【小説】ユー・ウィル・キル・ミー

「椎名さん、一緒に人をころしましょう。いっぱい」

 高橋さんに殺人の誘いを受けたのは、女子トイレの中だった。二十五年間男として生きてきた僕にとっては、その時点で踏み入れてはいけない聖域に達してしまったというのに、さらに彼女は僕の手をがっしりと掴み取り、奥へ奥へと連れて行くつもりらしい。

 市の保険センターで、毎日のように山盛りに提出される個人書類を、名前と日付で並べたり、ときに抜いたり広げたりを繰り返したり、事務としてたまにカウンター業務をしたり、というのが嘱託社員である僕の主な仕事だった。学生時代アルバイトもろくにしなかった僕にとってその一つ一つの業務は、RPGのレベル上げみたいだ、と思う。最初こそ、コミュニケーション能力の欠片もなく何事にもおどおどしていた僕が、苦しみながらも成長していくのはひしひしと感じられた。初めて社員の人に褒められたときは少し感動して、帰りに夜道でスキップしてしまったくらいだ。しかし、細かいことを除けば大体の業務に慣れきった今は、さらなる進化の機会を求めながらもやっぱりダンジョンを進む勇気がなく、凄く弱い敵ばかりを丁寧に一つずつ倒しているような気分だ。金も、なんだかんだで使ってしまうから貯まらないし、堪らない。

 一つ変わったことといえば、弱小パーティにニューフェイスが参入したことだった。同じく嘱託社員として、高橋さんという若い女性が入ったのである。髪の毛は肩まで伸ばしており、色は僕の実家の和室にある箪笥に似た濃い茶色。化粧は薄く、パーツ一つ一つが柔らかい顔立ち。小柄で女の子らしく、人を和ませるような雰囲気を持ち合わせており、言い方は悪いけれど、それまでちょっとしたモンスターに進化しかけている妙齢の女性ばかりに囲まれた僕にとっては新鮮で、素直に可愛い生き物だなぁと思う。ちょくちょく髪型をさりげなく変えてくるのも、いい。個人的に一番良かったのは、シンプルにくくったポニーテールだ。自分の単純明快な好みが、たまに恥ずかしくなる。とにもかくにも、単純作業の中に咲いた花。ごはんにひじき並みの良い付け合わせ。僕の視線の行き場ができたのは喜ばしい。

「椎名さんって、漫画家志望なんですか?」

 高橋さんはいつも良いタイミングを見計らいながら、話しかけてくる。僕は一区切りついた書類の束を輪ゴムで止め、カゴに入れながら、苦笑いした。恐らく、神田さんあたりが面白がってべらべら喋ったのだろう。神田さんはスマートな容姿の体育会系人間で、漫画は流行り物しか読まないようなタイプだ。しーな、と甲高い特徴的な声で僕をよぶ。描いた漫画見せてよ攻撃には、ここに来た当時本気で参った。

「一応、描くのは、好きです」
 自分でも、なんだその返し方は、と思った。慣れたなんて言いつつも、対・可愛い子のコミュニケーションは、まだまだ発展途上中だ。

「えー、凄いです。今度読ませてくださいよ」
 僕はさらに苦笑いする。しかし続けて、どんなの書くんです? と高橋さんは訪ねてきた。

「うーん、少年系? って言ってわかる?」
「ジャンプとかですかね」
「そうそう。熱いやつ。でも恋愛とかもさ、こう、うまいこと組み込んであるみたいなさ」
 は、これ以上喋ったら引かれる、と瞬時に気づき、勢いよく顔をあげると高橋さんは特徴的な大きな垂れ目で俺を、監視するように見ていた。そしてうんうん、と頷きながら口を開く。

「一見熱いだけの物語に見せかけて、悲しい過去とか、伏線とかが詰まってて……実は暗い、みたいな話が好きですよ、私」
「わかる! あれ、読んだことある? 火星の日常が舞台の……」
「もしかして、『グロリア』ですか? 大好きです!」

 そこからはもう引かれるなんていう考え自体を忘れ、高橋さんと漫画の話をし続けた。途中でチーフの冷やかな目線が入り込み、中断してしまったけれど。しかし、その後、仕事をしながらもふと目を合わせるタイミングが何度かあった。その度に僕の心にはぽつぽつと菜の花が咲き乱れ、繊細で温かい風に揺られた。

