外国ってなんだろう

最近外国の動画みることが多くて、外国について考えてみたくなったのでだらだら書いていく。

韓国、中国などの国は外見の見た目的に日本と一緒だし、中国では原神とかその辺のソシャゲが日本でもめっちゃ流行ってて親しみがある。僕も軽くやってみた感じとして若干会話の雰囲気が日本の文化と違うかな?と思うくらいで、そこまで違和感なかったし、神話の話とかはちょっと良いなって思うこともあった。日本では神話とかあんまり扱わないイメージあるんだけどどうなんだろう。ポケモンもダイパとかでは伝説のポケモンの神話とかあった気がするしなんか好きだったんだけど、最近のポケモンには失われてきているような気はする。ギラティナを捕まえるのに空間が歪んだ世界を探索するのめっちゃワクワクした記憶あるんだけど、伝説のポケモンがコモディティ化してしまいそういった体験は失われてしまった。でもどちらも「日本のポケモン」ではある。ポケモンも原神も、発祥地はそこだけど、海外のユーザーを取り入れるために自国の色を濃くしすぎないように、違う文化の人でも理解しやすいようにしていると思う。だからそこに「日本的」「中国的」なものを見出すのは、様々なノイズが混じっているので難しくなってきている。

「これが日本の文化だ!」と誇れるのは、わびさびとかアニメとか歌舞伎とかあると思うけど、それがあるから日本にいるかって言われるとうーんって感じだし、別に日本以外でもネットがあったり茶室をつくれば楽しめるものではある。僕は大阪に住んでいるのだが、別に都会にほぼ出向かないからぶっちゃけ長野とかの田舎に家ごと引っ越せるならそれに越したことはないと思うし、フランスのオシャレな街並みを散歩したいと思う。

言語と距離の壁がでかいだけで、もしみんなが日本語を喋ってたら、外国の文化にも興味がもっと持てたかもしれない。外国の動画を見てると、字幕でしか情報をくみ取れないため、微妙な言語のニュアンスが伝わりずらく、若干距離があるように思える。外国って子供の頃は、全然違う価値観で全然違う文化を持ってる人達だと思ってたけど、本を読んでいると、別に日本人か外国人かなんて関係なく共感できたり面白かったりするし、遺伝子の違いって少しはあるにはあるんだろうけどそこまで違いはないんだろうなと思ってきている。日本人同士であろうが日本人と外国人であろうが、人間の遺伝子構造は99,9%一緒ってchatgptが言ってたんだけど、そうとは思えないくらい僕らは人と人との間に距離を感じて、差別したりするという謎の習性がある。例えば街中で黒人が道を歩いていたら、なんか強そうとか怖いとか思っちゃってちょっと身構えてしまうし、目が青い人を見たらどこか冷酷な感じがするかもしれない。中身はほとんど変わらない人間なのに。

日本の中でも「多様性」という言葉がめちゃ流行っているし、インターネットでもいろんな界隈があって価値観がある。その日本の中の「多様性」と、外国をも含めた「多様性」に、どのくらいの違いがあるのだろうか?

例えばこの動画、スピリチュアリティ好きな僕はめっちゃ良いなと思ったんだけど、日本でこれが何故できないのだろうか?

洞窟を掘ってその中に寺院をつくる、生命の神秘を感じる、自分の内面と向き合う、コミュニティで助け合って生きる、自然と一体になる、瞑想をする、宇宙との繋がりを感じる、アートを創作する喜び、全て日本人の心の中にもあるものだ。でも、その心がありながらも、その生活をせずに別の生活をしている人がほとんどだし、最近の日本の宗教イメージはすこぶる悪いことから、そういったスピリチュアルな才能があるにも関わらず、それを最大限発揮できずにいる。

動画でも言ってるけどこの組織をつくりあげるのは大変だったらしい。政府に内緒で違法で洞窟を掘って、それについてくる信者を獲得して、コミュニティに所属したいと思わせて、勧誘によって繁栄して、一歩間違えると現代の日本の新興宗教みたいなのになりそうだが、動画を見る限りそこまで狂った宗教ではなさそうだし、教えをただ守るとかではなく創作とか開放的なことが好きな人達なんだなって感じで好印象だ。「一回ここを出て違う生活をして、またここに戻ってきたいか考えさせる」とか言ってるし、洗脳させて金に換えようとかそういう意志では動いていないことが見て取れる。何故日本にこれができないのか?また他の国でもできなくて、なぜイタリアでのみ生まれたのか?それはひとりの「天才」による所業なのか?それとも他の複雑な要因が絡んでいるのだろうか?これをモデルに、日本にこの組織をつくるためには何が足りないのだろう?

僕が外国に行きたくない理由として、保守的な心理が働いているからっていうのと、外国は怖くて日本は平和だという見聞を聞いて育ってきているからっていうのがあると思う。上記の動画の生活は魅力的だなとは思うが、でもいきなり異国の僕がこの組織に入っても馴染めるか不安すぎるし、文化とか価値観も違うから新しい人間関係のマニュアルみたいなものを学習し直すのがめんどいなと感じるし、それをサポートしてもらうには言葉の通じない外国人に聞かなきゃいけないというハードルもある。

最近では「異世界転生もの」が流行っているが、ここに日本的なものはあるのだろうか?日本から見た「異世界像」と、外国から見た異世界像は違うから、日本の文化との差異という視点で異世界を捉えるということで日本的といえるかもしれないが、異世界で生活をするわけだから、日本的な要素が主軸ではないことは確かだ。日本のアニメといえば妖怪をテーマとした「夏目友人帳」とかがあるけど、らき☆すたとかけいおんの「日本人が憧れる学園生活」も、日本的といえるのかもしれないと直観で思った。異世界転生が日本的に見えなくて、らき☆すたが日本的に見えるのは何が違うんだろうか?

