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白雪美香は彼氏ができない!_第3話

↓ 第2話


8 青ひげペローは一目惚れする!

青ひげペローの婚活日記_博多人形との出会い編

今回は合コンなり。
大学時代の知人、いや友人に誘われて合コンに参加した。友人である彼は、一言で言うと、モテる。消防隊員であり、爽やか。上背もあり、筋肉質、歯も白い。

「お前にどうしても来てほしい合コンがあるんだ」と書かれた彼の誘いのメールを見た時、私は懐疑心を抱いた。イタズラ半分に私を合コンに呼び出し、もしかして私をネタに笑いを取ろうとしているのではないかと。その手の仕打ちを彼からではないものの、過去に受けたことがあったので、私が疑いの目を向けるのは当然のことだ。引き立て役に、と言われた方がよっぽど信頼できる。

話をよくよく聞いてみると、今回の女性のメンツの中に、彼曰く彼のようなタイプに興味がなく、私のような女慣れしていないタイプが好きな女性がいるとのこと。猜疑心に駆られたが、彼のどうしてもという強い熱望により私は合コンへの参加を決意した。

結果としては、彼の言うことが正しかった。
彼が信頼のおける奴であることが実証された。もし、我が家が火事になるようなことがあれば、すぐさま彼に連絡をして彼に消火活動をしてもらいたい。そう思えるくらいに、私の彼への信頼は広辞苑ごとく分厚くなった。中身も厚さもペラペラの「女性にモテる秘訣」と書かれた、かつての私の愛読書レベルの薄っぺらい信頼が、見事に厚くなった瞬間だった。

「女慣れしていないタイプ」と認定されているのは婚活をして複数の女性とやり取りをしている私には少し心外ではあるが、彼の友人の中では女慣れしていない唯一の友人であるとのことだった。心外ではあるものの、婚活中の身であり、せっかくの機会を逃すわけにはいかない。チャンスの女神様は前髪しかないのだから、この機を逃せば私のようなタイプに興味を持ってくれる人は出会えないかもしれない。

一張羅を着ていくべきか否かと私は悩んだ。こなれた服装を着ていくと、女慣れしていると思われるかもしれない。ガツガツしている印象を与えたくないと思った私は、あえて普段のやる気のない格好で行くことにした。合コンに気合いを入れていないと言うことは、女性への興味が薄い、つまりは女性慣れしていないと言うことになるのではないかと。

その日の夕方、仕事でトラブルがあり、私は開始時刻より遅れて参加することとなった。本当であれば、しっかり髭を剃って参加したかったのだが、時間もなくあえなく断念。服装はさておいても、青ひげだけは対処しておきたいという気持ちはあった。とはいえ、髭をしっかり剃った状態で合コンに臨み、もしうまく行ったとしても、きっと青髭が生えた状態を見られた時に幻滅される可能性も否めない。

私は信念を持って、夕方の青ひげをアピールすべく髭を剃らずに遅刻した。

女性は四人。三人は美しい女性たちだった。アラサーということだったが、肌にハリもありエネルギーに満ち溢れ、実年齢より若く見えた。その中の一名は歩く博多人形の異名を持つ人物ということで、その名に恥じない陶器のように美しい肌の持ち主であった。顔も極めて品のある美しさ。私は一目見た瞬間に、恋に落ちてしまった。彼女を見て恋心を抱かない男がいたら教えて欲しい。

4人の中に美しい女性たちとは一線を画す、毛色の違う女性がいた。言語化するのが困難ではあるが、雪見だいふくを擬人化したような女性だった。ふくよかというか、若干だらしないような。肌自体は雪見だいふくのようにもっちりしたおもちちゃん。しかし、体は少し温度が上がれば溶けてだらしなくなってしまいそうな印象を受けた。

これを好む男性もいるだろうが、私としては自己管理がなっていないとしか思えない。遊び程度なら問題ないが、結婚となると自己管理もできない女性では先行きが不安である。彼女が年齢的には一番若く、子を持つなら若い女性がより望ましいということは承知ではあるが、不摂生が祟って肥満傾向にある女性であれば、様々な面でリスクが生じる可能性がある。そう考えるとやはり彼女は減点。

それに彼女はSNSで自分のプライベートをペラペラと喋っている口の軽い人間であることが判明。帰宅後、興味本位でちょっと調べただけで、雪見だいふくのSNSをすぐに特定できてしまった。青ひげに関する記述を見かけたが、ネガティブキャンペーンをしているわけではなかったので、処罰の対象とはならない。あまりにあけすけすぎるところは反省をした方がいいと思う。

彼女は私のnoteの読者であるようなので、これを読んだら是が非でも反省をしてほしい。上記に記載した内容は私の本心である。

余計なお世話だと思われるかもしれないが、合コンで彼氏を作りたいと思っているのであれば、もう少し積極的に行動すべきだ。飲食が目当てであれば問題ないのだが、過去の投稿内容を見ていると大福(SNSのアカウント名まま)は彼氏がほしいのだろうという印象を受けた。もちろん、そのままの自分を受け入れてほしいという気持ちもわからなくない。

けれど、大福、君の場合、不摂生が問題だ。体型というのは、自己管理によるものなので、私の青ひげと違って悪い印象を与えてしまう。君のよく食べよく飲む印象は悪くないし、むしろ好感が持てる。

問題は体型のみではないか。まだ若いのだから、諦めず頑張ってほしい。大福、君にも春が来ますように!

