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まにまに揺蕩う

 まるで感覚が薄れるようだ。すーっと力が抜けて、沈んでいく気がする。アスファルトの地面は水面のように波打ち、一歩進むごとに足が無くなっていく。なんと不思議な体験だろう。私は楽しくなって、どんどん歩みを進めた。
「そっから先は戻れなくなるぞ」
 ムッとした声に振り向くと、顔の無い人物がこちらを見下ろしていた。男とも女ともわからない声、体格。肌は雪のように白く、顔は塗りつぶされたかのように影が落ちている。作業着の濃紺とキャスケットから揺れる栗色以外は色彩がない。なんとも奇妙な人物だった。
「いいのか?」
 再び声をかけられて、波打つ地面がかなり近いことに気づく。私の体は、既に腰の辺りまで沈んでいた。私は一度振り返り、一つ頷くと再び歩みを進めた。その人がなぜ止めるのか、多少は不思議に思った。しかし、私は足を止めるのをやめられなかった。この感覚をもう少し味わっていたかったのだ。
「残念だったな、お前はもう……」

 その声と共ににトプン、と音がした。 

 
 あたり一面夜空だった。上も下も横も、星が瞬いている。幻想的な空間の中。ただ、暖かな水の中にいる感覚だけがある。星々はとても遠く、すぐには手が届かない。歩いて、泳いで、とりあえず動き回ったら星に出会えるだろうか。広い空間の中、どこまでも動き回れそうな気がした。けれども、私はその場で目を閉じた。今はただ、この心地良さに身を任せていたい。

 あれからずっとここで浮かんでいる。たまに足らしきものが見えたり、通過していく人が見えたり。飽きもせずそれらを眺めては寝起きを繰り返す日々だ。朝も夜もないので、日時の感覚などは無いのだけれども。通過していく人の数を数えたりもしてみたが、眺めるのが楽しくて、つい数えるのを忘れてしまう。今ので三十ぐらいだったかなか、と悩むのを数回繰り返し、数えるのをやめた。

 永遠とも思える時間だが、少しずつ変わりゆく景色を好きな時に好きなように眺めるだけの日々。あの人は「残念」と言ったけど、不思議なことに私は今とても幸せなのだ。

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