パメラ
パリのファッションウィークに現れたパメラ・アンダーソンはすっぴんだった。
パメラといえば、『プレイボーイ』誌の表紙や、ドラマ『ベイウォッチ』の水着姿など、セクシーなイメージに彩られた女性だ。
セックスシンボルの一人だったとも言える。
これまでの彼女は濃いアイラインに、輪郭をしっかり描いたリップメイク、たっぷり膨らませて鏝で巻いたブロンドヘア、身体のラインを強調したドレスで現れるのが常だった。
しかし、世界中の注目が集まるパリのファッションウィーク、数多のフラッシュの中、着飾ったセレブ達と並ぶ素顔の彼女は、これまでのパメラ像を見事に刷新した。
ナチュラルである。すっぴんなのだから、ナチュラルという表現はありきたりかもしれない。しかしそれ以上にそのノーメイクスタイルは反逆的であった。
そう、女性は「こうあるべき」という規範に真っ向から疑問を呈している。
若々しく、美しく、性的でいること。
この社会のメッセージを受け取らなかった女性がいるだろうか。幼い頃から、わたしたちはこの思想を浴びせられてきた。
若い女性、美しい女性であることは男性社会では「力」であるとたくさんの少女たちが理解した。わたしたち、彼女たちはその「力」で社会を渡っていく。
しかし、気付くときがくる。
わたしは、誰?と。
世界では女性が歳を重ねることをポジティブに捉える流れになってきた。
ファッション誌(VOGUE、ハーパース・バザーなど)は50代以降のモデル(今はモデルが30を超えても活躍できる!)や女優が表紙を飾っている。
年齢の多様さに加えて、ファッション誌は体型の多様さ、障害の有無にもスポットを当て始めている。
しばらく前から修正なしの写真をインスタグラムに載せる女性が増えた。
皺や、脇腹のたるみ、体毛。
隠すべき、黙殺されるべきだとされた「ウィークポイント」。
目をひそめる人もいる。見たくないと。
男性ばかりではない、同性からも反発は強い。
いいえ。
いいえ、わたしたちは発信する。
女性が自らの姿形を思うがままにコントロールできる社会。百人の女性がいれば百通りの人生がある。百個の想いがある。
他人に侵されてはならない権利。
わたしなどは小学生の頃からティーン誌にダイエットの広告がでかでかと載せられていたのを見てきた世代だ。さらには脱毛。二重まぶたの整形手術。
そうしないといけないという圧力は確かにあった。(現在も媒体を変えてそれは続いている。電車内の広告はまだあるのだろうか)
TVでも高齢女性を揶揄するようなバラエティ番組があった。デフォルメされた高齢女性は一挙手一投足が観客の笑いを誘う。
一方若い女性はビキニで背景になっていた。にこやかに。断絶。
酒の席になると、セクハラは日常茶飯事だった。年上の女性たちは「気にした方が負け、流してしまいなさい」と言った。わたしたちよりはるかに男性の締めつけが強かった時代を生きてきた彼女たちはそうしてきたのだ。
アドバイスではあった。
先進的とは言えない、諦念から生まれた。
それに倣ったことがないとは言わない。
しかし。
おかしい。
なぜ、セクハラする側が満足してわたしたちが口惜しさを押し殺さなければならないのか。
わたしはいま、ハラスメントに気を遣う。敏感に周囲を見渡している。
自分はさておき、若い世代にもうこの負の連鎖を引き継ぎたくないから。
時代とは更新していくものだ。
昔にしがみつくな。
パメラはメイクを否定しているわけではない。ノーメイクでいることが自分らしいと思っているだけだ。メイクをしたいときはする。
それくらい自由自在でいるのがナチュラルだ。
自分に自信を持つこと。自らを尊重すること。
彼女のパンクなすっぴんには、世界中の女性たちが賞賛を送った。
パメラはこれまで男性社会において、女性の魅力で力をふるってきたと思われていたから、驚く人も多かったのではないか。
彼女はロールモデルになろうとしている。
女性の生き方にぽんと疑問を呈してみせた。
そもそもパメラは、亡きヴィヴィアン・ウエストウッドと交流もあり、ブランドの広告を飾ったこともある。
パンクの女王に愛されたのは、セクシーボムには収まらない、知的で反逆的なナチュラルウーマンだったのだ。
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