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剔抉遊山 2

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漫然とツイートを読み漁るのに飽きた私はiPhoneの音量を最大にし音楽アプリのランダム再生で流れたレイチャールズの"ヒット・ザ・ロードジャック"を聴きながら服を脱ぎ捨てた。

真っ赤なボクサーパンツ一丁の姿になり、丸めた新聞紙で己の頭を叩きのめしながら六畳の部屋中を徘徊し「折り紙したいっちゅうねん、折り紙したいっちゅうねん」と絶叫。それから新聞紙を床に放り捨て、油性ペンでA4用紙に"りぼん"更にもう一枚"なかよし"と書いて「好きよぉぉぉぉ」と叫びながらそれらをビリビリに引き裂いた。レイチャールズの曲が終わり、次に流れたのは曲名も判然としないがなんかアンビエント系のやつ。

しばらくあって私は奇行に一旦満足し、着衣して次は胡座をかいて瞑想を始めるとすぐによい按配に美女が脳内に顕現して吝かではない。そのまま数分のあいだ恍惚としているうちに"なんかアンビエント系のやつ"は終わり、私は茶でも飲もうかと冷蔵庫の所まで歩き、中腰で扉を開けたその時だった。

なんたることか。iPhoneが前川清の"長崎は今日も雨だった"を再生しはじめた。


な、長崎…

その言葉を意識した途端、胸三寸に納めておいたはずの邪念が突如としてぶくぶくと肥大化。それは忽ちにしてにゅるにゅるした不快感へと変わり、私の全身を両生類の如くに蠢き回って気持ち悪い。口腔は急激に乾燥し始め、それなのに脇汗が止まらなくなり、気がつくと私は鼻水を垂れ流し、中腰のまま般若のような顔つきで「ううう」と低く唸り声をあげていた。

数分後、"長崎は今日も雨だった"は終わり、ザ・フォーククルセダーズの"悲しくてやりきれない"が始まった。私は心の奥に封じ込めたあの日のことを思い出した。


長崎…への遊山はできない。なぜなら口座の残高が全然あかんかったから。

あの日、ATMで残高照会をして銀行を出た後、私はショックと戸惑いで憔悴してしまい、ふらふらの状態でアパートに帰った際になんとなく「ただいマンモス」とできるだけ太い声で言ってみたがそれが逆効果だったようでさらに体調は悪化。結局その日は一日中、布団に伏して池田エライザのインスタグラムを見るだけで終わった。

次の日からは、長崎とか旅行とか、あわよくば住みたいなど私一切考えていませんでしたが?という毅然とした態度で過去の情動を否定。なかったことにして、ポストに投函せられた市報冊子を精読しつつ「やっぱええ街やなぁ」とトータス松本が言いそうな口調で脂下がってみたりして心身の平穏を保とうと企んだ。

がしかし新聞紙で己の頭を叩きのめしたり、読んだこともない少女漫画の雑誌名を紙に書いてそれを八つ裂きにするなど、私は明らかに尋常の調子ではなかったのであり、つまり長崎遊山、妄執を弁当箱に詰め蓋をして見えない所に隠し、いつか隠したことすら忘却できればよし、という企みは大いに失敗、徒花に終わったのだと今になって知れた。というよりかは実は初めから気付いていたのだけれど、それをそうと認めたくなかった。


にゅるにゅるの不快感に汚染された脳でしばらくの間はイライラしていたが、次第に怒りは減じていき、それに反比例して今度は哀しみが心の内から増大するので私は半ば強制的に内省せざるを得なくなった。

とりあえずベッドに横たわり、

「まじかぁ」

と独りごちてみた。まじかぁ、とは「それは誠か」や「なんたることか」や「天晴なり」や「俄かには受け入れ難いぞな」とか文脈次第で意味が様々になる便利な言葉である。今回の場合は「なんたることか」と「俄かには受け入れ難いぞな」のミックスくらいの意味なのだが、何が受け入れ難いかというと、まぁ色々である。

まず、改めて長崎には金がないから遊山に行けないという事実。次に、その欲望を封殺できると思っていたのに出来なかったという羞恥。さらに、旅行ができないのに我慢もできないという二つに蝕まれながら今後もこのクソつまらん町で生きていかなければならない業苦。以上の事柄において我は「まじかぁ」と思ったのだ。

現実は完全に我のアウトオブコントロールだ。ままならん。私のような弱小の者が心のまにまに生活をコントロールするなど果たして不可能、まさしく蟷螂の斧である。敵は強大、我は浮き助、明日はどっちや。

"悲しくてやりきれない"は終わり、先ほどからiPhoneの音楽アプリでは真心ブラザーズの"明日はどっちだ"が再生され鳴り響いていたので、その流れで「明日はどっちや」と曖昧に濁して締めくくってしまった。

が、正味どないしようかしら。悶々していると真心ブラザーズが「犬は蒸発 愛は爆発 闇に飛び散った」と歌ったところで突然曲が停止した。故障か?と思った矢先、iPhoneがピロピロ鳴ってなんだ電話か、相手を確認すると友人の清又であった。と同時に私の脳天に聖なる閃光が迸り、おれは天才かぁっと唸って候。

「もしもしこちら智井です」
「あ、もしもし。飯食おうや」
「飯なんか行かずに20万円貸してくれませんか」
「おれ中華食いたいねんけどいい?」

清又は全く私を無視した。友人の願求をかくも強引に無視するなんて頭がおかしいんじゃないのか?と戦慄きつつも私は攻め続けなければならない。

「ええっ、貸してくれないんですか」
「中華でええな、13時に駅前おるから」
「やはりしれっと5万円増やしたのがあかんかったんでしょうか」
「さっきからずっと何を言ってんのお前、もうええで」

きた。ようやく清又は食いついた。

「駄目ですか、20万円。15万円でもいいし、もう10万円でもこの際いいですよ」
「なんなん、どこまで本気で頼んでんの?嫌やで貸すわけないやん」
「ええっそんな」
「13時。ちゃんと駅前来いよ」
「ええっ、行くわけないじゃないですかお金も貸してくれないのに」
「はぁ?」
「ええっ」


結局電話では私の窮状と熱意が伝わないと諦め、中華屋にて清又に直接談判することにした私は黒のバスパンと紺色Tシャツ姿で100円の草履を履いて外へ出た。

外は暑かった。中天の浅い呼吸みたいな薫風に夏の間近なるを感じ、ともすると心が拭浄せられるような雲の数多がぷかぷかしていて腹立たしい。



緑と青のコンビニを弓手に曲がり、家々と保育園に挟まれた坂道を登ったあとは線路沿いの道を北進するだけ。

すわ、金を借りる。私は確固とした想いを胸に、そして汗を両脇に抱えて歩いた。電線やら揺れる梢の葉影やらに己が身体をまだら模様にされながら。



つづく