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手に取ることもできない「ありふれた」

大学に、一応、週1日通っている。私は大学4年生。

いつも、自室のベットと、修行先のパン屋を往復する1週間の、ほんのわずかな時間に大学へ行くと、当たり前のように、知らないヒトが、同じ場所にたくさんいる。

大学へ行っても1人で受講して、1人帰って来るのだけど、「あぁ、もしあの時、」なんて考えちゃう日も、まあまあある。

「もしあの時、バイト辞めてなかったら」とか、「もしあの子と仲良しでいられたら」とか、「今のぼく」とは違う「私」を、ほんのわずかに妄想してみる。イイ気持ちにも、ヤナ気持ちにもならないから不思議なものである。

「こうなるべくしてなっている」っていう、偏屈な納得感が、手元にはあって、きゃっきゃしてる大学生を、少し遠くに見ている。

ふと手元のSNSに意識を戻すと、名前らしくも、暗号らしくもある記号のような「@ナントカ」がしゃべりだす。

明らかに、「ぼく」とは違う生活を営む、色んな人の、「ありふれた幸せ」「ありふれた生活」が、覗ける。でもって、そんな「ありふれたもの」に、私は、ちっとも手が届かない。

「これは、不思議なことだね。」そう、思う。

テキストで飛び込んでくる、「ありふれた幸せ」を、私は、実際に見ることもなければ、知る由もない。

そういう、@、こういうのが、たくさん、本当にたくさん、織り重なって、世界が出来ているのだな、って。

ちょっと覗ける、「知る由も無い、ありふれた幸せ」が、「私の手元以外」にいくつあって、「私の手元には」と、数えてみても、意味は無いなぁ、って思うんだよ。

これもまたありふれたコトバなのだけど、「今、ここ、に居る。」っていう感覚だけが、「私」を作るよなぁ、と思うのだ。

自分の過去にすら「サヨウナラ」しなきゃいけないのに、「他人の幸せ」に、何か得ようとしたって、無理な話だよなぁ。と。

どれだけ世界に「ありふれた幸せ」が、煌びやかでも、「ぼく」にはちっとも関係がなくって、「今、ここで、何をしたか。」たったそれだけ、それだけが、「ぼくの生活」「ぼくの幸せ」なのだな、と思うのだね。

有象無象、魑魅魍魎の「@ナントカ」。
「みんなの生活にありふれた幸せなんて、知る由も無いし、知ることも出来ない。」。

私のことしか、知ることが出来ないのかもしれないね。

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