 夕礼が終わり、僕と高橋さんは一足先にデスクを片付け、帰り支度をする。今日はまだ少し寒かったので、上着を着てきた。忘れないように、と廊下を抜け、ロッカールームへ向かう。高橋さんがこつこつと、低めのヒールを軽く鳴らしながら前を歩いている。男性のロッカールームと女性のロッカールームは、廊下を挟んで向かい合っていた。

「私も実は、小説を書くんです」
 高橋さんがロッカールームに入る前に、ぽつりと背中で呟いた。

「どんな?」 
 僕は思わず振り向いて、間髪いれず、その背中に問う。

「人が、いっぱい死にます」
 停止した背中。僕の正面でたたずむそれはそのまま口を開けて、けらけら笑ったように見えた。

「いっぱい。ムカつく人とか、嫌なやつとか。私の好きなように殺すんです」

 マンションの屋上から落ちてベランダの柵に引っかかったりとか、エレベーターを電子レンジみたいに温めて内臓破裂させたりとか、ハムスターを喉に詰まらせたりとか、

 高橋さんは念仏のように小声で唱えた。僕が鼻をすする音と、空調の奏でる機械音はどちらもそれには不釣り合いなくらい日常的だと思った。でも現実は間違いなく今この瞬間で、春の暖かい陽気のとある一日に違いない。高橋さんは職場に入って来たし、僕は花粉症なのだから。

 僕たち嘱託と、長くここに務める正社員の皆さんとの違いはおおきく二つあって、それは給料の額と、もう一つ、諦めだ。僕はまだ諦められないので、腹も立つし嫌にもなるし、漫画を描く。正社員の皆さんは、課長がいかに空気を読まずに発言しようが、それに対しておかしいじゃないですか、とは返さない。返せないのだ。ここに自分はずっといる、こここそが自分の死に場所なのだと、思っているから。課長の横暴に、さて今回はどう対処しようか、こういう処理をしたら課長は納得するかな。そう考えるしか選択肢がないのである。

 課長を見ていると、僕は恥ずかしくなる。絶対偉い人にはなるもんか、と思う。偉い人は、自分の発言がどんなに的外れであろうと、注意してくれる人がいないのだ。そんな状況、僕には耐えられない。

 みたいな話を、職場の人に初めてした。勿論、高橋さんにだ。会社を誰かと示し合わせて、一緒に出たのは初めてだった。あの日以来、僕と高橋さんの目が合う回数が明らかに増えていったことから、僕の脳内における様々なベクトルが同じ方向に向き直ってしまい、いつしか我慢できなくなってしまった。その結果が、この、誰にもしなかった話だ。普通、仲良くなろうとして、こういう話はしないものなのだとは、わかっていた。
 高橋さんは、非常に興味深そうに、頷きを何度も繰り返しながら黙って聞いていた。仕事からの帰り道は季節に似合わず風が冷たい。僕はちょっとだけ、手を繋いでしまいたい気持ちになったが、当たり前に踏み止まっていた。そもそも、彼女は時折メモをとっていたのだ。両手はふさがっている。
 なんとなく、何を書いているのかはわかった。僕も時折、高橋さんの話す単語や、語彙に興味深いものがある度にスマートフォンを出して、メモ帳を開いて走り書いた。二人が揃って黙る時間があったときに、なんだか僕はこの上なく楽しくなった。

「椎名さんの漫画、見たいです」
「僕も、高橋さんの小説が読んでみたい」言いあってみては、そこで終わる。お互い気恥ずかしいのだった。探り合い、押しては引く。

「前も言ったけど、私の小説、人死ぬんですよ。それも椎名さんの知ってる人が」
「そんなこと言われると余計気になるなあ。というか、興味があるというか」
「別に軽蔑してくれてもいいですけどね、純粋に、おすすめですよ。創作物の中で人を殺すの。メリットだらけ。誰も傷付かないし、すっきりするし、描写とかに凝るから文章力あがる気がしてくるし、悪意ないし」
「悪意ないの?」僕は驚いて、メリットの数だけしれっと指を折る高橋さんに思わず、待ったをかけた。
「ええ。あんまりないです。腹立ったなあって、結構軽い気持ち。煮えくりかえるまで溜めてちゃ駄目なんです。ちょっとむかってきたら、はい殺そ、それでオッケー、みたいな、感じです」
「物騒だなあ」オッケー、の響きや仕草は、小動物のようで実に愛らしいというのに。実際には、衝動物と言った方が近そうだ。
「例えば今日、椎名さん、神田さんに嫌な態度とられたでしょ? あれ腹立ちませんでした?」

