【小説】電車は急に止まれない

 ポクは今日も快速に乗れなかった。車両が勢いよく遠ざかっていく。たまにはゆっくりじりじりと行ってもいいのに、と思ってみる。しかしなんせ彼は快速なので、そうも行かないのだとポクは思い直す。セキニンカンが、あるのだ。快速に限らず、電車には。今日もそれは拭えなかった。
 ポクは自動販売機の横にある穴に捨てられたペットボトルの行方を思いながら、階段を下りた。通勤ラッシュを少し過ぎたくらいの時間帯で、改札には人が疎らだ。汚れたスニーカーをずるずると動かしながら、ポクは改札に向かう。また乗れなかったので、改札から出してください、とポクは、駅員さんに伝える。
 駅員さんはみんな、ポクのことをよく知っている。ポクが改札に寄ってきただけで、顔を窓口から覗かせる。ポクを見ると、露骨に息を吐き出す。またですか。いい加減にしてくれませんか。でもそれ以上は言わない。ポクは一駅分の切符を持っているし、なんてったって家のジジョーってのがある。だから、その切符を渡してしまえば、それでオーケーだ。何がオーケーなのかと言えば、ポクがしっかり一日一日の生活を刻んでいるという証拠になるということだ。日付スタンプのようなものなのである。
 それに一人だけ、ポクに低い息を浴びせない駅員さんもいる。主に東西線のホームに立っている、湯島さんである。湯島さんは、卵みたいに真っ白でつるつるした肌をしている。五十代を過ぎているらしいが、それを感じさせるのは目尻を歩く烏の足跡くらいだ。卵みたいなおじさんだけど、卵に近過ぎておじさんに見えない、それが湯島さんである。そんな湯島さんがいるからポクは、東西線のホームを気に入っている。本当は中央線の快速に乗らなくては行けないのに、各駅停車どころか、行き先の違う東西線のホームについつい行ってしまうのは、湯島さんに会えるからだ。湯島さんはいつだって笑っている。前歯の抜けた口元には愛嬌が詰まっていて、ポクを見かけると、おぉ、ポクちゃん、と手を振る。
 乗客たちの、また別の駅員さんの白い視線を集めても、湯島さんは気にしない。ポクは、車のエンジンをかけるような動作で手を振り返してみる。手を振るという動作は、ポクが行うといつも不恰好になってしまうから嫌いなのだ。それでも、湯島さんは笑みを浮かべてくれる。卵が割れるように。しかしヒビが綺麗なので、それは痛々しくない。
 湯島さんだけではなく東西線そのものも、ポクは大好きだった。乗ったことはないけれど、そのブルーとグレーで構成された車体は、霧の立つ沼のある駅とか、そういうところにきっと連れていってくれる。辿りつくことができる。ポクにそんな気ばかりを起こさせた。霞ヶ関駅なら、他の線にあるよ。後、霧が丘っていうのもある、と湯島さんがいつだったか、教えてくれた。

 ポク、とはポクのあだ名で、どうしても舌がうまくまわらず、半濁音のついてしまう一人称が由来だった。ポクの舌はポクに限らず、うまくまわってくれないことが多いので、ポクは両親のこともおかさん、おとさん、と呼ばざるを得なかったし、おかさんもポクのことはポクと呼んだ。唯一おとさんが、ポクのことを「君」と呼んだ。それはある種意地とも思える頑なさだった。

 ポクが快速に乗っていた頃、ポクの隣には高中くんという男の子がいた。高中くんは中学校の同級生だ。私立のカクカク中学校に、ポクと高中くんは一位、二位の成績で合格した。それをきっかけにポクたち、ではなく、ポクのおかさんおとさん、そして高中くんのお母さんお父さんが、仲良くなった。その仲の良さは、風船のようにだんだんと膨らんでは、いつか破裂する予感を孕む仲の良さであった。しかし、今度はそれをきっかけとして仲良くなったポクと高中くんは、平坦で何もない道を駆け続けられるような仲の良さを手に入れた。クラスメイトはポクたちを、「親友」と呼んだ。
 高中くんとポクは最寄り駅が同じだったから、いつも駅の前のコンビニで待ち合わせて、快速が停まる駅から快速が停まる駅へと乗り継いでカクカク中学校へ行った。
 カクカク中学校も、あだ名だ。それも、ポクと高中くんしか呼ばない類の。五時間目が終わった後の、英会話で疲れ果てた口も乾かぬひと時に、うちの中学校は、校舎も中の人間たちも、角ばっているね、という話をして、少し間が空いた後にわつわつと笑いあったのがきっかけだ。五角形の頭をした先生。三角形の生徒たち。そして四角形の校舎! そんなことを言い合ううちに、ポクと高中くんには、共通の意識があることがわかってきた。そして指切りと同時に『ふにゃふにゃ』同盟が結ばれた。カクカクの対義語を考えたときに初めに浮かんだのがそれだったので付けられたが、あまり二人ともそのネーミングは気に入っていなかったので、ポクたちは、同盟を結んでいるんだ、という意識だけを重要視することにした。そして放課後に、皆が帰った後の教室で、黒板を贅沢に使って、お約束(ルール、だと響き的に重苦しいと判断された)の箇条書を作成した。
 そのいち、焦らない。
 そのに、勝負しない。
 そのさん、やりたいことをする。

