【殴られても殴り返すなという人たちへ 殴られたら殴り返せという人たちへ】


前提として、平和を望むのは、傭兵や戦争を商売にしている人以外は同じ。それは自分も変わらない。

でも、世界史は止まっていない。
血と国益。
自由と独立。

ロシアやウクライナの歴史を調べれば調べるほど。世界史を見返せば見返すほど。
過去も今もこれからも、人の血が止まることはないんだということは事実や予想ができてしまう。
外交は笑顔で右手握手をしながら、左手では背中に刃を忍ばせるともいう。
単にロシアを悪とするのではなく、単にプーチンを悪にするのではなく。
外国と陸続きになる国境を接していない日本にはわかりづらいかもしれない。
過去常ににらみ合いを続けている国同士のいざこざは、平和が前提となってしまっている僕らには理解しづらく、根深い。
ただ、実際に陸続きではないにせよ戦後中国やロシアなど大国ににらまれながら、米軍が駐在している日本も「対岸の火事ではない」と自分も再認識した。

核の傘という言葉もありながら、それが骨組みだけであるかどうかは実際のところわからない。
北朝鮮もオオカミ少年かもしれない。

いつ「あ、間違えちゃった」と本土にぶち込むかわかったもんじゃない。
でも僕らは「そんなことないでしょう」と根拠のない平和を感じて、今日も学校や職場へ行く。

でもそれはウクライナも同じなのかもしれない。
目に見えるところで爆発が起こって初めて「やばいことが起きている」と気づいた人もいるとのこと。

今の僕らにできることは、プーチンを悪にすることでもなく、ウクライナ国民に同情することでもない。
共感は分断に繋がるし、社会の理解や対話は万能ではない。

賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ。
これは、賢者になろうではなく、我々は愚者なのだから経験から学ぶ他ない、と僕は受け止めている。
事実を。世界史のど真ん中に生きているという事実を、肌身で感じ、こりごりだと学び、考え続けることだと思う。

「普通」を認識しなおすこと。
新たな「普通」を内側から構築しなおすこと。

だから、政治家が戦場に出向け、というのは僕は間違いだと言える。
政治家の仕事は軍に行くことではなく、戦争の後のテーブルにつくこと。
軍人にそれを任せてはいけない。
交渉のテーブルに軍人がついたときのことを、ミャンマーの事情で知ったはずなのではなかったか。
終わった後の責任を問うのは、常任理事国ではなく、今の状況をほぼリアルタイムで見ることができる私たちだし、誠に遺憾でございます、と言えるのは私たちではなく、政治家。

世界は同情では助けてくれない。利得で手を貸す。
何故欧米は正義なのか。NATOが何をしようとしているのか、ロシアは何故国際的な批判を浴びるのを承知で侵攻したのか。
様々な報道やリアルタイムの映像が飛び交う。
それが真実かどうかはさして問題ではなく、そういうことが起きているということそのものが大切。
報道や映像を見ても、納得する答えは出ないし、出してはいけない。

We are the worldに類似したメッセージを掲げるパフォーマンスを見て、隣の家にRPG-7がぶち込まれた人はどう思うだろう。

”戦争がダメなのは私たちもわかっている。
何故私の家族を助けてくれなかった。”

テレビの前で泣き叫ぶ映像だけでなく、笑顔も涙もない悲痛な言葉をどこかで耳にしたとき、傷つくのは私たちの中の一体何なのだろう。

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