偉そうに語ってしまった。少しばかり彼女のSNSを見て、共感を覚える部分があったからかもしれない。彼女の今後の幸せを祈りたくなるくらいに私は今幸せなのだ。

私にも春が来るのだ。いや、もう春は来ている。今は初夏だが、遅ればせながら私にも春がやってきた。チャンスの女神様の前髪を私は掴むことができたのだ。あの美しき歩く博多人形が私に興味を示したのだ。これは奇跡だ。

私はチャンスを逃すわけにはいかない!


9 白雪美香はダイエットを決意する! 


「なんか悔しい!」
ユキミはチョコの部屋で、足をチヨコに押さえてもらいながら腹筋の真っ最中だ。分厚い脂肪の下に隠れ切った腹筋は、仕事をするそぶりを微塵も見せない。ユキミの腹筋は、ユキミの腹を持ち上げる気力なく脂肪の布団の下で眠りについている。冬眠中の腹筋を叩き起こそうとユキミはなんとか体を持ち上げようとするが、全く起きる様子のない腹筋。次第にユキミの体はプルプルと小刻みに震え始めていた。

一方で、ユキミの足の上に座っているチョコは自分のスマートフォンで、今朝更新された『青ひげペローの婚活日記』を読みながら、笑いを噛み殺している。ユキミ同様にチョコの肩が小刻みに震え始め、堪えきれなくなったチョコは力なくその場に倒れ込んだ。

「ある意味公開処刑やな。しかも応援されとるし!」
チョコはゲラゲラと笑い転げ、床に突っ伏した。

「けど、まじで実在したんやね、ペロー」
息も絶え絶えにチョコは言う。チョコの目には涙が滲んでいる。

「やね! しかし、ペロペロリンのせいで急にフォロワーが増えるし、しかも『がんばれー』とか『おもちちゃん、応援してるよ!』とか応援メッセージがガンガン届くんやけど。嬉しいけどまじでウザい」
ユキミは完全に憤慨した様子で、小鼻を広げ、鼻息を噴射した。こっちがバカにしていると思っていた相手にバカにされた感があって、なんだか無性に腹が立った。痩せなくてもいいかな、と思っていたが、ユキミは絶対に痩せてやると奮起した。きっかけを作ってくれたペロりんちょに感謝しなくてはいけないとは思った。

昨日はお酒を飲んでいて、冷静に考えることができず取り留めのないことばかりを考えてしまった。冷静になってよく考えてみると、実際に対面した青ひげに人殺しの雰囲気は全く感じられなかった。「即刻処刑対象」というのは殺人を指すのではなく、こうやってネット上で晒すということなのかもしれない。普通に考えて、フラれて青ひげをディスられたからって、人殺しをするわけがない。それこそ童話の世界やファンタジーの世界観だ。酔っ払った自分の思考にアホらしさを感じた。

しかし、まさか百合がペロリアン推しだとは思いもしなかった。合コンの様子を思い返そうとしたが、全然そんな気配があるとは気づかなかった。思い出すのは青田次郎の青ひげが濃かったことと、美味しいイタリアン料理。本当にどの料理も美味しくて、さすが百合さんだなとユキミは思った。百合がプライベートでどんな生活をしているのか全く知らないが、百合は美味しいお店もたくさん知っているし、所作も美しい。いかにもお金持ちと言った優雅さがあるし、持っているものも着ているものもさりげなく品のいいものであることにユキミも気づいていた。

もしかして、あの美しさを活用してパパ活をしているのかもしれないな、とユキミは思う。それならば納得だ。

そんな百合はこともあろうにペローこと青田次郎に興味が湧いたようだった。信じられないが、いろんな人と付き合った結果、新しいジャンルへ手を出そうということなのだろうか。

一次会終了後、お腹いっぱいのユキミはすぐに家路へと着いたが、そういえば百合とペローはどこかへ消えて行ったような気がしなくもない。消防隊員3人と撫子と牡丹はカラオケへ行こうと盛り上がっていたが、あの二人は一体どこへ向かったのだろうか。

「この歩く博多人形って、ユキミと同じ職場の百合さんのこと?」
「多分、そうやと思う」
ユキミはこくんと頷いた。

「ペローめっちゃテンションあがっとるやん!」
「まあ、そりゃそうやろ。百合さんマジで綺麗やけん。ちょっと信じられんけどな~。月曜日仕事に行ったら、聞いてみよ」
ユキミはグググと体を起き上がらせた。

「それよりユキミ、今回はダイエット本気なん?」
「今回はゼッタイ痩せる!」

「やる気やねぇ。その調子! 恋は女を変えるってほんとやね、頑張れユキミ! 骨は拾ってやる!」
チョコはパンっとユキミの背中を叩いた。

なぜ骨を拾う前提なのだろうか、とユキミは思わざるを得ない。



10 白雪美香は思わず焦る!