 その他にも何個か上がったが、全てこの三つに集約できそうな内容だったので結局絞られて、これだけになった。そして最後に、ポクは、『以上のように、生きること。』と締めの言葉を書き込んだ。高中くんがぱちぱちと軽く手を鳴らした。ポク、ナイス。高中くんのラクダのように長い睫毛が揺れた。その瞳はそれほど大きくないのに、その黒線の艶やかさで強調されて、ぎらぎらとした眼差しを感じさせた。ポクと高中くんは、二人で、息も切れそうなくらいにハイになっていた。その空間に、陥っていたと言える。人生においてとても大事なことを定めたような心地が、肌の表面からぶつぶつと炭酸の泡みたいに浮き上がっては、はじけていた。

 ポクはその日家に帰り、真っ先にそれをおとさんに報告した。おとさんはそれはそれは渋い表情をして、あのね、と咳を切るように話しだした。ポクはあのね、の先を聞いてはダメだ、少なくとも今は聞きたくないな、と咄嗟に感じて、机の上に置かれた食器を台所へ運びながら、うん、と答えた。おとさんはがちゃがちゃという食器の音には全く気にせず、続ける。

「そんなに、中学校が辛いのか」

高中くんが一緒だから、辛くなんてない。勉強も面白い。

「じゃあ、どうしてそんな約束を?」

 ポクは少し迷う。スポンジに洗剤がだんだん浸透していく。
予防線だよ。ポクは本質的にはどうしようもないから、いつ崩れかけても、のんびりできる隙間が欲しいんだ。

 どうしようもない、という言葉におとさんはぴくりと眉を動かして、渋さに悲しみを溶け込ませるように首を軽く横に振った。そしてポクに近付き、どうしようもない、か。と疎らな息を吐いた。

 どうしようもない。おとさんも、思うでしょう。

「君が君をどうしようもないと思うことと、お父さんが君をどうしようもないと思うことは、全く違う話なんだ」
 おとさんが、ポクの肩を鷲掴みにしてそう言った。ポクは、おとさんとばっちり視線を合わせているのに、どうしてもそこに吸い込まれることができないことに苛立っていた。ポクに。おとさんに。どちらかに。どちらもに。

 高中くんは、中学三年生になったばかりの五月に、死んでしまった。重度のピーナッツアレルギーで。それも、生まれたときから厳重に避けていたピーナッツを、缶ごと購入し、さらにそれにピーナッツバターを塗りたくったのを食べて、中毒死したのだという。中毒死という名の自殺だと、当たり前のように噂された。進路相談の日は学校に行きたがらなかったんです、と高中くんのお母さんはわぁわぁ悔いるように泣いた。担任の先生は呆然としていた。でも、ポクだけは高中くんが自殺ではないと、確信を持って思っていた。だって、同盟を結んでいたのだから。同盟の、お約束。そのいち、焦らない。そのに、……以上のように、生きること。ポクは自分で書いた締めの言葉を思っては、最後に教室をでるときに、黒板消しで消したときの感触を思い出していた。ノートに書き取ってもう保存済みだったし、明日には教室に皆が来ちゃうから、消すのは当たり前のことだったんだけど、それでももう少し、何度も見返して噛みしめるべきだったのかなあと考えた。いやしかしでも、高中くんはちゃんと理解していたはずだから、あれはやっぱり事故なのだとポクはいつも結論付ける。ポク、ナイス。ポク、ナイス。海馬の中で、高中くんが繰り返す。振り返る。ポクは目を回す。

 連鎖のように、はたまた当たり前のように、おとさんもその年の十一月に、死んでしまった。こちらは交通事故。仕事で峠を越える途中、カーブでブレーキを踏み外して、崖から落下。その状況報告を初めて聞いたとき、ポクは頭の中でレゴブロックを思い描いた。おかさんは、病室でおとさんの亡骸とポクの手を片方ずつ握って震えていた。おとさんの手を両手で握ればいいのに、もう、後少しの間しか握れないんだから。それに直列回路じゃないんだから、こんなことしても電流も流れやしないよ。ポクはおかさんにそんな文句をいくらでも言いたかったけど、それよりも涙が止まらなかったので、物理的に何も言うことができなかった。これがもしかしたら、不浄なものを流してくれる涙というやつなのかもしれない、と一瞬思ったが、頭の中にずっしり溜まっていった重い重い意思の塊が溶けそうにないので、いや違うな、と一人で思い直した。

