人生最後の椅子の見つけ方
自己実現のツールとしての椅子
「椅子は自己実現のための道具の1つである。」
尊敬する家具デザイナーの方と椅子の話をしていた時、彼の口から出た言葉でした。
その場では、素直に受けとめることができましたが、その後、言葉の意味を考え始めると理解が追いつかず、彼の発した言葉だけが私の半歩前を歩き続けました。
考え続けることで、追いつけるのであれば、答えの尻尾を掴むまで考えてみようと思いました。
まずは、「自己実現」の正しい意味を知りたいと思い、調べました。
折りに触れ、耳にする言葉ですが、その意味を正確に説明することは難しく、少なくとも私にはできませんでした。
私にとって人生の究極の目標は何だろう。
究極とまで言われると難しく、思考がそこで止まってしまいます。
自己実現のツールとしての椅子を中心に人生を振り返り、究極の目標のために自分が何をしてきたたのかを検証することで、言葉の意味に近づきたいと思います。
同時に今回のテーマである人生最後の椅子の見つけ方についての考察をご紹介します。
ハンス・J・ウェグナー Yチェア
我が家には今、4種類6脚の椅子があります。
1つ目は、夫と2人で暮らしていた頃、買い求めたハンス・J・ウェグナーのYチェア。
1950年に作られたデンマークの名作椅子です。
マイチェアとして、夫は木部が黒のタイプを私はビーチを選び、座面はナチュラルで統一しました。
数年前、傷んだ座面を張り替えた時、座面をナチュラルから黒に変更し、今に至っています。
私にとって自分の意思で選んだファーストチェア。
この椅子を選んだ大きな理由は、住宅雑誌に載っていた1枚の写真でした。
建築家安藤忠雄が手掛けた初期の作品である、一般住宅のインテリアを切り取った写真に写っていたのがYチェアでした。
カラー写真でありながら、モノクローム画像のような空間に置かれたナチュラル色のチェアに惹きつけられました。
「美しい」
語彙力が足りないとは思いますが、本当に心が揺さぶられた時、装飾のないシンプルな言葉だけが口の端に上ることを知りました。
写真を見たのは、住宅メーカーでインテリアコーディネーターの職について間もない20代前半だったと思います。
実際にYチェアを手に入れたのは、30代になってからなので、10年近い歳月が経っていました。
もちろん、20代の私には高すぎる椅子でしたが、それ以上にこの椅子に似合う人になりたいと思いました。
椅子に似合う人は、正しい日本語の使い方ではないかもしれませんが、Yチェアの持つ美しさと毅然とした空気感に対峙できる人でありたいと漠然と思いました。
大学を卒業して、勤務先の住宅メーカーでインテリアコーディネーターとして経験を積む過程で、いつも心にあったのは、先に紹介した安藤忠雄が設計した住宅のインテリアを紹介した写真でした。
憧れの人に近づきたい。
インテリアの仕事をもっともっと頑張りたいと思う気持ちが、このYチェアを自分のもとに引き寄せたのだと思います。
自己実現が、人を成長させる為の動機だと捉えた場合、ファーストチェアに選んだYチェアは成長の第一歩だったと思います。
川上 元美 クォード ラックス(カンディハウス)
2つ目の椅子は、日本のメーカー、カンディハウスで購入したクォードラックスシリーズのアームチェア。
カンディハウスは、1968年に北海道・旭川市で生まれた家具メーカーです。
日本生まれの日本人のための家具を数多く提案してきました。
仕事を通して、その存在と企業理念を知ることができ、さらに旭川市にある家具工場にも出向きました。
併設するショールームで出会ったのが、川上元美デザインのクォードラックスシリーズでした。
川上元美の名前を知ったのは、家具メーカー、アルフレックスの店舗でした。
仕事で訪れたショールームで見た椅子のデザインに強く惹かれました。
NTと名付けられたダイニングチェアは、本体はオーク材、背当てと座面は本革のテープで格子状に編まれています。
本体の材や色はもちろん、革テープの色にもバリエーションがありました。
本革で編まれた座面が、硬く、背中に当たる部分にも違和感があります。
デザインは間違いなく、素敵なのですが座り心地は、私には合わないと感じました。
同じ頃、TOTOのショールームで川上元美デザインのキッチンセットを見る機会があり、その美しさにため息がでました。
彼の名前が記憶に刷り込まれました。
その後、息子達が大きくなり、ダイニングテーブルとダイニングチェアを買い換えるタイミングで出会ったのが、川上元美のクォードラックスシリーズでした。
ショップの方から説明されたデザインコンセプトが素晴らしく、日本人にとって「真の贅沢とは?」を具現化した家具とのことでした。
肘付きアームチェアの色は黒、素材は無垢材で浮造り仕上げ。
椅子の背板部分が、この浮造り仕上げになっています。
肘掛け部分は、光沢のあるフラットな仕上げで1つの椅子の中に違う光を纏う黒が共生しています。
特筆すべきは、座面の仕上げがホースヘアであること。
ホースヘアは、馬の尾の毛を織ったもので非常に強く、100年張り替える必要がないと説明されました。
さすがに中学生の息子でも100年は使わないよね。と思いながら説明を聞いていたことを今でも鮮明に思い出します。
100年というワードが印象的だったからです。
光沢のある栗茶色の座面は、10年少し時を重ねた今も、まったく傷みはありません。
多少毛羽立ちはありますが、色褪せることも、破れることもなく今もその存在感は健在です。
Yチェアに比べると座り心地の良さでは引けを取るかもしれませんが、今でも独立した2人の息子が帰省した際は、彼らのマイチェアとして活躍しています。