薄暗い室内。漏れる吐息。
昼間だというのにカーテンを閉め切った部屋の中には、しっとりとした空気が立ち込めている。ほんのりと甘い香りがユキミの鼻をくすぐった。

「あ、そこ……」
ユキミの口から思わずこぼれた言葉に、琥太郎は嬉しそうに優しい笑みを浮かべる。
「気持ちいい? 美香ちゃん」
「めちゃくちゃ気持ちがいいです。やばい。どハマりしそう……。あ……」
ユキミが息を漏らすのを耳にして、ふっと軽く笑った琥太郎は、じんわりとユキミに体重をかける。体重をかけられたユキミは脱力したまま琥太郎を受け止めた。

「肩甲骨の周りもガッチガチだね」
琥太郎は親指に力を込めて、ユキミの背中の肩甲骨と背骨の隙間をほぐしていく。デスクワークのユキミの肩と背中は予想以上に凝り固まっていて、琥太郎のマッサージも自然と力が入った。もみ返しの可能性を考えるとあまり強くしすぎないほうがいいことは琥太郎ももちろんわかっているが、あまりの凝り具合にほぐしたいという欲がむくむくと湧き上がってくるのを琥太郎は感じていた。

「そんなとこまで凝ってるなんて気づかなかったです」
一方でユキミは、初めての全身マッサージを楽しんでいた。気を抜いたらすぐに眠りに落ちてしまいそうなほど気持ちがいい。自分では届かない背中や腰をマッサージしてもらうことが、こんなにも気持ちいいとは。初めての体験にユキミは幸せを噛み締める。

しかも、マッサージをしてくれているのが、爽やかイケメンの琥太郎というのもいい。初めは琥太郎に体を触られることに胸が高鳴り、緊張もした。しかし、それがすぐに失礼だと気づくくらいに琥太郎のマッサージは気持ちが良かった。

この気持ちよさのまま眠ってしまいたいという気持ちもあったが、眠ってしまってはこの気持ちのいい体験を覚えていられない。それはあまりに勿体無いと、ユキミは眠りにつかないように琥太郎に声をかける。

「昨日、実は合コンに行ったんですよ」
ユキミは琥太郎が合コンという単語に動揺してくれないかな、と少しだけ期待した。脈があるかどうかが、この単語で判断できるかもしれないと。しかし、琥太郎に動揺の様子は見えず、しっかりとマッサージに集中している。もちろん仕事中だし、高いお金を払ってマッサージをしてもらっているのでありがたいことだが、ユキミは少しばかり残念な気がした。

「そうなの? どうだった合コン? いい人いた?」
「いや、それがですね。めっちゃびっくりしたことがあって!」
ユキミは青田次郎のことを思い出して、少し声が大きくなった。ユキミのテンションの上がり方に少し興味が湧いたのか、琥太郎は何々? と前のめりになる。

「青ひげペローがいたんです」
「青ひげペロー? 誰それ」

琥太郎の声が少し怪訝なものに変わった。琥太郎は青ひげペローの婚活日記を知らないのか、と思い、ユキミは青ひげペローのことと経緯を簡単に説明した。

婚活中の青田次郎は青ひげを理由に婚活がうまいくかないと思っていること。そしてそのことをnoteというSNSで公開していること。記事の内容や、合コンでの様子なども伝えた。今日の記事の内容については、自分のネガティブキャンペーンになると思ったのでユキミは口を噤んだ。

ユキミはうつ伏せになり、顔をマッサージ用のベッドの台の穴に固定した状態で夢中になって喋っていたので、よだれがこぼれそうになった。ずずっと涎を啜る。

「なんか、すごい人だね」
声から琥太郎が困惑しているのがわかる。はっと琥太郎が息を吸うのがわかった。

「あ、本当は今日予約してた白井由紀さんって人、もしかしたらその青ひげの人と会ったことがあるのかも。白雪姫が白井由紀さんだったりして」
「え? そうなんですか?」
ユキミは思わず顔を上げる。やっぱり私の勘はあっているじゃないか、と自分の女としての格が上がったような気がした。

あ、じゃあ上、向こうかとユキミは琥太郎に促されて仰向けになった。琥太郎はユキミの頭側にたち、肩をマッサージし始める。

「そうそう。なんか婚活ですごい髭のこと聞いてくる人とマッチしたって言ってた。まだ会ったことないって言ってたけど、やたらと髭好きかどうか聞いてきたんだって」
「え? もしかしてその白井由紀さんって人、最近青ひげと会ったんですかね?」

琥太郎は首を捻る。
「ん~、どうだろう。そこまで詳しくは聞かなかったし」
「そうですよね」
ユキミは眉間に皺を寄せてため息をついた。「どうしたの? なんか気になるとこあった?」と聞かれてユキミはふぅと鼻で息を吐いた。

「いや、この前ここに来た時、白井由紀さんがちょうど今日の予約をキャンセルしたところやったやないですか。私、むかし絵本で青ひげの童話を読んだことがあって。めちゃくちゃ怖い絵本なんですよ。奥さんが殺される的な。で、キャンセルしてきたのが男の人って琥太郎さん言いよったけん、もしかしたら、白井由紀さん、なんか事件に巻き込まれたんやないかなって。電話してきたのが青ひげで、白井さん殺されたんやないかなとか、変な妄想しちゃって。まあ、青ひげは実際そんなタイプではなさそうやったし、そんなことはなかろうけど、とは思ってたんですけど。そもそも白井さんと青ひげに接点あるかどうかわからんしって。でも、青ひげの記事で白雪姫に髭好きか聞いちゃった的なことが書いてあって、え?  私の妄想あたっとるんやない?  これって事件?  みたいな……」

