本格派のオトナの振る舞い。
親戚の集まりにもなると、本格派オトナと、その逆、軟投派とでも言うのか、決してピッチャーではないが、真似したくない系オトナとに分かれる。
この言い方では、変化球を武器にするピッチャーに大変失礼である。
何かいい言い方は、ないものか。
さて。
たとえば、女性陣にコトを任せ、どっかり腰を下ろすオヤジたちは、まったくもってお話にならない。こういうオヤジが語る説教、自慢ほど、役に立たない、すごくもないのである。
自分の手と足を使って、自分の願うことの足場を、磐石なモノにせねばいかんのだ、それがオトナというものであると、私なんかは思う。
さらに言うと、内省がないヤツも、本格派とは言い難い。
正しく問いかけ、正しく羽目をはずし、正しく褒める、それがステキなことではあるまいか。暴走列車のようにシュッポシュッポとしゃべり続けるのは、どうも下品であるように思うのだ。
時に、親戚の集いであるから、普段着慣れない正装なんかをしなきゃいけない、たとえば、法事、結婚式のような時に、いかに着崩さないか、も私は、本格派審議委員会が定める本格派条件要綱に挙げたい。
シャンとシャツを着、デンとボタンなど止め、ズボンのチャックなど決して人前では上げないのである。さらに言うと、ベルトの締め方も、バックル部分がゆるく垂れているなど、まったく持ってお話にならず、オヤジたちに多いので、やはりオヤジというのは困りモノである。
親戚が集まる際の私服問題は、時として正装を着ることの延長線上にあり、スーツを脱ぎ、さて今からご飯など食べようと言う時、思うに、清潔感ある充分ラフな格好が良い。
無意識にでも気を遣い、飯を食う時も肩を張っていては、味がしないと言うものだ。
服装は漏れなくデザインである。それは時に空間を、ヒトをデザインする。
親戚と美味い飯を食うには、それなりのデザインが必要である。
オトナのオトコであるなら、Yシャツにデニムで良いという提案を、私はしたい。仮にそれをラフ着の正装A面だとするなら、B面はチノパンにトレンドのゆったりTシャツなんかも良い。
出来ることなら、男おとこしいものは避けたいものである。
これらを無下に批判するのは、本格派条件要綱の上から6番目に記載されている、「ワカモノのトレンド、個性をオヤジの意見で安易に批判してはならない。」に反することとなる。
清涼感、清潔感のある、だぼっとした無地白色のTシャツを、「なんの宗教だ。」などと言ったのなら、私から「軟投派」のレッテルを貼られるのだ。
貼られたところでなんの効力もないのだけど、私は、私個人に格式と言うか、本格、良さ、倫理を要求したい。
そうした日々の蓄積の延長に、親戚の集まりは存在していて、「さすがに20歳年上のおねーさんというか、おばあさん達は、ワッセワッセと静かに気を遣いあって、楽しくやっていていいことであるな。」と感心するのだ。
順調に、「彼女ら」の手伝いなどして、さて私も酒盛りに参加しようかとワシワシとワインを飲み、次の日、「後日談」で聞く醜態の数々。
母と同じ歳のおねー様もとい、おばさん(というにはあまりに美しい)に、ハグなどして、あげく「結婚しませんか?」なんて言い呆けていたらしいと聞くのである。
まったくもって本格派からは程遠い、バカオヤジそのものである。
険しい道のりである。
けれども私は、本格派とは一体何かを問う、内省の日々を蓄積し、また日々のバカエッセイを創作している。
険しいけれど、私はなれるはずなのだ、本格派オトナに。
時に創作は、私を作るのだ。
日々の蓄積が、私を作るのだ。
一刻も早く、私の中にある、本格派オトナの反対側に存在するバカオヤジ、その資質を、どこか戸棚の裏にでも隠してやりたい。
それにしても、おばさんに抱きついた、あれは少しまずかったなと、内省が溢れて溢れて止まらない。実に、昨日の夜の話である。
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