研究データを見るときに有意差があるか否かは大切なのか【シン・15日目】

先に記述しておきますが,本文章において「有意差が大事であるかどうか」や「有意差がどういうもので,どう解釈すべきか」みたいなことを議論したいわけではありません
とある,Twitterのやり取りを見て,かつ,自分自身がこれまでに研究データを見てきて思うことを書いて行きます (この内容が正しいとか間違っているとかの批評を受けたいわけでもない)

さて,やっていきましょう
私が注目して見されて頂いているある有名なトレーナーさんが,ある研究結果を用いて文章を書かれておられました
その文章を見た,その分野の専門性のある方が,その文章について指摘をされていました
簡単に書くとその文章内のある部分に関して「その記述内容は不適切では?」ということでした

で,その文章が不適切であるか否か,に関連して「統計的に有意差がない」という言葉が出てきます

研究者と論文が読める現場メインの方で,有意差があるか否かが発端となって議論が白熱することがあるように感じています
色々な研究結果を見てみると,明らかに条件間に「差」がありそうなのに「統計的」な有意差がない,ということが認められます

条件間に「差」がありそうなのに「統計的」な有意差がない,簡単に言うとAグループの平均値が10で,Bグループの平均値が20で,どうみたってBのほうが効果がありそうやん! (本当は複雑ですが,かなり簡単に書いてみている) と見えるのに「統計処理」を行うと,「有意な差ではないよ」と言われてしまって,「意味のある差ではないよ」と示されてしまうことがあるんですね

このような結果になる要因は様々あると思いますが今回は割愛

私自身,このような研究結果になったことはそれなりにありますし,研究実施者として,統計で有意差が出ていないから意味のないデータなのか?と考えたこともあります

あくまでも私自身の考えとして,「意味がありそうな差」があるデータに対して,統計処理を行い「意味がない差だよ」と言われても,そのデータの考察をそこでやめてしまうのはもったいないと思っています
「意味がない差」が「統計処理」によって示されたとしても,「差」が見えている (棒グラフの長さが明らかに違うとか,推移が明らかにことなっているとか) ことは確かなわけで,それを支えるような論拠をたくさん当たるということが大切なのだろうと思います

確かに,文章において,「意味のない差」を「意味のある差」として記すことは絶対にあってはならないと思います
ですが,「意味のない差」を「意味があるかもしれない差」として議論していくことは間違いではないように思っています
このあたりは研究者や論文を読める現場の方の倫理観なのかもしれません

駄文となってしまいましたが,なんとなくつらつらと思ったことを書いてみました

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