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あなたの「正解」、わたしの「責任」

この間、久しぶりのお友達と食事に行った。
以前はよく会っていて、別に何のわだかまりも疎遠になる理由もないけど、最近会う機会が減っていたお友達。
何となく、たまに会うことがあると「今度またご飯に行こうね」と言ってお互いに行動しないままになっていたのが気になって
(というより具体行動に移さない自分にストレスが出てきて)
久しぶりに食事に誘った。

大体予想していたような話をお互いにして、でも新しい話題や新しい発見もあって
ちょっと前に戻ったような、でも前と同じではないお互いの存在と関係性は、色んな意味で面白いなぁと思っていたの。

翌朝、目が覚めた時にそのお友達との会話や雰囲気を思い出しながら
「私は彼女に、彼女の正解を言ってあげれてたかなぁ」っていう言葉がふと意識に上がってきて
一瞬、私の返した言葉たちの正誤を精査しようとしていて、はたと立ち止まった。
そしてぎょっとした。

だって、相手が誰でどんな関係であれ
「相手の正解」を私が出してあげる なんて、無理じゃない?てかそもそもそんな必要、ないよね?

優しくて思いやりが強く、それに対する責任感が強い人や、自分に自信がない人なんかは
共感と同調を同じ線上で、一緒にして考えがちだと思うの。
心の中ではちょっと葛藤や反論があるのに、飲み込んでしまったり賛同してしまったり。
相手との関係性を円滑にすることを自分だけの仕事のように感じて、一所懸命相手が「傷つかない」「居心地がいい」言葉を返そうとしたり。

私はちょっとだけ、そういうところがあって
それは、相手の表情や動きの小さな変化から相手の感情を読み取ってしまう習慣が(自己防衛の手段として)子供のころからあったからで、
変化が分かるが故に、故意に相手を傷つけてはいけないと思ってきたからだと思う。
(逆に、ちょっとセンシティブだった私は、無自覚に「傷つけられた」と感じてしまうことが多かった)。
(そして、他人から「傷つけられる」ことはあり得ないって気付いたお話は、また別の機会に^^)

相手に優しくできたり共感できることはめちゃくちゃ素敵なことで
強くないとできないことで
だからあなたのその心の力とベクトルはちょう自分で褒めて大切にしてほしい。

で、1つだけ気を付けていたいのが
相手は私ではない ということなんだよね。

私ではないから、相手の「本当の」正解は私が出すことはできない問題である、ということ。
それがたまたま正解だったら、「ふーんそうなんだなー」くらいだし、不正解だったとしてもそれは私の解くべき答案じゃない。

そもそも「本当」ってなに?って考えた時
私の立ち位置から見た「本当」はひょっとしなくても、私が思ってるだけの相手の本当で、相手と私は視点が絶対違う。
だからある意味「真実は闇の中」なんだよね。

もし相手から「私の正解通りに回答してくれないの、なんで?」て迫られることがあったとしたら
その人とはそこまでの関係ということでいいのではないかしら。
お互いに正解が分からないという前提のもとで、それでもお互いに素敵だと思える関係を作り続けようとすることが、
友達だったり恋人だったり家族だったりするから。

私が責任を持つべきところはあくまで私の範囲。うん。そうなんだよね。

あらためて、今まで30年近く、私が私に課してきた他人への責任の習慣は根深かったんだなぁとしみじみした、そんな朝でした。

#コラム #コミュニケーション #人間関係

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