「なるほどね」と琥太郎は軽く笑う。
「でもさ、優しいね、美香ちゃん」と言いながらユキミの肩を優しく押す。
「何がですか?」とユキミが尋ねると、琥太郎は続けた。

「いやだってさ、もちろん美香ちゃんは白井さんとは面識ないわけでしょ? それなのに会ったこともない人のことをそんなに心配してるなんて、優しいと思う。それより、初めて美香ちゃんの博多弁聞いた気がする。俺、めちゃくちゃ博多弁好きなんだよね。すっごい可愛い」
琥太郎は手を休めることなく話した。ユキミはまさか博多弁がアドバンテージになるのかと驚きを隠せない。

琥太郎はもともと関東出身で、半年前まで関東方面に住んでいた。しかし、一念発起して大好きだった福岡への移住を決断。博多弁の女の子と付き合うことを目標として、移住してきたのだと言った。そんなことを理由にして移住するのかと思ったが、今の時代色々あるのかもしれないとも思う。

前回のマッサージの際に聞いた話だと、一ヶ月前ごろにお付き合いをした人がいたらしいが、福岡出身なのにあまり方言を使わない人だったらしく、つまらなくなって別れたとのことだった。そんなに簡単に付き合ったり別れたりできるのはモテる人の特権だろうなと、ユキミは思った。自分だったら次の彼氏がいつできるかもわからないので、可能な限り今の彼氏とお付き合いを続けたいと思うに違いない。まあ、それも想像の域を越えはしないが。

「琥太郎さんは本当に博多弁が好きなんやね」
ユキミがわざとらしく博多弁を使いながら軽く笑うと、琥太郎は嬉しそうな声を出した。
「そうそう、それ! ガッツリ博多弁じゃなくて、ライトな感じの博多弁が越妙にかわいいよね。おじさん、食べちゃたい」
「そのセリフはセクハラやけん、そう言うことは言ったらいかんと」
ユキミが冗談ぽくいうと、琥太郎はごめんごめんと軽く笑った。
「でも、それそれ。絶妙に可愛い。ほんと博多弁喋る子と付き合いたい」

ユキミの体にグッと力が入る。告白するならここではないか。ワンチャンあるかもしれない。ムードもクソもないが、このままだと博多弁を喋るどこの馬の骨かもわからない女に琥太郎を掻っ攫われるかもしれない。ユキミはお得意の妄想力を発揮して、自分を鼓舞した。痩せるのは後からでもいい。もしかしたら、琥太郎がデブ専かもしれないし。

「琥太郎さん? 私、琥太郎さんが好きなんです! 付き合ってください!」

ユキミの鼓動は早くなった。直球勝負すぎた。琥太郎にはちゃんと聞こえただろうか。顔にガーゼみたいな布をかけられて、鼻息荒く言うべきではなかったかもしれない。ガーゼがユキミの鼻息でヒラヒラと宙を舞った。

ユキミは急に恥ずかしくなり、顔が熱くなるのを感じた。多分ほっぺちゃんとあだ名がつきそうなくらいに頬が赤らんでいるのがわかる。マッサージの時間はあと何分くらいあるのだろうか。博多弁が可愛いと言われただけで、ユキミが可愛いと言われたわけではないのに、なんだかうまくいく気がした自分のポジティブ脳が恥ずかしい。冷静に考えれば、時期尚早すぎる。やらかした。ユキミは耳まで赤くなるのを感じた。赤くなった耳に心臓の音が響き、ぎゅっと目をつぶる。

琥太郎が何か言っているような気もするが、緊張しすぎたユキミには何も聞こえない。
もういっそこのまま寝てしまおうか。そっちの方がいいかもしれない。どうせ振られるんだ。寝てしまおう。琥太郎のマッサージは黙々と続いている。琥太郎は新しいガーゼをユキミの顔にさっとかけた。

次第にユキミの意識は遠くなる。そして、口元は緩み、ユキミの頬をそっとヨダレが伝った。




11 青ひげペローはデートに浮かれる!

青髭ペローの婚活日記_博多人形とデートのお約束編

天変地異が起こるとはこのこと。
まさか歩く博多人形からデートのお誘いが来るとは、流石の私も予想だにしていなかった。

もちろん私は二つ返事で誘いを受けた。本来であれば、こちらからアクションを起こすべきだったかもしれないが、どういう誘い文句で誘えばいいのかとあれこれ悩んでいる間に、先手を取られてしまった。

しかし、これは歩く博多人形が前のめりで私に興味を抱いているということに他ならない。
古い考えではあるかもしれないが、今までは男性から誘う方がスマートであるという考えを私は持っていた。それはもちろん相手に好意を伝えることに繋がるし、相手の自己肯定感を上げ、お付き合いに繋げやすいのではないかとも考えていた。

けれども実際はそう簡単にうまくいくものではなかったことは想像に難くないだろう。
どれだけ相手の自己肯定感をあげ、メッセージで好感触を得たとしても、私にはこの青ひげというハンディキャップがあるのだ。