アニメもエロゲも、10年前、20年前、30年前と見ていくと、ビジュアルや作風が全然違うと感じる。数百年さかのぼると万葉集とか浮世絵とかちょんまげとか今見ても何が良いんだと思える文化がたくさんある。着物は「日本の文化」だとかいうけど、今誰も着物着てないし、アニメも時代によって作風が変わるし、その文化の変化が、現代の新興宗教から上記のイタリアの宗教みたいに変わるかもしれない。日本的なものから日本的なものへのジャンプと、日本的なものから外国的なものへのジャンプは、どっちも日本という地でできることだけど、その違いに僕達はどれくらい自覚的なんだろうか?アニメの作風の変化は日本的なものをどう変化させているだろうか?外国のゲーム「原神」では何が足りないのだろうか?

言語化されてないし書籍化もしてないけど、配信者の中でも文化が全然違う。過疎配信者とリスナーの関係、閲覧50人くらいの小規模な配信者のグループ、ホロライブ、にじさんじ、雰囲気が全然違う。10年前のニコ生と今の配信では文化はまるで違う。でも全て日本のものだ。このうちひとつが外国語で喋られていたら、多分触れていなかっただろうし、勉強的な視点で「へぇ、外国ではこういうのが流行ってるのか」と俯瞰してみていたかもしれない。

Vtuberなどは、言語の壁をこえていろんな国の人が出てきた。同じように日本は、外国の文化をどのように輸入しているだろうか?仏教、キリスト教、漢字、K-pop、洋楽などいろいろあるだろうけど、「この外国の文化めっちゃ良い!!」っていうのはあまり無いように思える。仏教とかも、産まれるずっと前から日本にあるから、外国的なものだとか思わない。最近出てきた文化で外国的なものにエモさを感じたものってなんだろう?

音楽とか外国のを聞いてたこともあるけど、やっぱり僕は日本人がつくった音楽の方がしっくりくる。アンビエントとアニソンとV系を主に聞くのだが、後者二つは日本発祥だ。言語がわからないと歌詞とメロディーの関係から音楽を聴けないから、そこがネックなのかもしれない。今好きなアニソンが英語で歌われていたら、好きになっていたか怪しい。アンビエントに関しては抽象的だから、文化の壁を超えて響きやすいのだろうか。あとは、スカイリムのBGMとか世界観が好きだし、すごい豪華な教会の建造物とか見ると感動する。やはり「スピリチュアル」方面の完成度は外国の方が上回っているんだなと今気づいた。外国ではスピリチュアルが、日本と全く違う文脈で解釈されているのだろう。

アートや建築様式は、外国のものに感銘を受けることがよくある。有名なアートはだいたいパリとかだし、日本画に感動した記憶はあまりない。僕が慣れ親しんでいるものは、割合として日本発祥のものが多いけど、もし僕が外国に生まれたとしたら、スピリチュアルとかアートに触れる割合が増えていたかもしれないと思う。普通に田舎とかに住んでたら祭りとか農業とか虫取りに目覚めていたかもしれない。田舎の娯楽はセックスだけとか言うし、運がよく恋人ができたらずっとセックスしてたかもしれない。こうやって考えてみると、生まれる地、使える言語で人生って大きく変わるだろうなと思う。

10年前のクラスメイトが英語で今の自分に喋りかけてきたら、全然心開けないような気がする。同じ日本でも、価値観が違う人と話すのには一苦労だったりする。古典と今の言語は違うし当時の人が何を考えていたかよくわからない。iPhoneとかYouTubeとかは外国製だけどそんなことを気にせず使っているし日本の製品を応援しようとかない。日本の政治に多少興味はあるけど外国の政治にはほとんど興味がない、でもアメリカがテクノロジーにどう規制を入れるかで僕の未来は全然変わってくる。日本円の価値の変動によってコンビニの商品の値段も変わる。日本語でもわからない単語はたくさんある。外国語でしか表現できない言葉もある。育った環境、見てきた風景はみんな違う。

日本の文化も好きってだけで、外国で生まれたらその外国の文化を好きになってた可能性はめっちゃ高い。100年前の日本の文化がある意味外国の文化に見えるように、これからの時代の変化と共に好きになるコンテンツも変わっていくだろう。その時過去の好きだったものはどのように色あせていくのだろうか。新しい日本的なものは外国とどのように違うのだろうか。同じ日本人であるという絆はどれくらい深いものになりえるのだろうか。自動翻訳によって、外国との境界はどのように変わるのだろうか。外国人と友達になれるだろうか。外国人でも日本人でも関係ないという世界はどう実現されうるのだろうか。

言語の壁、空間の壁が超越されたら、もっとこの世界に好きなものがたくさんできるかな。

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