 ポクは今日も巡回バスに乗る。それは高中くんと一緒に快速に乗っていたときと同じだ。ポクは家から最寄り駅まで、市の巡回バスに乗っていた。巡回バスには、まだ乗ることができる。巡って回ると書くからだろうか、進まないし戻らない、安心感がある。しかしそれでも駅に着いたポクは切符を一駅分買って、駅の改札を抜ける。そしてやっぱり、快速に乗らなくてはいけない。

 高中くんとおとさんがいなくなってしまって少したった頃、ポクはそれまで朝と夕方、行き帰りで乗っていた電車に乗れなくなった。乗る前から激しい乗り物酔いのような症状が出て、朝、酔っ払いのように駅のトイレを汚したのだ。それまでポクは、車に乗ろうが船に乗ろうが乗り物酔いなんてしたことはなかったのに、それは紛うことなく乗り物酔いに違いない、という自覚があった。そしてそれから数日間、学校を休んで家に転がりながら、ポクはふと考えた。ポクの周りの人たちはどういうタイミングで皆消えていくのだ、ということを。おとさんも、高中くんも。そして、その消えるというのは、義務を済ませた人の特権である、と気付いた。

 ポクはホームを歩き回る。黄色い線の内側のぎりぎりを、直線的に。あ、快速がまた一本抜けていった。その後は回送が。全部が全部トンネルに消えていく。ポクはそれをじっと見ている。鼻の頭をつねるのが癖のおねえさん。マスクはせずに咳をするサラリーマン。辞書を持ち歩く子ども。ポク以外の皆が、快速に吸い込まれていく。

 その義務を済まさなければ、自分で消えようとしない限りは消えないんだ。と考えたとき、ポクは快速に乗らなくてはいけない、という使命にかられたのだった。快速に後何度かはわからないが、何度か乗れば、きっとポクはそのカルマのノルマを達成できる。そしていつか、運転時間調整の一分間とか、乗り換え待ちの二分間とか、そんな隙間に身体が巻き込まれ、消えて行くことができるのだ。そうに決まっている。高中くんは、ポクの知らない間にきっと、いっぱい進んだのだろう。だからポクよりずっと早く、隙間に入り込めた。おとさんは、きっとポクのためにもう少し進む気だったのだろう。しかし、進む意思が強すぎて、急ぎすぎたんだ。だからポクは、それらの極端な例に習いつつ、計画的に進む必要がある。

 そのいち、焦らない。
 ポクは、中学三年生の冬に、高校生になるのをやめたい、とおかさんに言った。今の状態じゃ、なろうと思ってもなれないと思うんだ、と言った。それはぎりぎりまで粘って出されたポク自身の決断だった。ポクはそのとき、生まれて初めて激昂というものを見た。おかさんは、言葉になっていない言葉を、唾と一緒に弾き出し続けた。そして初めて、ポクは自分がおかさん似だったということを知った。舌の所作や、文句の言葉遣いがそっくりだった。

 そのに、勝負しない。
 受験はどうするの、とおかさんが辛うじて聞き取れるくらいの声で言った。それはもうポクにとっては、一段階前の疑問だった。しないよ、と言った。もう快速には乗らないことにするんだ、しばらく。電車の話なんか今はしてない、とおかさんがまた叫びだした。その口論の三日後くらいに、おかさんは三時のおやつに、とリビングのサボテンの棘を好んで摘まむようになった。

 そのさん、やりたいことをする。
 好きにしていいのよー、とおかさんが言った。ポクには、スキニシテイイノヨー、と聞こえた。インコかオウムみたいに、繰り返していた。ポクの家には、お手伝いさんと、親戚のおじさんの出入りが増えた。スキニシテイイノヨー。スキニシテイイノヨー。
「あなたの、好きなように生きていいの」ふと、ポクは小学生の頃におかさんに本当にそう言われたことを思い出した。しかしそれが「あなたは、幸せになる存在なの」に変わった頃、もうポクは塾に通っていた。好きなように生きることと、幸せになることは違うのだと思った。その頃から今まで、おかさんはずっと笑っている。わは、わは、わは、と笑うときもあれば、うふふふ、と笑うときもある。その笑いを見ると、ついついポクは湯島さんの笑顔と比べてしまう。おかさんの笑顔には、なにもかもが圧倒的に足りないし、それに加えて余計なものが多い。湯島さんは外に笑うけど、おかさんは内にしか笑っていない。全く違うのに、それを続けていく気でいるのは二人とも同じだ。