いや、ハンディキャップがあると私は思い込んでいた。

メールで始まった関係ではなく、対面で始まった関係の女性から、しかも歩く博多人形と呼ばれるほどの美しい女性から私はデートの誘いを受けたのだ。
これは青ひげがハンディキャップになり得ないという確たる証拠となり得るのではなかろうか。

もしかするとこれまでの女性たちはたまたま青ひげが苦手だったというだけで、世間一般の女性にとっては、さほど問題のないことなのかもしれない。
今まで会っていたのは、そもそも婚活をしている女性だった。と言うことは、婚期に恵まれない女性たちだったのだから、男性の選り好みが激しかったのかもしれない。

自分のことを棚に上げて言うならば、今までの女は男に条件を付す女なのだ。

危ない危ない。このままではまた婚活の愚痴になってしまう。

今は歩く博多人形とのデートを成功させることを考えなければならない。日にちは次の土曜日。上手くいけば……、いや、上手く行くよう努力をしなければならない。
早る気持ちをグッと抑え、冷静に準備をするべきだ。まずは傾向と対策を調べなければ。

正直なところ、ドストライクな美人とデートをするのは初めてなのだ。緊張する。あぁ、すでに緊張してきた。失敗したらどうしようか。
いやいや、そう簡単に上手くいくわけがない。気楽に行こう。せっかくの博多美人とのデートなのだ。悔いのないように楽しみたい。



12  白雪美香もデートに浮かれる!


ユキミとチョコは家からほど近いカフェでランチをとっていた。
可愛らしい内装の店内には日曜日ということもあり、家族連れも多い。赤いギンガムチェックのテーブルクロスの上には、サラダと透明のグラスに入った水が置かれてあった。

「ユキミ、やる気やねぇ」
ユキミの目の前に置かれたサラダを見て、チョコは軽く笑う。
「やる気よ。来週のデートに備えて痩せないかんけん」
真剣な眼差しでユキミはチョコを見つめた。

「いいねえ。いいこと。よく噛んで食べなよ」
ユキミは手元に置かれたサラダに目をやった。大皿に乗ったサラダの上には鶏胸肉のロースト。雑穀やいろいろな種類のキノコも散らしてあり、いかにも健康そうなサラダだ。赤や黄色、緑が目に飛び込んできて思わず楽しい気持ちになる。

「お待たせしました」
カフェ店員がチョコの前に皿を置いた。チョコの前に置かれた皿は見た目も匂いも美味しそうなハンバーグのプレート。湯気がモワモワと立っており、鉄板の上のソースがじゅうじゅうといい匂いをあたりに撒き散らしている。ハンバーグが乗せられた鉄板のプレートとは別に、白いお皿に乗ったこんもりとした白米。

ぐううとユキミの腹が鳴った。

「お腹なっとるよユキミ。ハンバーグ、一口やろうか?」
チョコはユキミの腹の音を聞き、ケラケラと笑う。

そんなに美味しそうなものを頼まなくても、とユキミは思うが、チョコは人に合わせて食べたいものを我慢するような人間ではない。それにそんなことをされてもユキミとしても気持ち良くはない。人は食べたいものを食べるべき。ユキミはいつもそう思っている。そう思って生きてきたからこその、この体型ではあるのだが……。

「大丈夫。今日はいらん。マジで我慢するけん」
手のひらをチョコに向けて、ユキミはキリッとした表情を作った。一口ハンバーグのお裾分けの申し出をきっちりと断る。

ギュルギュルと活発に動き出し始めた胃腸を抑えるべく、ユキミは箸でサラダをつまむ。ノンオイルの和風ドレッシングがかかった緑色の葉っぱを口の中に放り込んだ。

新鮮な葉野菜はユキミの口の中で踊るようにシャキシャキと音を立てた。繊維質をすりつぶすように、ユキミはしっかりと噛む。レタスやベビーリーフたちにくっついてきた茹でられた雑穀が、時折顔を覗かせてはプチプチと口の中で弾けた。

サラダも捨てたもんじゃない、とユキミは思う。うまい、とゴクリとサラダを飲み込んだ。続いてチキンを箸でつまむ。一気に口の中に放り込みたい気持ちをグッと抑えた。前歯で小さな一口分を噛みちぎる。胸肉ではあるが、しっとりとローストされた鶏胸肉は水分をたっぷりと蓄えていて旨みもしっかり残っている。やはり肉は正義だな、と思いながらユキミは鶏胸肉を飲み込んだ。しっかりと咀嚼された鶏胸肉は、ゆるゆると食道を流れ落ち、食べ物を迎え入れる準備万端な胃の中に拍手喝采で迎えられた。

ユキミは恍惚の表情を浮かべる。食べるって幸せ。美味しいものは絶対に世界を救う気がする。

「ユキミって本当に美味しそうに食べるよね~。いっぱい食べさせたくなるタイプやもん。白飯食べさせたいわ~」
チョコは煽るように自分の口にハンバーグを放り込むと、白飯をかっこんだ。

まったくもって嫌なやつではあるが、親友だからできる冗談であると理解しているユキミは揺るがない。それにこれくらいで挫折しているようであれば、ダイエットを決意すべきではない。

