☆『闘病記』を平手打ちした話

闘病記が嫌いだ。

壮絶な闘病を経て今私たちに命の大切さを教える、生きた証を残す、自分の人生を生きろなどのキャッチコピーが帯にでる。

病気に至るまでの経緯、治療の経緯、あらゆるものを諦めなければならない過程、家族や友人との関係、葛藤。最後には悟った「生きるとは」の言葉がまるで神様からの言葉のように語られる。

死地から舞い戻った上での悟りか。

主人公が亡くなっていればあとがきには家族の言葉が出る。

元も子もないが、そこに「明日」はない。

言いっぱなしである。

ほとんどが自己満足の紙面で締められており、反論や批判もしょうがない。だって本人いなければ検証のしようがないし、徹底した主観だから。

そこに対話はない。

ちょっと詰めば「お前は私と同じようなう経験をしてきたのか?どうなんだ?」と頭の中の筆者が詰め寄る。

まぁしてきましたが。

「お前と俺は違うだろ」と。

その言葉を結論に持っていかれた時点で会話は終了だ。

その言葉は前提であって、結論にもっていってはいけない。すべての会話をシャットアウトさせる言葉だ。

徹底して考えたい。

思春期から「一体いつになったら僕は死ぬのか!」と叫んだ。

気分としては、「はい、死刑!やっぱちょっと待ってねー」を何度も繰り返されてるような感じ。

生き続けることは、こういう経験を重ねると言う意味で非常にリスキーなことだ。

もういっそ殺してくれよ、と思ったことは数知れず。

ただ、諦めとは少し違う。

とっくに覚悟はできてるからさっさとお迎えおいでよ、という感じ。

覚悟はできてる、と言ったが言った後からちょっと違うかと思い始める。

僕が死んだところで、世界は何も変わらない。せいぜい身近な人が1人いなくなるぐらいだ。

その人との近さにもよるが、それこそ毎日、毎週、定期的に顔を合わせていない限り、常なる虚無感には見舞われないのではないだろうか。

もっともらしい命の語りにはうんざりしている。

その人が残した言葉は、その言葉を聞いた人だけのものだし、宛てたLINEの文面もそのLINEを送られた人だけのものだ。

何十年、何百年と私たちに影響を与える偉人の言葉にそういう言葉をあまり聞かない。

シェイクスピア、生きた証を語る!

マルクス、命を賭して悟った経験が今現在に蘇る!

こんなのがあったら読むだろうか。いや、別の意味で面白そうではあるけど。

自分が語れなくなった「今」がなくなった時点で、その人は終わりなのだ。

だから僕は闘病記が嫌いだ。

その枠を、生きてる筆者たちに与えることが、死者の最後の引き際ではないかと思うから。


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