音楽たち その1
音楽理論の本をよく読む。
古代ギリシャでは奴隷ではない市民の嗜みとして算術、幾何学、天文学などと並んで音楽を学ぶことが推奨されていたそうだが、これは実際に奏でるというより、音の神秘を机上で学ぶといった趣だったようである。
即ち、ピタゴラス音律のような、ドの3/2の音はよく調和する、それをソと名付けて、そのソのさらに3/2の音をレとして・・みたいな
んで、それを続けていったら、元の音になった・・あれ、ならねェ~ちょっとずれてるぅ!おお神のいたずらよ~!
みたいな話が大好きだ。キリスト教徒ではないが。
一神教は森羅万象すべて神様のデザインなので、なんとか神様の意図を探ろうと算術、物理、哲学などを駆使して解を求める歩みだったのでしょう。
本当に素晴らしい知識の集積です。
最近のそういった本には、必ずと言っていいほど、ワールドミュージックの章があったりする。
そこで例に挙がるのは大抵、ガムラン、アイリッシュ、アラブ音楽、筝、アフリカのリズム、そして、私の専門のインド音楽だったりする。
上記のような手法で、価値を認めつつ、わかりやすく合理的に解析していて、また私自身も生徒さんに説明するときに、そんな論法で説明する事が多いので、とても参考になるのですが、実は内心
「ちがーーーーーぅ!」
とか思ってたりします笑
すみません、すみません、違うって思いながら日和ってます。
だって伝えたり、共有する事がコミュニケーションじゃないですかぁ、やだー
インド音楽習い初めの頃、例えば、
「Aの次はBである」と教わって、ふむふむってなって、
違うインド人奏者にそれを伝えると、
「違う、Bの前がAなのだ」と言われる。
は?である。
同じじゃん、って言うと、
「違う」のだ。
さらに「AはAであると同時にBでもあるのだ」みたいに畳みかけられたりする。ワカメだ。
若い私はその真意を必死に理解しようとしたがその時はダメだった。
先述の音楽理論のおそらく多くの研究者もその壁にぶつかっている様子が見受けられる。
結果、その知識の範囲内で説明つくように著している印象があります。
25年以上インド音楽を学んできて、少しだけこの矛盾の答えが見えてきた気がしています。
だけど、こんな話しといてアレですが、言葉にしづらい。
考え方としては、
「それはただそこにある」って感じでしょうか。
ひとつであり、全体でもある、といった、やはり東洋的な思想に基づくものな気がしています。
すべてが間違いでもあり、正解でもある。
西洋音楽的な視点が熟成されればされるほど、価値のないものに見えかねない、本当は深い意味のある音の有り様な気がします。
インド人の聡明な奏者の方々は、それを無意識であれ奏でていて、感銘を受けることがあります。
そして不思議な事に西洋の一流奏者にもまた同様な感性を感じる事もあります。
言葉ではない、学問ではない、何かがそこにあるような気がしています。