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重くなって背負えなくなって苦しくなって自滅する前に。色々手放そう、私。

書くことにもエネルギーがいる、と最近思う。noteを書くことはとても好きなのだけれど、私はきっと心が安らかな時でないとパソコンに向かえない。書こう!というエネルギーがそもそも湧いてこないのだ。

前回の投稿が10日前。

こんな記事を書いた。

私は心の振り幅(オンとオフというのか)それが極端な方であることは自覚している。興味を持てば一気にオンへ針が振れ、興味を失えばオフへと針がブンっと振れて戻る。この記事を書いた後はそんな感じだった。

何でも緩やかに続けてトライしていける人の方が、きっと色んな方面で伸びていくのではないかと思う。針の振れ幅が小さい人。

熱しやすく冷めやすいという言葉が私にはピッタリ当てはまる。常に針がブン、ブン。20〜30%くらいを触って辞めてしまったものが多くある。良く捉えれば”新しいことに次々チャレンジしていく”だとか”好奇心が旺盛だ”とか言い方はあるのだろうけれど、根っこがネガティブなせいか、あまり自分の性格をプラスに捉えられたことはない。


そんな私の性格だからか、オンの方にブンと針が振れた時の行動力とかエネルギーはすごい。その中で本当に”私自身”にぴたりと当てはまるものがあれば、エネルギーを持続させることもできる。

多分そうして当てはまったものが、私には『韓国語』という言語だった。

韓国語の勉強が好きといっても、全てに力を注げるわけではない。韓国語を話すことよりは、理解をする方が好き。その韓国語の文がどんな単語・文法から構成されているのかを知ることが好き。あと大事なのは、おそらく私はがある方が良い。

今書きながら思ったのだけれど、韓国語の文章を解読していくことよりは、韓国語のセリフ・歌・話している言葉を聞いて”韓国語として”理解をしていくことが好きなのだと思う。日本語を介して訳して知るわけではなく、韓国語を韓国語のまま、単語も文法も韓国語のニュアンスとして知りたい。多分それが私の中の知的欲求なのだと思う。


最近針がオフに振れていて、書くことから遠ざかっていたのだけれど、こうして書きながら分かることって多くあるなと感じている。それが手書きにしろ、こうしてパソコンに向かって書くにしろ、書く前提として思考の整理が必要になる。

そういう機会を自ら持てている人って、案外少ないのかもしれない。ありがたいことだ。この環境も、書くことが好きである自分にも感謝をしたい。


自分の知的欲求の本質をこうして解明していくと、映像翻訳はやはり私の欲求を満たすものとは少し離れている気がする。離れているという事実を私の心が作り出したいだけかもしれないけれど、まあ今回は心に従うとして。

しかしこれも色んなことにトライして分かった結果=副産物であると思う。

韓国で暮らしてみなければ日本がいいとは思えなかったかもしれないし、翻訳の仕事をかじってみなければ違和感には気付けなかったし。それを人生の失敗とするか、人生における一種の実験とするかは捉え方次第だ。できれば私は後者として捉えたい。捉える努力をしたい。


一つ嬉しいことがあった。この前韓国に行った時、最終日に一人でマッサージを受けに行った。そこの店長さんと施術の先生と話したのだけれど「発音がいいから韓国人かと思った」と初っ端に言われたのだ。

ええー、めっちゃ嬉しいんですけど!!!!

韓国語が上手だと言ってもらったことは何度かあったけれど、発音がいいとピンポイントで褒めてもらうのは、それを上回って嬉しかった。店長さんが先生に対して「もう日本人じゃなくて韓国人だよ。フリートークで大丈夫!」と言ってくださって、それもまた嬉しかった。多少のお世辞があったとしても、本当に嬉しかったし勉強していてよかったと思えた。


「好き」は「好き」だけで、何かどこかで使える時が来るんだし。あまり重く考えて崇め奉る必要もないのだなと思う。全てに理由を付けようとするから、重くなって背負えなくなって苦しくなって自滅するんだ。(分かったか、私!!)

「好き」が「嫌い」になってしまわない程度に。「嫌い」になったら「好き」に戻すにはかなりの労力がいると思うから。理由はなくていい。それに「好きだから」は立派な理由になる。

と、自分自身に言い聞かせながら終わりにします。


今日はこの辺で。

Thanks to snafu_2020様

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