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あなたからは「いいもの」が出ている。

自己肯定感の大切さを知らない人は、もうほとんどいないだろう。

問題はその上げ方だ。もちろん自己肯定感は上下するものなので、下がっているからだめ、というわけではないが「自己肯定感」を実感すること自体、最初はとても難しい。自己肯定感とは、自分が自分の味方でいること。不安ではなく、自分の存在をいかに安心して認められるかだ。

過去の記憶や落ち込む気持ちから「自分など、いなければいい」と本当に思ってしまうことがある。それも大切な経験ではあるが、自分の存在を否定することは、自己肯定の真逆である。自己否定は暇になると絶えず自分を襲ってきて、これをどう消せばいいのか。人間は常絶えずその問題と対峙する。

自己否定を完全に消すことはできない、というよりはそれもまた自分を守ってくれる存在であることを認める必要がある。なぜなら、自分の一部である自己否定や不安な気持ちを消そうとすることも、自己否定だからだ。このループに悩んでいる人も多いだろう。

自己否定は、自分を毒だと思う気持ちだ。後悔していたり、罪だと思っていること、心にずっと自分を責める誰かを持ち続けていること。それらは全て「自分が毒であることを忘れないようにするため」に存在している。なぜなら、生まれてきて初めて「自分という存在は、この世の毒なのではないか?」と疑った瞬間、心がひどく傷ついたからだ。毒だと思っていなかったから、驚いた。世界が一部ひっくり返ってしまったのだ。そんな経験を二度とさせないために、世界を早めにひっくり返しておく。この時の自分は毒である。先に認めて不安になっておくことで、自分を守ろうとしていた。それもまた、とても大切なことで現にそれはあなたを何度も守ってきたはずだ。

では、自己肯定とは何か。自己否定が自分を「毒だ」と思うことならば、自己肯定とは自分を「いいもの」だと思うことだ。薬、という表現でもいいが、ここはいいもの。とする。自分からはいいものが出ている。生きているだけで、いいものが出ている。

この「いいもの」は自分が人を思ったり、物を使ったり触れたり、見たり、自分自身を感じたり、泣いたり、「自分が世界と触れ合う全て」のものに与えることができている。それには証拠も、結果も必要ない。なぜならそうだから。そうだと思うことが最強の自己肯定だ。

人は涙を流したり、感謝をしたり、敵意をぶつけてきたり、責めて来るときもあるかもしれない。でも、それは一瞬のただの反応だ。あなたが安心して存在していること、行動していることに人はいろいろな反応を示す。だからあなたはその反応から自分を毒だと感じてしまうこともあるだろう。しかし、本当の毒があるとすれば「自分を毒だと勘違いして存在すること」である。だから、勘違いさえ解いてやればいい。あなたに触れられた物、着られている洋服、触っているスマートフォン。それらにもいいものを与えている。でも物はしゃべれない。反応もわかりずらい。それでも与えている。捨てることも、そのものにとっていい物を与えているとしたら、あなたはどう思うだろうか。

自己否定が強い人ほど、この現実が信じられない。「自分が生きているだけでいいものが出ている」を否定するために生きている。自分は毒である、という証拠を集めながら生きている。それはとても辛いので「毒ではない」と思わせてくれる何かに期待する。でも、期待は裏切られる。なぜなら、毒ではないと思わせてほしい、という気持ちの前提には「自分は毒だ」があるからだ。世界は前提でできている。

あなたを愛して、肯定してくれた人がいたとする。これも前提によって「あなたはいいものを持っていますね」と嬉しい気持ちをくれた、と感じるか「あなたは毒ではありませんよ」と安心をくれた、と感じるか。前提によって変わる。嬉しい気持ちをくれたのは何かを治療してくれたと思っていない。しかし、安心をくれた、は不安を治療してくれた人。という位置付けになる。それはどちらも愛だが、治療してくれた人には依存しやすい。病気を通してでしか愛を交換できないのは、少し悲しいことでもあるし、病気が必要になってしまう。

あなたからは、いいものが出ている。それは存在するだけで溢れていて、止めようがない。だから怖がらず、いろんなものを受け取り、放って欲しい。結果はいらない。結果はあなたがここに存在していることで十分出ているのだ。

いいものが出ているんだから、何をしたっていい。いいものが出ている自分は何がしたいのか。ゴミを捨てたい、ご飯が食べたい。お金を使いたい。お金をもらいたい。それら全て行動してみてほしい。一見物を大事にしない自分として映るゴミ捨ては、収集の人の仕事を生み出している。ものがない空間には、新しいものを取り入れたくなる。取り入れるためには買い物に行く。お店はあなたが来てくれて嬉しい。物は作った人が見たら買ってくれたあなたに喜ぶだろう。物はあなたに触られて、存在することができている。これをするために受け取られたお金、支払われたお金も、また誰かが同じように幸せを放つことができる。

恋愛に例えてみよう。嫉妬という気持ちは醜いから持ってはいけない。と一見見える。でも、あなたがどんな形であれ相手を思い浮かべるということで、相手が幸せになるとしたら。嫉妬だっていいものが出ている。存在を思い出してあげることが出来ている。じゃあ忘れてしまったらいいものは止まってしまうのか。それも違う。忘れたことであなたにも相手にも新しいスペースができる。そして新しい出会いが生まれる。ではずっと相手に執着していることはいいものが止まってしまうのか。それも違う。今相手を必要としている、ということは自分の心に触れている。相手にも誰かに必要とされた経験を与えている。いいものでしか、ないのだ。これらを全て、自分が毒であると思っていたら「毒のせいで人に迷惑をかけている」に切り替わる。全く同じことが起きていてもだ。

自己肯定とは、自分を毒だと思う生き方をひっくり返そう。ということだ。人は人生のスパイスとして、自分を毒だと勘違いすることがある。それもまた、経験として素晴らしいことだ。毒を勘違いだと知ると、毒だと思うことすらも、いいものを与えていると変換することができる。それだけ、肯定というのはすごい力を持っている。否定に肯定が負けることはない。なぜなら世界は愛でできていて、本来の姿は受容であるからだ。

自己肯定感についての本をたくさん読んできたと思う。それらは全て、あなたから「自分は毒である」という勘違いを外すために存在している。いくら読んだっていい。自分が変わってないような気がしてもいい。勘違いが外れた爽快感のために、あなたは今、毒と勘違いしているだけだ。

あなたからは毒だと思い込んでる今だって、絶えずいいものが出ている。

だから、なんだって大丈夫。これでいい。

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