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プライド

エッセイの中でも、日々の発言でも、自分のポリシーや人生の話をする時、必ず地元の話をしてしまう。
山に囲まれた雪深い田舎で、というワードをもうどれだけ書いたかわからない。
おそらく読者の方も「もうええて」と思っていることだろう。
でも、きっとこれからも、何度でも山に囲まれた雪深い田舎の話をするだろうと思う。

私が地元の話をする時は、大概がネガティブな文脈だ。
いかに閉ざされた、文化から断絶された環境だったか。
田舎だから、雪がすごいから、で諦めたことがたくさんある。
そこには、もちろん父の厳しい教育方針も乗っかって。

私が地元をあまり良い文脈で言わないので、他人に地元を腐されることも少なくない。
その時猛烈に「お前に何がわかんねん」という強い感情が湧き出ることがあって、自分でも驚いてしまう。
私に合わせて、話題が膨らむように話を広げてくれているというのに、なんてお門違いな怒りだろう。

地元はとても静かだ。
特に冬は雪が街の音を吸って、夜にはうるさいほどの静寂が訪れる。
窓を開けると、キンと冷えた空気の匂いがして、頬がビリビリと粟立つのを感じる。
家族が寝静まった深夜、毛布に何重にも包まりながら文章を書いていると、世界でたった1人になったような気がした。
雑音が消えて、冷蔵庫の動く音と、灯油ストーブの音も遠くなって、自分の呼吸の音だけになる。
その時初めて、誰にも邪魔をされない、誘導されない、忖度しない、本当の自分になれる気がするのだ。

地元には何もない。
けれど、「何もない」がある。

実家の前には4時間に一本しか来ないワンマン電車が走っていて、大阪に帰るためにはその電車で一時間かけてターミナル駅まで向かわなければならない。
駅は8畳くらいの狭さで、中央に年季の入った電気ストーブが置かれている。自動改札はない。
実家と祖母の家はとても近く、駅前の祖母の家からまっすぐ線路伝いに3分歩けば実家だ。
だから、いつも実家でみんなに別れを告げた後は、祖母の家に寄り、祖母と一緒に駅へ向かう。

電車が動き出すと、車窓から祖母が見える。
大きな大きな山を背負って、手を振る祖母が見える。

電車が実家の前を通ると、玄関の前で、祖父が手を振っている。
その隣で、腕を組み仁王立ちをする父が見える。

みんなからはもちろん私は見えないけれど、「この電車のどこかに乗っている」と、電車が見えなくなるまで、ずっと手を振っている。

その背後に、そびえ立つ山、山、山。

祖母も祖父も父も、すぐに小さく見えなくなった。
それでも、山だけは大きなままで私を追いかけてくる。
私を護り、閉じ込めた山を、家族を、振り切って電車は走る。

私はいつもこの景色を直視できなくて、人目も憚らず泣いてしまう。
祖母の、祖父の、父の背後にそびえ立つ大きな山を見ると、物悲しいような、恐ろしいような、誇らしいような気持ちになって、「おい、私の故郷を見ろ!!!」と、全世界に向けて叫びたくなるのだ。

私の故郷はたった一つ。心のふるさとは、たった一つ。
ここで生まれ育ち、自分になったという事実が、私を強くしてくれる。

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