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全てが「許可制」だと思ってる

自分がほんとにやなやつに見られそうで
あんまり人に話せなかったことがある。

いつの頃からか分からないけど、ライフイベントてきなものについて
「許可制」「資格制」「レベル制」だと思っているところがあるっていう、話。

例えば、子供を産むということ。
まず私は結婚もしていないのだけど、そういう前提(?)とは別に「私には認められてない」ことだと、どこかで思っていた。
自分の面倒すら完璧にみれてないのに、人間を1人産んで育てる資格なんてないと思ってた。
そんな責任は負えないし、負っちゃいけないって。

別にどんな理由があっても言い訳があっても、そういうのに資格はなくてただ決めるか選ぶかみたいな話なんだと思うけど
完全無欠or だれか世界の神様みたいなのに許可されるor 国家資格みたいなのをもらえてないのに
私には許されてるわけないじゃん?みたいな気持ちがあった。

なぜかというと、
「みんな」ができてる(らしい)ことが私は達成できていない=私は欠陥品
という事態を認めたくなくて
「許されてない」と思うことで納得しようとしてたから。
出産だけでなく、あらゆる「常識」「みんな」みたいなもので、私が「できてない」ことについて、そう思ってるようなところがある。
(結婚とか、高い社交性とか、女の子らしさとか、文才とか、高偏差値とか、認められる仕事とか、、、)

そのうち脳内では、あの子は私よりレベルが下なのにどうしてそれをしていいと思えたんだろ?なんで決断できたんだろ?
みたいな浅はかすぎる疑問が、脳内で勝手に議題に上がってたりする。(ほんとごめんなさい…!)

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高校受験の時、私の受験校を聞きつけた友人がクラスに怒鳴り込んできて
「あんたみたいな偏差値成金が○○高校に受かるわけない!」と叫んで走り去って行ったことがある。
後から知ったのだけど、彼女はその高校の推薦入試に不合格で、一般受験では1つランクを下げて受験することを決めていたらしい。
(※地元は、大半が公立校志望で私立は滑り止め、どちらも1校しか受けられない、ゆえにさほどみんな冒険しない、みたいな受験システム)

その時「行きたいなら受験すればいいのに、なんで私に怒鳴るんだろ?(それにしても偏差値成金ってすごいワードだな…)」とちょっと嫌な思いをしたのだけど
それよりひどい、レベルがどうのみたいな低俗な話が、「常識」「みんな」からたくさんあぶれている(と思ってる)私の脳内では大人になればなるほど量産されていたわけだ。

きっと彼女も、自分のプライドを守るために、自分より下(だと思いたい)の私が自分より上の高校(と言っても偏差値はさほど変わらない)に行く可能性を否定したくて否定したくて、なんとか現実を変えたくて、そういう行動をとったんだと思う。
今の私も変わらない。

自分ができてることは価値がなくて誰でもできて当たり前だと思ってて、
「みんな」ができて自分がそうじゃないことは「欠陥」のように感じてるから、欠陥品の自分は愛されないし認められないと思ってるから、
その心を守るために、プライドや不安とシーソーのバランスを保つために
自分にはその資格がそもそもないって理由をつけていたり、事前に誰かのレベルを脳内で下げることで安心しようとしたり、するんだよね。

そもそも「みんな」なんて存在しないし、他人には個性や全員が違う価値を持ってるってことを伝えられるのに、
自分には、言えない。全然、言えない。

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最近、だいぶ自分にやさしくなってきたと思ってたけど、
みんな」や「常識」の中での「成績」「ランク」みたいな呪縛は根が深いなぁ。
そんなの大概、親世代や少し以前の、もしくは多様性を認められない人が一所懸命作ってきた幻想なのにね。

申し訳なさや不安や(いらない方の)プライドを減らしていくと、その負荷をバランスさせるために自分や他人にレッテルを貼る必要はなくなる。
いつも重さが変わるシーソーだってことはわかってるから。
ということは、もっともっと、私は自分を認めて優しくできる余地があるということ。

「許されてない」を見つけるたびに、心からドロドロと血が出てるのに気づくから。
また見つけたら、優しくしてあげたいなーと思う^^

#note #コラム #自己肯定感 #レッテル

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