもっていくが、残念ながら、政治家たちはことごとくそれを無視する。ダイレクトデモクラシー的な手法で打開しようと、2007年と8年には、Vデーという大規模な集会を行った。そこで「議員の任期は2期に制限」「報道の自由の確保」などを訴え、ノーベル賞受賞者のムハマド・ユヌス、ジョセフ・スティグリッツ、ダリオ・フォらがスピーチし、100万以上の署名を集めて国会に提出した。それでも、政治家たちは変わらず無視を続けた。

そこで、2009年10月4日、聖フランチェスコの記念日に、五つ星運動を始めて、自分たちの提案する法を実現するために、政治活動を行い、選挙に出るようになる。まずは、地方選挙から徐々に参画した。初めて参加したシチリアの地方選挙では、キャンペーンとしてベッペが数ヶ月前から、半島との間の海峡を泳いで渡るパフォーマンスを何度もやった。海峡の真ん中では海流の影響で水温が極端に下がり、かなり過酷なパフォーマンスだった。毛沢東が写真撮影のために川で何ストロークか泳いで見せたのとはまったく違うといっている。
それから、2013年に初めて国政選挙に挑戦、いきなり第2党に踊りでて、社会を変えたいという普通の若者たちが大勢国会議員になった。そして、とうとう次の2018年3月の総選挙では、34%の得票を得て第1党となり政権を獲得した。

滞在中驚いたことの1つは、マスメディアに対する姿勢だ。ベッペは、「マスメディアは大事な情報を伝えないために存在する」と言い切って、原則取材には応じない。自身がマスメディアに匹敵する媒体をもっていて、伝えたいことはそこで伝えれば十分と考えている。日本では、戦時中に対戦国が日本国民向けに流したラジオ放送を聞こえないようにするために、放送局が妨害電波を流していた。戦時中じゃなくても、基本的に役割は変わらず、無駄な情報、歪曲された情報の洪水に人びとを常にさらすことで、大事なことへの分別を失わせ、思考力を奪う。だから、マスメディアと接点をもたないことが大事だとベッペは考えている。

リカルド氏は、「ベッペは50年先のことが見えているような人」と言っていたが、自身でも常に30年先のことを考えて提言していると話していた。日本人がもつコメディアンという言葉のイメージとはおよそかけ離れた人で、その知見の広さと深さには接した誰もが驚いたようだ。常に社会を俯瞰していて独自の視点で話をする。五つ星運動は左派のポピュリズムとマスメディアはレッテルをはるが、彼らにそういう意識はもちろんない。何かの反対運動にアイディンティティを見出す人たちは、反対する対象がなくなると、別の反対できるものを探す。自分たちは、そういう存在ではない。資本主義社会そのものも俯瞰していて、「人は本来、幸せならものを買わない」とも強調していた。極端なストレスを人に与えることで、消費社会が生まれているとみている。社会におけるアイロニーの大事さについても話していた。例えば、ギリシャでは今だに武装組織をもった政党がある。戦後しばらくしても、イタリアでも凄惨なテロリズムが横行する時代があったが、社会のストレスのはけ口が暴力に向かわないために、理不尽な境遇を笑い飛ばす文化はとても大事で、その部分を彼は担っている。

ベッペの笑いは、ステージ用につくられたものでなく、生まれもったものをそのまま出したら、笑いになっていたという感じだ。どこにいても、独特の身振り手振りで、一緒にいる人とのやり取りでいつでも笑いが起こる。好奇心をもって周囲を見つめて、独特の反応をおこす。彼がいる場所はいつも笑いの舞台のようだ。マスクをかぶって黙々と無表情に歩く日本人をみて、コンビニに行ってマスクを買って、人混みに混じって真似をして、その映像をフェイスブックから発信していた。他人との境界線がほとんどないようで、視察先でも、お別れに受け入れてくれた人たちみんなとハグをする。秘書たちとは親子以上に年の差があるが、上下関係がまったく感じられず、いつも腕を組んで歩いている。秘書の権限は大きく、楽しみながら対等に大事なミッションを遂行しているという意識が感じられる。

五つ星運動でベッペは、この社会を変えたいという若者たちのサポートに徹し、彼らがイタリアの閣僚の半分をしめた今、自分が正面にたって活動する必要はない。でも、日本滞在中も、閣僚たちからは絶えず電話がかかってきている様子だったし、視察や取材、講演の合間に日本と関係ないブログの投稿も出していて、本当によく仕事をしていた。観光にこれほど興味をもたない人たちは本当に珍しいとは同行した通訳の感想だ。

また、講演会で、一番大事な政策は何かという問いに対して、即座にベーシックインカムと答えていた。それは、社会のあらゆる側面に影響して、大きく変えるからだと。エノ・シュミット氏はベッペの依頼に応じてイタリアで面談していているが、以来、ベッペはシュミット氏のドキュメンタリー映画を機会があるたびに見るべきだと紹介している。面談の際、シュミット氏は「一緒にフランチェスコ法王にベーシックインカムのプレゼンテーションに行こう」と提案したが、それはまだ実現していない。五つ星運動は、イタリアへのダイレクトデモクラシーの導入と同じくらいに「貧困のない社会」を活動目標に掲げている。そのための最重要政策がベーシックインカムで、政権誕生から早い段階で、すべての人に月額760ユーロの所得保証を導入、それをベーシックインカムと呼んでいる。これは自治体が窓口となり、所得が満たない人へ充当しながら、そこの地域に必要な作業へのボランティア参加が義務付けらる。無条件一律支給ではないが、貧困の克服には大切な一歩で、EUが何度も財政規律を見直すようにと勧告しても、それを拒否して赤字容認で国債を発行して実現させた。

欧州のマスメディアが伝えるベッペ・グリッロのイメージは、危険なポピュリズムの煽動家というものだろう。現実は、まったく違う。

最後に、ホテルで空港までのタクシーを手配して、見送った。ハグをして、「スイスに来るときは、ジェノヴァに立ち寄れよ、家族によろしくね」と言葉を残して。

ホテルの部屋が狭くて本当に申し訳ないと何度も謝ったが、本人は、5泊した部屋、最後はとても名残惜しくなって、次に来るときも同じところがいいと言ってるそうだ。

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