漠然と痩せたいという気持ちでいる時は、なかなかダイエットを継続できるものではないが、目下の目標があればユキミの意思は揺らぐことがないのだ。

「デートで少しでもかわいく見られたいし」
「でもさ、よかったね。すぐにフラれたりしなくて。女好きっぽいところがちょっと、いやかなり気になるけど、まあ、ちょっと味見して捨てられるようなことにはならんようにせないかんよね」
ユキミは手と口を動かしながら、頷いた。

「とりあえずデートしようかって提案してくれたけんよかった。ほんと自分でもいきなり告ってしまってマジで焦ったもん。焦りすぎやろって。琥太郎さんが紳士でよかった。こっちは客やし、空気を読んで気を遣ってくれたんかもしれんけど。とにかくあの場でフラれたらいてもたってもいられんかったけん、助かった。けど、イケメンとデートとか、マジで緊張する。しかも、こっちが好きって知られとるけん、どうしていいかもよくわからんし」

嬉しいと困ったがないまぜになったよくわからない表情をユキミが浮かべると、チョコは軽く笑う。

「逆に気が楽でいいやろ。相手に気持ちがバレとるってことは、取り繕う必要がないんやし。スキスキアピールしていいっちゃない? せっかくのイケメンとのデートを楽しまな損やろ。そもそも嫌やったら、デートしようとも言ってくれんのやない? ほら、昨日、本当は琥太郎さんにマッサージしてもらう予定やった白井ユキさん? 知らんけど、キャンセルした人? その人のことはあんまりいい感じで言いよらんやったんやろ? 迷惑やったら、多分、琥太郎さんも困りますって言うんやないん? モテる人やったらそのあしらいも上手やろうけん。てことはそれなりにユキミのことは気に入ってくれてると思っていいと思うけどねぇ」
チョコは付け合わせのニンジンのグラッセを食べなが言った。

「そうやったらいいけど。とにかく当たって砕けんやったけん、命拾いした~。まだデートどこに行くか決めてないんやけどさ、どこがいいかな? やっぱりベタに映画とか水族館かな? どこ行こ~。なんか、急に楽しみになってきた!」
ユキミは箸で二切れ目のチキンのローストをつまむと、一口でチキンを放り込んだ。

やっぱり食べ物はちまちま食べるより、豪快に食べた方が間違いなく美味しい。




13  白雪美香はデートをする!


やば。カッコよ。
ユキミは思わず生唾をゴクリと飲んだ。

「デートといえば、水族館じゃない? 俺、まだ福岡の水族館行ったことがないから、一緒に行ってくれる?」
水曜日の仕事帰り、デートの打ち合わせも兼ねて膝下のマッサージをしてもらっていた時に、琥太郎にそう提案された。もちろんユキミは二つ返事でオッケーを出した。家まで迎えに行くから住所教えてと言われたものの、親に見つかるのが恥ずかしかったユキミは、近所のコンビニを指定。

マリンワールド海の中道水族館は福岡市の東区にある水族館だ。ユキミが住む福岡市中央区からは少し行きづらい印象があった。家族で行くときは必ず車で行っていた記憶だ。どうやって行くのだろうと思いながら、ユキミは水族館のホームページを見てはドキドキと胸を高鳴らせて、土曜日を待った。

まさか、レンタカーとは。助手席に乗るなんて想像もしてなかった。バスか電車、もしかしたら船かなと思っていたので、ちょっとびっくりした。わざわざ自分とのデートのために、レンタカーを借りて来てくれるとは思わなかったから。

車自体は特段カッコ良くもない普通の軽自動車だったけど、運転席に座る琥太郎の眩しいことこの上なかった。イケメンは乗る車も選ばないのだな、とユキミは思う。

普段着ている施術用の制服でもイケメンなのに、シンプルな服装の私服は、琥太郎のイケメン度合いをグッと引き上げた。スーツの時はカッコいいのに、私服では幻滅する、なんてことはよくある話だが、琥太郎は逆だった。

ジャストサイズの白い清潔感のあるTシャツに黒いジャケット。パンツも黒だが綺麗めなカジュアルの印象。足元は抜け感のあるシンプルな白いスニーカー。アクセサリーなどは一切つけていないが、白いTシャツの下にうっすらと筋肉質な体型が見えて、アクセサリーなんて余計なものは不要だな、とユキミは思う。

一方でユキミは、普段の仕事用の地味めコーデのイメージを一新したいと、綺麗めワンピースをチョイス。小花柄の白い透け感のあるふわふわとしたワンピース。ウエストマークできるものを選んで、ウエストをキュッと絞ってくびれを強調。丈は一番足が細く見えるミモレ丈。気合いが入りすぎて引かれるのも怖いので、足元はカジュアルに白のスニーカー。髪はちょっとゆる巻きのスタイル。

ユキミは今日のデートのために、先週末からヘアアイロンの練習を欠かさなかった。
練習を終えるたびにチョコに自撮りを送り、何度もチェックしてもらい、なんとか完成形に持ち込むことに成功。ユキミは万全の体制を整えて、約束のコンビニで琥太郎を待った。

車から降りてきた琥太郎は、「普段とイメージ違うね! かわいい!」と笑顔で寄って来てくれた。心臓が飛び出すんじゃないかと思うくらいにユキミは嬉しかった。うまく返事ができなくて、へへへと誤魔化して、ユキミは思わず下を向いてしまった。