 ああ、と記憶に相談するまでもなくすぐに思いあたった。存在感を消すのが得意な人に生まれたかった。間が悪いというか、隠れられない性質だ。
 今日も、朝のミーティング後、課長が席を外した後は愚痴が飛び交っていた。元々作業の効率化、ベクトル合わせのための会なのに、課長は細かすぎて伝わらないことを急に思いつき、その場で決めようとすることが多々あり、ミーティングに時間を取られてしまうわ、本来の目的だったはずの意思疎通がうまくいかないわ、で社員さんは眉をぴくぴくとリズミカルに動かしていた。そんな空気の中、白羽の矢が立ったのが僕だった。しーな、と近づいてきた神田さんが、昨日、終わらなかった入力作業のための用紙をぴらぴらとつまんで揺らした。元々僕が昨日、こなそうと思っていたものだ。しかし、他の仕事に追われ、就業時間ぎりぎりになってやっと手をかけはじめられそうな状況になった。嘱託社員にとって残業は、してはいけないもののような扱いだった。とはいっても、それは今日の午前中には終わってなくてはいけないものだったので、僕がその御法度の残業覚悟に手をかけようとしたら、それを見た神田さんが横から用紙を取り上げ、俺がやっとく、と言ったのだ。その用紙が今目の前にある。神田さんは、ため息を吐きながら言った。これ、やっといて。俺、暇人じゃないから。というか急ぎだから。早くしてくれよ。頼むわ。僕は、ええ? と言いかけたけれど、ええ。となんとか返した。自身の忙しさで昨日の会話を忘れてしまったのか、そうではなくわざと嫌味なことを周囲に聞こえるように言ったのか、神田さんならどちらもやりそうだなと思った。狐みたいに目を細め、口端を上げるのがとてつも
なく似合う人だ。

「あれはねえ、まあ、朝っぱらからなんだよ、とは思った。でも、元はといえばそもそも課長が、朝っぱらからなんだよ、なんだよね」
「課長なんてもう殺して当たり前ですよー。でも、あの追い打ちもなかなかですよ。あの人のああいうとこ、ほんっと病気みたい」

 私なんて入ったばっかなのに、神田さんとかもう何回殺したか、と他人事のように続ける高橋さんに、僕は思わず噴き出した。高橋さんの肩幅は狭く、淡いオレンジ色のカーディガンが華やかに目立っている。僕はその形を捉えながら、高橋さんという人間のことを知っていった。そして僕たちは、小説・漫画それぞれを持ち寄り、交換して見せ合うという約束をした。

 僕は家に帰ってとりあえず、ホームさんが凍死する絵を描いてみた。
ホームさんは、僕の住むマンションの近くのトンネルを寝床にしているホームレスのことだ。
 へそが目立つ人をでべそと呼ぶように、人はコンプレックスをそのままあだ名で呼ばれることが多いなぁと思い、じゃあ家がないことがコンプレックスってことだから、と僕が少しふざけつつ勝手にあだ名を付けた。

 ホームさんを見ていると、全体的に灰色がかった背景を想像するからなのだろうか、高橋さんと実在する人物を登場させることについて話す以前から、僕はホームさんの似顔絵だけはよく描いていた。トンネルの壁に寄りかかるポーズとか、しかめっ面を皺までしっかり模写したりとか。しかし、今日は違う。ホームさんはもう目を瞑っていて、それは寝ているのとは違うのだとわからせるように影と描写を工夫した。 