 次の日もやっぱり、巡回バスに乗った。いつもそのバスは、二、三分遅れて駅に到着する。ポクは慣れた手つきで切符を一駅分買った。券売機の一番左端。左手の人差し指の第二関節ががさがさに荒れていたので、切符を右手で取りつつ、左手にはそのまま軽く唇をあててみた。
 改札を通り抜けると、何かがおかしいことがわかった。それがポクにはなんなのかよくわからなかったが、東西線の纏う雰囲気が原因だということだけはわかった。ポクは階段を上り、いつも気持ちの良い場所に運んでくれるような気持ちのするホームへと降り立った。しかし、端から端へと見渡しても、湯島さんの姿はなかったし、今日の東西線は、いつものようにブルーとグレーだったけれど、どうやっても霧立ち沼駅には停車しなそうに思えた。ポクは一度他のホームも見てみようと思った(この見回りはポクが普段もやっていることで、今日に限って特別なことではない)のだが、階段を上ってくる駅員たちの会話で、足を止めた。

 湯島さんもさぁ、可哀想に。脳溢血だって? でもさぁ、元々どっかおかしかったじゃんよ。うん、おかしかった。止まってたよな。ていうか、遅れてるんだよ。いっつも上の空だったし。……なぁ、おかしいってなんだろうな。それは何もかものことだよ。何もかも? だから、人間じゃないってことだろ、多分。

 一度耳小骨を意識するように首を撫でてから、ポクはその雑音をかき消すように、階段を駆け抜け下りた。たん、たん、だだ、と時折足が滑ったが、止まらなかった。改札も、切符だけをカウンターに置いて、飛び越えた。中型犬の唸り声のような罵声が後ろから聞こえたが、振り返らなかった。駅のロータリーには鳩の糞がびっしり落ちている。乾いたそれらを踏み抜けて、乗り場のタクシーをすり抜けた。巡回バスに飛び乗って、心臓を落ち着ける。巡回バスは、さっき乗ったのと全く変わらない。だから息が、こんなにも落ち着く。
家に到着し、鍵が二度もうまくはまらなかったのに苛立ち、でインターフォンを連打した。おかさんは、無感情でドアを開けてくれた。

 おかさん、おかさん、とポクは大きな瞬きを意識しながら呼びかけた。

「ポクたち、本当に引っ越すの?」

 おかさんは首だけをこちらに振り向き、砂を撫でるように穏やかに微笑む。机の上には、書類が何枚もまばらに重なっている。ポクの部屋のタンスの中身はもうほぼ段ボールに詰め込み終わった状態だ。

「なんかね、ポク、もう大丈夫みたいだよ」
 ポクは嘘を吐いたとは思わなかった。でも、その大丈夫、に含まれているものはポクにもよくわからなかった。おかさんがくしゃみをするように笑って、むしゃむしゃと手にまとった棘を食べた。
 はてさて、湯島さんは、もしかして今頃霧立ち沼に着いているんだろうか。高中くんの長い睫毛は、どのくらいの期間で砂になるんだろうか。おとさんは、土の中でどうしようもなくなっただろうか。それとも、おとさんがどうしようもないと、ポクが思わなければ、いいのだろうか。

 その日もポクは勿論駅に向かった。熱中に照らされどことなくふやけてしまったように見える皮のショルダーバッグを持ち、歩くと靴紐が自然と取れてしまうスニーカーを履いて。駅前の桜はもうとっくに散ってしまった。駅の連絡通路には、視覚障害者の杖の音が響く。一秒ごとに地面を探し求めている音だ。彼らはいつだって、その前の一歩が落とし穴だという想像を絶やさない。ポクはそんな人たちの背中を、押してみたい。膝をついたのを見計らってその杖を奪ったなら、彼らは落ち続けることを恐れて止まるのだろうか。それとも、やっぱり手で地面を探るのだろうか。ポクなら、とポクはじぶんの足元を伺い見た。例え目が見えなくても、この駅の中ならばそこに地面があることを想定して、歩き続けることができるのではないか、と単純に思った。何度も何度も歩いたここなら、と。中央線快速のホーム、中央総武線各駅停車のホーム、東西線のホーム……全て知りつくしている。さらに、ポクは知っている。もう快速には二度と乗ることができないということを。ポクはもう進めないということを。さらには、進めなくても、同時に進んでしまっているということも。しかし、それがわかったからこそもう大丈夫なのだ、とも思う。誰にでもなく頷いて、ポクはホームへの階段を上る。黄色い線の内側へお下がりください。何千回と聞いたアナウンスが近づいてくる。そのときポクの頭の中で、おかさんと湯島さんの笑い声が初めて重なり合って、ハーモニーを奏でたような気がした。黄色い線の内側は、どっちだろうか?


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もっと書きます。