手慣れた琥太郎はスッと腰に手を回して、助手席へユキミをエスコートする。
チョコならここで、あまりに手慣れすぎた琥太郎に不信感を抱くかもしれない。しかし、ユキミの脳内は完全に春に季節が巻き戻されていて、不信感を抱くことはない。ただただ、イケメンの琥太郎が自分をエスコートしてくれている事実に感動しているだけだ。

「水族館に着くまで時間がかかるから、コーヒー買っておいた。飲んでね」
助手席に座ったユキミに琥太郎はそう言って、視線をドリンクホルダーに向けた。
ユキミはここでも、感動しきりだ。なんて気の利く男性なのだろうか。もうユキミの好きは止まらない。目はハート型になり、視線は琥太郎の横顔に釘付けになってしまった。

「そんなに見られたら、運転しずらいって」
はにかむように笑う琥太郎の顔すらも愛おしい。
「あ、ごめんなさい。カッコ良すぎて」
ユキミは臆面もなく本音を漏らす。嘘偽りないバカ正直なところがユキミのいいところだ。ユキミには駆け引きも何もない。
「美香ちゃん可愛いよね、ほんとに」
ケラケラと笑う琥太郎に、ユキミの心臓はキュッと締め付けられた。

道中もとても楽しかった。
マッサージの時にも思っていたが、琥太郎は話が上手い。聞き上手でお喋り上手。ユキミがこぼすように喋った一言をサラッと拾って、広げてくれる。ユキミも特別会話下手ということでもないが、なんだか気持ちよくなりペラペラと余計なことまで喋ってしまったような気がした。

ダイエットの話や過去の恋愛トークなどなど。本当に余計なことを喋った気がする。体重とか体脂肪率とか、体脂肪率とか体重とか。

体脂肪率の話なんかするんじゃなかったと後悔したりもした。しかし、ダイエットに関して的確なアドバイスをもらったりもして、ユキミは終始関心しきりだった。

過去の恋愛トークとはいっても、正直なところ、ユキミは特段恋愛という恋愛はしてきていない。好きになって告白して振られるパターンがほとんどだ。ユキミにとってこれまでの恋愛は『憧れ』の部類に近い。
好きだと言われてお付き合いをしたこともあるが、そういう時はなんだか自分と相手との温度差に冷めてしまう。相手の熱が高ければ高いほど、自分が冷めていってしまうのだ。

だからユキミはいつだって自分から好きになりたいと思っているし、告白したいと思っている。

親友のチョコの恋愛は友達から始まることが多かった。友達だと思っていた人といつの間にか付き合っていることが多い。チョコにそれで好きになれるのかと尋ねたところ、そちらの方が居心地がいいと言う返答が返ってきた。ユキミはそれって恋愛とは違うんじゃない? と思ったりもしたが、チョコは「ユキミみたいに誰かに夢中になれないし、ものすごく好きという感情を持ったことがないから、多分ユキミみたいな始まり方はできないと思う」と言っていた。

とはいえ、チョコのお付き合いはいつも順調で、今の彼氏だってもう付き合って三年にもなる。そのうちに同棲を始めて、きっと結婚するんだろうと、ユキミは予想している。

琥太郎の過去の恋愛の話を聞き出そうとしたけれど、道中琥太郎は聞き役ばかりで、質問にはあまり答えてくれなかった。ユキミは若干の怪しさを感じたが、過去の恋愛話を聞いたところで、ユキミにとっては気持ちいいものではない。多分、綺麗な人ばっかりだったんだろうな、とか、みんな細かったんだったんだろうな、とか。そんなことが頭をよぎり、ユキミは頭を小さく振った。

水族館についてからも、やはり琥太郎のエスコートはスムーズだった。チケットはすでに購入されていて、ユキミはお金を出す必要すらなかった。

「ちゃんと払います」
ユキミが財布を出そうとしたら、琥太郎は手をひらひらと顔の前で振った。
「後でイルカショー見たいから、その時、コーヒーでも奢って」
琥太郎は顔の前で振っていた手を下に下ろすと、そのままユキミの手を握った。

ここでもユキミの心臓が飛び跳ねたことは言うまでもない。
「足と一緒で、冷たいね。やっぱり冷え性だな、美香ちゃんは」
ギュッと握った琥太郎の手は、あたたかくて大きかった。ユキミの胸の鼓動は高まりつつも、なぜだかホッとするような気持ちがした。



14  白雪美香はチュロスが食べたい!


イルカショーが始まる10分前くらいに、二人は会場に入った。水族館は子どもの頃以来だったが、デートで回る水族館はとても楽しかった。

ユキミにとって、魚は食べ物という認識だった。食べられない魚のことはほとんどわからない。ピクサー映画のニモは見たことがあったから、カクレクマノミを知ってるくらいだ。だけど今日は水槽の中の生き物が全てキラキラして見えるような気がした。ゆらゆら揺れるクラゲだとか、ウミガメだとか、餌を食べるアシカだとか。魚を見ることが楽しいというより、好きな人と一緒に同じものを見て同じ時間を共有することが楽しい、とユキミは感じていた。