 ふと、僕には殺意ではなくて消滅願望なら昔からあったな、と顧みる。消えてしまえ。というやつだ。それが形になった結果、人を殺す「漫画」を、高橋さんの言うところの「軽い」気持ちで描いているということになるのだと思った。僕の机の上に筆記用具と共に常駐している紺のマグカップは、引っ越しのときに実家から持ってきたものだ。底はコーヒーの染みで茶色くなっている。新しいものが欲しくて何度か洒落た雑貨屋に行ってみたものの、結局何も買わず、これを使い続けている。気に入っているとかそういうことではないが、この世からこれが抹消してしまうのはなんだか惜しいのだ。僕自身もきっとそうで、この世が名残惜しいとかそういうのじゃないけれど、諦められなくて、何処かに必要とされている場所があるような気持ちだけが、奥歯の親知らずができるくらいの場所にほんのりと居座っていて、いつ疼き出すかわからないので、規則正しく生きてみたりしているんだ。肩を鳴らした後、僕はノートを広げて、漫画を描くときいつもそうするように、落書きを始める。手を動かしながらストーリーを考えるタイプだ。しかしすぐに、そもそも人ってどうやったら殺せるんだろう、という前代未聞に物騒な考え事が始まった。

 次の次の週の土曜日、僕と高橋さんの家の中間地点の駅の喫茶店で落ち合った。僕の描いてきた漫画を見て、高橋さんは手を叩いて笑ってくれた。正義の魔女・タカハシが、社員さんを野菜に見たてた怪獣を、魔法で本当の動かない野菜にしてしまう漫画だ――ちなみに神田さんは、色が黒く細いので、ごぼうである。――自分が主人公でなくていいのか、と高橋さんは僕に聞いたが、消滅願望がそんなに主体的なものではないと僕は感じていたので、いいのだ、と言った。交換するように渡された高橋さんの小説では、課長が目に牛乳瓶の蓋をはめられて苦しんでいた。

 そういう交換会を何度か続けるうちに、僕は変わってきた。高橋さんの作風のエグさに少し影響を受けた、というか、なんとなく人をどうこうすることに抵抗も躊躇もなくなった。所詮創作なので、と思うようになった。それに、アメリカのブラックジョークなアニメと同じで、簡単に人が死んで行く方がエンターテイメント性も高くなり、面白い。またその方がわかりやすく、高橋さんも大きな声で笑ってくれるのだった。
 会社ではクールビズが始まった頃、もう僕たちは駅には必ず二人で帰るようになっていた。社員の中ではすっかり、できあがっているという話になっていた。僕は、できあがる、の言葉の持つ意味について考えると、わけがわからなくなるのであまりよく考えたことがない。いつも各々が力を込め、締切にはできあがったものを持ち寄っている。そんな僕と高橋さんはできあがっているのかもしれないし、何度持ち寄ってもまた次を求める僕と高橋さんは、いつまでたってもできあがらないのかもしれない。長い直線を歩き続け、コンビニの角を曲がると駅が見えてくる。目を瞑っても歩けそうなくらい単純な道だ。高橋さんと僕は逆方向の電車に乗る。改札を通った後、高橋さんは僕に向き直り、水色のスカートを軽く直しながら言った。

「椎名さん。私、いや、私たちって、創作していますね」
「創作、して、いますね。はい」
「うん。そろそろ、雑誌に投稿しましょう」

 え、と漏れたのは声ではなく、息のみだったと思う。

「私たちって、創作したくて生きているじゃないですか。悪口を言っているときって、人はイキイキするでしょう。そのときこそ、人の真価が発揮されると思うんです。それに、お互いわかっていると思うけど、明らかに毎回力が上がってきています。だからそろそろ、二人で読み合うのは勿体ないです。だから二人で、それぞれどうでもいい雑誌に持ち込んでみませんか。それで私たち、馬鹿だーって言いあって、きっとすっきりすると思うんです。そうしたら、その後は、」
 もう人殺しを見せ合うのはこれでお仕舞にして、本来かきたい作品を創作して、真面目な意見交換会をしましょう。椎名さんとだったら、私、本気で挑戦したいと思えるし、切磋琢磨しながら頑張れる気がする。

