例えばそれが似合わなくとも
「なんか汗くさそう」
学生時代、友人からおすすめされた“bacho”というバンド。
当時、暗く退廃的な音楽を好んで聴いていた自分にとって、
語りかけるように、叫ぶように歌われする音楽は馴染みがなく、
友人に感想を聞かれ、思わず口をついたのが冒頭の言葉だった。
「格好良いのになあ」という友人に共感できないまま、私は社会人になった。
毎日スーツに身を包み、慣れないヒールで歩く。
整髪料で七三に整えられた前髪、当たり障りのない薄化粧。
出張続きで家にも帰れず、身に覚えのないことに頭を下げ続ける日々だった。
理不尽な叱責、頭上から降る「小娘ひとり寄こされてもね」という嘲笑とため息。
こんなはずじゃなかった、
こんなはずじゃなかったのに。
頭に流れ込んでくる雑音を掻き消したくて再生ボタンを押すと、
ランダムで流れてきたのはbachoの『決意の歌』だった。
≪この世界のせいにして
嘆いているだけの僕は
いつになっても変わらないまま
だから今、決意を
俺たちの幸せはこんな物じゃない
もっと日々の中から溢れ出る、その結晶≫
学生時代、ちっとも良さが分からなかったbachoの言葉が、
耳を通り、胸の奥底にどばどばと注ぎ込まれていく。
惜しみなく注がれた溢れんばかりの何かが、ぐつぐつと煮えたぎり、胸を震わせていた。
すぐに友人に連絡し、チケットを取ってライブに行った。
初めて観るbachoは、おっさんだった。
ボーカルは坊主、みんなTシャツにデニムで、まるで家からそのまま出てきたかのような出で立ち。
曲が始まった瞬間、観客が一斉に拳を突き上げ、大合唱が始まる。
熱気という言葉が生ぬるく感じるような、爆発的なエネルギーに包まれた会場は、まるでサウナのような湿度だった。
鼻をつく汗のにおい。
「なんか汗くさそう」じゃない。
「めちゃくちゃ汗くさい」のだ。
MCが始まると、ニッカポッカを履いた強面の男性がビール片手にふらふらとステージの目の前まできて、大声で言った。
「昔はなあ、全然わからへんかってんやあ、でも大人になったらわかるようになったわ。最高やなあ、bacho」
ボーカルが、「ほんま、ありがとうなあ」と笑って、ステージ脇のビールを上機嫌に流し込む。
ライブ中、喋っている演者を遮って大声でしゃべりかける人なんて、めちゃめちゃ怖い。
ただ、これまで関わったことのないような強面の男性に、一瞬だけ、スーツ姿の自分を見た気がした。
この人も、この世界の理不尽さに打ちのめされ這いつくばり、それでも尚、と砂を噛んで立ちあがろうとしているのかもしれない。
きっとそのすぐ傍にbachoの音楽はあったのだろう。
それから時々ライブに通うようになり、小さい箱ではモッシュやダイブが頻発することを知った。
特に、ステージが設けられていないフロアライブではダイバーたちが視界を飛び交う。
客席に飛び込みたくなるほど感情を昂ぶらせる力が、bachoにはある。
わかる、わかるのだけれど、ダイバーたちを押しのけて、見たい。
目に入る汗の痛みに耐えながら、歌い、奏でるbachoが見たいのだ。
あまりダイブに慣れていない私は、手足が顔に当たらないように、常にダイバーの動きを確認しなければならない。
それでもbachoを見たくて必死にステージに目を向けると、バスドラムの上に登ったボーカルがダイバーより高い位置に立っていた。
開けた視界の中、にやりと笑ったように見える。
「ライブに来ただけで、人生変えた気になんなよ」
照明で照らされた汗がキラキラと散る。
一秒たりとも見逃したくないと思うのに、すぐに涙でぼやけて、大きな光の粒になってしまった。
隣の人も、斜め前の人も、みんな泣いていた。
ライブが終わり、マスカラで真っ黒になった頬をぬぐいながら、Tシャツを買った。
胸元に大きく“bacho”と書かれたそれは、私には全く似合わない。
それでも、私はbachoに心震わされた人間なのだと、そういう感性を持った人間なのだと伝えたい日、きっとこのTシャツを着るだろうと思った。
この世界では、自分が何を愛でて、何に心震える人間なのか、そういった全てを奪われ、黙らされる瞬間がある。
だから私は声なき声で叫ぶ。
私は私なのだと、世界に、自分に、知らしめるための服を着るのだ。
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