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シュレディンガーのぬい

家にひとつ、ぬいぐるみが増えた。
増えてしまった。

別にぬいぐるみが嫌いという訳ではないが、あまり多くは持ちたくない。でも、今回のは貰い物なので無下にはできない。
サンダルを玄関に置くように、麦茶を冷蔵庫に入れるように、ぬいぐるみの置き場は枕元と相場が決まっている。柔らかいものは柔らかい場所に。その日は枕元に新入りのぬいぐるみを置いて眠った。
翌朝ベッドから起きると、新入りはフローリングの上にこてんと転がっていた。それを受けて、ぱたぱたとドミノ倒しのように幼少期の感覚が蘇る。

私にとって、ぬいぐるみとは物体と生命の間にある存在に思えてならない。増やしたくないのもそのためだ。動物でいうところの終生飼育に自信がない。十年または二十余年ほどの付き合いがある、いま持っている数体だけで手一杯なのだ。

こう考えるのは、子供の頃から生き生きと動くおもちゃ達の物語に親しんできたせいだろうか。
映画なら『トイ・ストーリー』シリーズ、絵本なら『フェリックスの手紙』シリーズ、児童文学なら『ぬいぐるみ団オドキンズ』などが好きだった。(ちなみに『チャイルド・プレイ』は苦手)
幼少期もまた、目覚めると枕元から離れた場所にあるぬいぐるみを見て「夜中に動いていたのかな」と自然に考えていたものだ。

実際、そうでない保証はどこにもない。
大人になった私は、床に転がった新入りを拾い上げ有名な哲学の問いを思い出す。このぬいぐるみには、夜中に生き生きと動いていた状態と私の寝相でベッドから落ちた状態とが重なり合っている。

そんなの、観測するまでもない話だ。
来たばかりでルールを知らない新入りに「動くなら朝までには戻っておくんだよ」と脳内で語りかけ、枕元に戻してやった。

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