 それを聞いたとき、僕は高橋さんのかきたいものとはなんであるのか、オタマジャクシの目玉程も想像ができない自分に気付いた。

 本気で人を殺し合うには時間がかかるということで、締切も長めに設定された。その期間中、僕と高橋さんは一緒に帰るのをやめた。殆ど会話もなく、仕事中も何か別のことに熱中しているような様子があった。そのくらい僕たちは、人を殺すのに必死だった。家でも勿論、じっと座って、手を動かした。テレビのニュースで、「夕飯の人参を残した」という理由で小学生の息子を撲殺した母親が取り上げられていた。僕はカリフラワーに似た主任をカッターでめった刺しにしながら、お茶をずずっと勢いよく飲んだ。僕は一心不乱に書き続けた。長編漫画を描くことに苦手意識があったのが嘘みたいに、筆が進む。描きながら考えるのは、これを完結させたとき、僕と高橋さんはついにできあがってしまうんではないか、という靄がかった期待と、アキレス腱が切れてしまうような不安だった。

 金曜日に二人の締め切りが迫った週の月曜日、高橋さんは会社を辞めた。原稿が仕事の書類に挟まっていたのを、キャベツによく似た女性社員さんに見つかってしまったのだ。高橋さんは少ない荷物をまとめて、午前中のうちに、では、と出て行った。その背中には、当たり前のようにヒソヒソ話が紙飛行機のように飛んで行く。気味悪い、頭おかしい、信じられない、訴えたら勝てるんじゃない、そんな軽い言葉がひょろひょろと、幾つも落ちて行った。そのうち、悪口の語彙が尽きたのか、何も飛んでいかなくなった。

  僕はというと、次の月から社員として働く話がやってきたのをきっかけに、大きく生活が変わった。仕事量も増え、長い漫画を描く時間や体力も確保するのがなかなか難しい。しかし、なんせ僕は漫画を描くネタに欠かなくなったので、描くのをやめることにはならなかった。今も僕は人を殺して、殺して、殺し続けている。

 高橋さんが会社をやめてから連絡は一度も取っていないので、たまにふと、今何をやっているのかなと気になることはある。しかし僕はだんだん、高橋さんのことを好きであるとか、いやそうではないとか、そういうことを考えることが非常に面倒になっていた。しかしそんな思いとは無関係に、高橋さんを物語の中で、陵辱することは頻繁だった。痛いと気持ち良い、のバランスを、一本の短編の中で簡潔に完結させるのがうまくなっていった。高橋さんのことを思い出すことは難しいけれど、高橋さんを作ることは簡単だった。強情な、死んだバッファローみたいなあの目つきとか、氷柱みたいな言葉使いとかをステータスに持ち、流水のように目の前を流れてしまう高橋さんでも、僕の物語の中ではすぐに簡単にかたまりになる。
 そんな僕はいつの間にか、諦めてしまったのかなと考えては、いや、何からだろう、とすぐにわからなくなったので、考えるのをやめた。寧ろもしかしたら、できあがってしまったのかもしれない、とも思った。引っ越しの準備のために段ボールを抱えてトンネルを歩く。オレンジ色の照明は夜更けの夢のようだ。ホームさんの寝床は気が付くといつの間にかなくなっていた。もうすぐ秋が終わるのに、トンネルよりも暖かい場所が見つかったとでもいうのだろうか。そういえば、『グロリア』の最終巻が来週発売だったことを思い出した。人気があったキャラクターが死んでから人気は鳴かず飛ばずになり、結局打ち切りに近い終わり方になったらしい。

「椎名さん、一緒に人をころしましょう。いっぱい」
 僕は女子トイレで高橋さんに追い詰められる僕を描いた。
「私たちって、創作したくて生きているじゃないですか」しかし、そう言われた途端僕はふと身をひねって、高橋さんの髪を掴み、便器の近くまで引きずる。お前のおかげで、こうなっちゃったよ、と僕は真顔で問う。高橋さんは悲しんでいるような、笑っているような表情を浮かべる。消しゴムをかける。この表情が、僕にはまだうまく描くことができないのだった。

 ペットボトルのお茶を飲み切ってしまったので、休憩がてら自販機に向かうことにした。仕事中にも関わらず進んでしまったプロット紛いの落書きは、こっそりとプライベートファイルの一番底にしまった。デスクの二段目の引き出しを一度見やって、席を立つ。締め切り前にしっかりと完成した僕の原稿は、まだじっとあそこに身を潜め続けている。




もっと書きます。