川上元美というデザイナーとそのデザインに惹かれて購入した椅子です。
ただ、10年の時を経た今でも色褪せることなく、マットだった木部は使いこむ中で、光沢を孕むようになりました。
既に廃盤となり、クォードラックスのシリーズを知らない人も多いですが、本当に購入して良かったと思う椅子です。
この椅子は、中学生の息子が高校、大学、社会人になり独立するまでの数年間、彼らに寄り添ってくれた同志のような存在です。
子供たちのために買った椅子でしたが、彼らが独立する際にファーストチェアとして選んだのは、ゲーミングチェアでした。
毎日ではないですが、週に何度かは在宅勤務のある現代の環境では、彼らの選択は間違ってはいないと思います。
アルヴァ・アアルトのスツール60
3つ目は、北欧の建築家であるアルヴァ・アアルトがデザインしたスツール60。
座面にゼブラ柄の布を貼ったアアルトの代表作です。
コンパクトなこのスツール、普段はデスクコーナーの下に
ちょこんと収まっています。
家族以外のお客様が来た時、大活躍してくれる存在です。
クォードラックスの黒のダイニングテーブルにもしっくり合うのは、ゼブラ柄に使われている黒色が効いているからだと思います。
Yチェアと並べてみても、同じ北欧つながりで違和感を感じることはありません。
こちらのスツール60は、デザインの美しさだけで選びました。
美術館や映画で見たアアルトの世界観に憧れ、焦がれて選んだ椅子です。
心から好きだと思えるものを、自分視点で選び取ることができる状況を自己実現と呼ぶのであれば、私にとってこのスツール60は自己実現のツールとしての椅子だと思います。
オブジェとして存在する椅子
4つ目が、椅子としての機能を持たないオブジェとしての椅子です。
結婚して間もない時、一目惚れして自宅まで連れ帰った椅子です。
椅子が座るための道具だとすれば、このハイバッグチェアは、家具ではありません。
巨大なオブジェとして、長らく我が家の玄関に鎮座しています。
座面は、絵画を抱えていることが多く、誰一人座るものだと捉えたことはないと思います。
人生最後の椅子を探す
先日、お客様から「人生最後の椅子を探したい。」とご相談を受けました。
最初に買う椅子について書かれた本や記事を目にしたことはありますが、人生最後の椅子については見たことがありませんでした。
とても大きな課題を与えられ、考える機会をもらえました。
また同時に人には、程度の差はあれど先入観があります。
例えば、座り心地の良さを数値化するために大学の研究室で取ったデータを元にいかに座り心地にこだわったかと説明しても、まったく興味を示さない人もいます。
私自身、座り心地という曖昧模糊な感覚を数字で説明されても心に響かないかもしれません。
感覚は、その人の体型だけでなく、年齢やその時の体調など様々な要素が組み合わさった状態でジャッジされるものだと思います。
数字やデータは裏付けにはなりますが、それは販売する側のものであって、万人のお客様が興味を惹くものではないと思います。
椅子に対するこだわりは人それぞれです。
デザインなのか、座り心地なのか、また死ぬ間際まで座っていたいロッキングチェアのような椅子なのか。
私が見つけた人生最後の椅子は、ファーストチェアとして選んだYチェアです。
究極とは言えませんが、人生の目標を決めるきっかけになっただけでなく、寄り添い続け、背中を押し続けてくれた椅子です。
尊敬する建築家の背中を追いかけ、走り続けた20代。
仕事が忙しいことなど何の苦にもならなりませんでした。
セミナーや講演会にも積極的に参加し、学ぶことが楽しかったからです。
新商品の発表会やイベントにも会社のおかげで参加する機会に恵まれました。
昔から、素直なところが取り柄だと言われてきました。
その性格ゆえ、吸収し納得したことは、実践してみました。
結果、大きな仕事を任せられるようになりました。
1枚の写真と一脚の椅子が、私を高みに連れて行ってくれたと信じています。
結婚して、初めて手に入れたYチェアは、30代のサラリーマン夫婦にとっては高額でした。
でも間違いのない選択だったと信じています。
使い続けているうちに、座面が身体に柔らかく馴染み、くたっとしてきました。
私にとって唯一無二の椅子。
ただ、座面に使われているペーパーコードの編み目が緩くなり、隙間が目立つようになったタイミングで張り替えを
検討しました。
張り替えは、購入した店舗に依頼しました。
その際に座面の色をナチュラルから黒に変更しました。
黒にしたのは、後に購入したクォードラックスのダイニングテーブルの黒に合わせるため、かつナチュラルに合わせる黒が美しいと考えたからです。
ただ張り替えたばかりの座面は硬く、座り心地がずいぶん変わってしまいました。
身体に馴染まないため、しばらく座っていると腰が痛くなってしまいました。
張り替えたことは失敗だったかもしれないと反省しました。
その後、偶然店頭でYチェア専用の座クッションの存在を知りました。
本革製で色は黒。
イメージを壊さない上に、座り心地も良い方向に変わりそうです。
すぐに購入を決め、今に至っています。
多分、このまま使い続け、人生最後の椅子になるのかと思います。
その美しい佇まいに惹かれ、一目惚れした椅子でしたが、長く使ううちにかけがえのない存在になりました。
椅子に対して持っ価値観は、人生の終い方をどう考えるかではないかと思います。
私にとって椅子とは、自己実現のためのツールです。
今までも、これからもずっとそうでありたいと思います。