「水族館、めちゃくちゃ楽しい!」
ユキミが弾けた笑顔を琥太郎に向ける。
琥太郎は嬉しそうにくしゃっと目尻に皺を寄せ、
「そんなに嬉しそうにしてもらえると、俺も嬉しい」
と笑った。

イルカショーの会場に着くと、席を探して二人で座った。
「あ、コーヒー買ってきますね」
ユキミは腰をかけると、すぐに席を立った。琥太郎がありがとうと礼を言い、ユキミはいえいえ、と手を顔の前でひらひらとさせた。

半屋外のイルカショーの会場に初夏の爽やかな風が吹き、ユキミのシフォンのスカートがひらりと揺れる。

会場の一番上にある売店の列にユキミは並んだ。
ユキミの前に並んでいた親子は、ソフトクリームを頼んでいた。子どもが手に持っている綺麗に渦が巻かれた真っ白いソフトクリームを見て、ユキミは美味しそうだなと思う。こういう場所で食べるソフトクリームは、街中で食べるものよりなんだか格別に美味しい気がする。

でもなぁ、せっかく痩せたしな、とユキミの頭に今朝の体重計の表示が過ぎった。

55kg。

2キロも減量したんだし、ソフトクリームは我慢しようかな、とユキミは小さく口を尖らせた。

ユキミはメニュー表をチラリと一瞥する。ホットコーヒーがメニュー表にあることを確認。そして、ユキミの目線はメニュー表を一周した。
あ、とユキミの目が、書かれているメニューの1箇所で止まる。

チュロス。

やばい。食べたい。
ユキミの思考は一瞬のうちに食欲に支配された。
シナモンがある。絶対美味しい。
売店の女性に「ご注文は?」と尋ねられた時、ユキミの口は勝手に「ホットコーヒー二つと、チュロス一つ」と答えていた。ユキミは自分がその言葉を発したことに全く気づいていなかった。

売店の女性から「お一人で大丈夫ですか?」と尋ねられて、ユキミはやっとチュロスを注文したことに気がついた。
あれ? 頼んだっけ? と思いながら、自分が口にしたであろう注文を反芻する。

あ、言った。間違いなく言った、とユキミは思った。レシートにもちゃんと印字されてあるし、お金を払った記憶もあった。無意識だったけどちゃんと覚えていた。食欲って怖いなとユキミは思う。ユキミはコーヒーを一つずつ片手に持ち、右手でコーヒーカップと一緒にチュロスを握った。

こぼさないように、ユキミは慎重に階段を降りた。
改めて会場全体を見渡して、琥太郎の位置を確認する。ユキミの座る予定の左側の席がちゃんと一つ空いていて、ホッとした。

しかし、俯瞰で見ていてなんだかユキミは琥太郎の席あたりに違和感を抱く。目を凝らしてよく見ると、琥太郎は体を半分、右側に向けていた。どうも、誰かと話しているようだ。なんだろう、と思ってよくみると、琥太郎の右側にはユキミの知った顔があった。

「百合さん?」
ユキミは思わず独りごちた。

琥太郎の右側にいたのは、職場の先輩の獅子王百合だったのだ。なんで話をしているんだろうか。もしかすると、琥太郎は百合にロックオンされてしまったのかもしれない。ユキミの脈拍が速くなった。
少しだけ慌ててユキミは階段を降りる。

「お待たせしました」
ユキミはさっと琥太郎の左側に腰をかける。
「あれ?ユキミちゃん?」
百合に声をかけられ、ユキミは初めてそのことに気付いたという表情を浮かべた。目を少し大きく見開いて、口を半開きにして、そして眉をひそめる。

「え? 百合さん? こんなところでどうしたんですか?」
「ユキミちゃんこそ。それよりユキミちゃんと琥太郎は付き合ってるの?」
百合の博多人形のように白くてきめ細やかな頬に、ふわっと赤みが差した。小さな顔には大きすぎる瞳がキラリとユキミを見つめる。う、眩しい、とユキミは思う。

この澄んだ瞳を向けられて、冷静でいられる人はどのくらいいるんだろうか。
と、その時、ユキミが口を開く前に琥太郎が口を開いた。

「いや、付き合ってないよ」
首を小刻みに左右に振った。

そんなに即答しないでもいいじゃないか。それよりも、百合は琥太郎を呼び捨てにしていた。さっき会話をしていたのは、たまたま隣になったから会話をしていたのではなく、もしかして知り合いかもしれないとユキミは思う。

「もしかしてお二人、お知り合いですか?」
ユキミは琥太郎と百合の顔を交互に見た。
二人は目線を絡ませる。少し間があった。
「知り合いっていうか……」
琥太郎は百合と絡ませていた視線を、ユキミに向けた。

「えっと……」
言い淀んだ琥太郎を見て、ユキミは察した。これは、二人はただのお知り合いではないな、と。多分、付き合ってたんだ、と。

ユキミが少し口を開けて察したような表情を浮かべると、琥太郎は少し気まずそうな顔で眉をハの字にした。
やっぱりとユキミは察した。思わずため息が漏れる。そして、どこからか視線を感じてそちらに視線を向ける。視線の先には、どこかで見たことがある顔が映った。
銀縁のメガネに、少し大きめの鷲鼻。そして、口元には青ひげ。

青田次郎だ。青髭ペロー。





↓ 最終話予告|ゴルゴンゾーラのチーズケーキ









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